「しくしく、しくしく……」
ベルティーナが、泣いている――
「とっても、美味しいですぅ~……しくしく」
――美味し過ぎて。
ほっぺた、めっちゃぱんぱんに膨らませて。
リスか、お前は。
というわけで、第一回区民運動会実行委員会が行われた翌日。俺は四十二区パン工房にてパンを焼いていた。
あったんだなぁ、四十二区にパン工房。いや、そりゃあるだろって話なんだが……
試作を行うということで、本職のパン職人には出て行ってもらった。
本日は一日、パン工房への立ち入り禁止で、さらには情報源秘匿の関係で、ここで試作を行うということすら伝えられていないのだそうだ。
なんか気の毒だな。
まぁ、パン工房は教会の管理物なので仕方ないことなのかもしれないけれど。
聞いた話によると、「教会の監査の一環で、石窯の検査をする」的な意味合いの『方便』を使ったようだ。
もちろん、嘘を禁忌とする精霊教会の者が嘘など吐くはずもなく、伝えられた言葉は、「特例措置をお願いします」という短い言葉だけだったようだ。
その短いワードで「すべて察しろ」ということらしい。
幸いなのは、パン職人はベルティーナのことをよく知っているらしく、工房を好きに使っても文句など言わないであろう人物であるということ。
とても察しのいい人らしく、その昔俺がパンとパン窯の密造を行った際も、深く突っ込まず事を荒立てずに内々で済ませてくれたらしい。
平たく言うと、『な~んにも知らないふり』をしてくれたのだとか。
そこら辺は、きっとベルティーナの人徳の成せる業なのだろう。
ってことで、ベルティーナの責任で、俺は好き勝手に石窯や工房を使わせてもらっているのだが……
「ヤシロさん。このさくさくもちもちふっわふわのパンをもっと焼いてください! これは特にじっくりと検査したいです!」
……一番好き勝手やっているのはこのシスターだな。絶対。
と、そんなほっぺたぱんぱんシスターの隣を見ると……
「……お口の中で、わっしょいわっしょい……それはもう、わっしょいわっしょいしています」
もきゅもきゅと何度もパンを咀嚼して、小麦の味と香りを堪能しているジネットがいた。目尻にうっすらと涙が浮かんでいる。
……泣くほどのことかよ。
そして、お前もほっぺたぱんぱんだな。パンだけにって? やかましいわ。
「パン種がそろそろなくなりそうだな」
「手伝います! パンを作れる機会なんてそうそうありませんから、今のうちに!」
「……マグダは作るのも食べるのも全力投球」
「はいっ、はいです! あたしも手伝うです!」
秘匿なはずの新しいパンの試作会。
その会場となったパン工房には、お馴染みの連中がわんさかと詰めかけていた。
いいんだよ。情報が四十二区の外にさえ漏れなければ。
そもそも、隠そうとしたところで、理由も告げずに一日パン工房を貸せとか言われたら、パン職人だって、「あ。あぁ~、そういうことね」って状況を察するだろうし、俺が理由も告げずに一日姿をくらませたら「あ、何かやってんだな」ってほとんどのヤツに勘付かれるっつの。
おまけに、帰ってきた俺が全身からパンの香りを漂わせていれば……な?
つまり、秘密にするなど土台無理なのだ。
重要なのは、俺が伝授した物を「悪用しようとする者」にその情報が伝わらないことだ。
内々での情報漏洩なんて気にする必要はない。
「ヤシロさん。こんな感じで大丈夫ですか?」
「おぅ。それで生地がまとまったらボウルに入れて、濡れ布巾を被せて発酵させてくれ」
「はい!」
「あぁ、ちょっと待って! 『生地がまとまったらボウルに入れて、濡れ布巾を……』」
エステラが賢明に手順を書き記している。
ベルティーナが『食』に全神経を集中しているため、事務作業が全部領主にぶん投げられているのだ。
まぁ、エステラの方が得意だろうしな、こういう仕事。
「ねぇ、ナタリア。ベッコを呼んできてよ。イラストを入れればもっと分かりやすくなるからさ」
「かしこまりました。すぐに呼んでまいります……パンをお腹いっぱい食べた後で」
「今すぐ行ってきてくれるかな!?」
欲張りな子供のように両手にそれぞれ別のパンを持ったナタリアが、エステラに強制退場させられていく。
去年の今頃までは、頼りになる給仕長だなぁとか思ってたのになぁ……今やすっかり、だな。
「……ヤシロ。中身の確認を頼みたい」
「こっちもお願いです! たぶん美味しく出来てるです!」
「へいへい! ちょっと持ってきてくれ」
パンの中に詰めるものも、味にはこだわっておきたい。
ここの善し悪しで完成度が変わるからな。
それにしても……、本当に慌ただしい。
昨日の夜から仕込みを行い、今日は早朝からずっとパン工房に籠もりっきりで、ずっと立ちっぱのずっと動きっぱだ。
汗が落ちないように、頭にタオルを巻いて髪を覆う。
肉体労働だな、もはや。
しかしながら、こいつは教会の収入減を救うための一大プロジェクトだ。四十二区を挙げて取り組むほどの大事なのだ、これは。
それこそ、一日の業務を完全に休みにして全精力を注ぎ込むほどの。
「マグダたん! お昼食べに来たッスー!」
「……お好み焼きがお勧め。……あ、いらっしゃいませ」
「はぁぁあん! 売りたい気持ちが前のめりなマグダたん、マジ天使ッスー!」
……と、まぁ。うん。パン工房でもいつもどおりのやりとりが繰り返されているけども、今は一大プロジェクトの真っ只中なのだ。
そんなわけで、今日はパンの試作にかかりきりになるため、陽だまり亭は休み……になると思った? 残念、出張販売でしたぁ! ……休まないんだよなぁ、ウチの店長。この前休んだから、きっとあと数十年休みなしなんじゃないだろうか?
今、陽だまり亭に行くと、ドアにこんな貼り紙がしてある。
『本日、新しいパン試作のため、陽だまり亭はパン工房にて出張販売を行います』
……秘匿って、何かね?
そんなわけで、本日の陽だまり亭は二号店七号店での調理販売を行っている。
パン工房はパン屋の店舗も持っているため、その店先に屋台を置いている。
パン屋の店舗のすぐ奥がパン工房になっており、店に入れば否応なく焼けたパンの香りが客の鼻に届く。
しかしながら、これはあくまで教会の検査。今日ここで作ったパンを販売するわけにはいかない。売るのはいつもの屋台メニューに限定されている。
焼きたてのパンのいい香りを嗅がせて、見せるだけ見せて、おあずけだ。
「なんか、物凄く美味しそうッスね、そのパン!?」
「いやぁ、悪いなウーマロ。関係者以外に食わせるわけにはいかないんだ」
「そこをなんとか! オイラ、最早陽だまり亭の関係者じゃないッスか!」
「そう言われてもなぁ……あぁ、そういえば中庭に屋根、つけたかったんだよなぁ~」
「やるッスから! もうなんだって言ってくれていいッスから!」
おぉ!
なんということでしょう。
図らずも、欲しかった屋根の建設が約束されてしまった。
いやぁ、ラッキーラッキー。
領主の金で材料を揃え、他人の店の燃料を使って焼いたパンで、陽だまり亭の中庭に屋根がつくことになった。
日頃の行いって、大事なんだなぁ。うん。きっとこれ、いつも頑張っている俺へのご褒美だな。うん。
「じゃあ、特別にこの『アンパン』を食わせてやろう」
「ホントッスか!?」
「あぁ。『マグダがお勧めしていたお好み焼きではなく、マグダが一言もお勧めしていないアンパン』を食わせてやるよ」
「ちょっ!? なんッスか、その表現!?」
「マグダ~、『マグダのお勧めを完全無視するウーマロ』に『マグダがお勧めしていないアンパン』を一つやってくれ」
「……分かった。『マグダの話なんか聞く耳も持っていないウーマロ』に、『マグダ自慢の手料理ではない、マグダが一切関わってもいないアンパン』をご提供する」
「お好み焼きも欲しいッス! お好み焼きとそのアンパンをいただくッス!」
「……「やれやれ、まったくウーマロは欲張りさんだなぁ」」
「くぅう……ヤシロさんと息ぴったりな小悪魔マグダたん……でもやっぱり天使ッス!」
こいつはもう、言えばなんでもしてくれるようになったんだな。
お好み焼きとアンパンって……炭水化物多いわ。
というわけで、焼きたてのアンパンをウーマロに食わせる。
そう! アンパンだ!
基本的なパンとして丸いパンと食パン、それとバター多めのロールパンを教え、その後応用編として、アンパン、クリームパン、ジャムパン、チョココロネ、メロンパンを伝授した。
……結果、食パンとか丸パンがすみっこに追いやられてしまった。……お子様舌どもめ。甘い物にばかりに群がりやがって。
「うまー! なんッスか、これ!? こんなパン、食べたことないッス!」
粒あんがぎっしり詰まったアンパンに齧りつき、ウーマロが驚天動地を全身で表している。
攻撃力重視の従来の黒パン(攻撃力を高めるために硬くしたとしか思えない出来映え)などとは比較にならない、最早別次元の食べ物であるパンだ。
そりゃあ美味いだろうよ。
「うふふ。アンパンで驚いているようでは、このメロンパンを食べたら失神してしまいますよ、ウーマロさん」
工房の隅に陣取って、ずっとメロンパンを貪り続けているベルティーナ。
相当気に入ったようで、メロンパンばっかり食べている。
いつもなら、どれもこれも美味しいと満遍なく食べまくるのに。……すげぇな、メロンパン。食の帝王の胃袋を鷲掴みじゃねぇか。
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