くだらない話をして馬車の中の空気が軽くなってきた頃、不意にルシアが口を開いた。
「ミリィたん」
俺には絶対向けないような優しい笑みをミリィに向けるルシア。
対面に座るミリィを見つめて、穏やかな声で問いかける。
「もう、馬車に乗るのは怖くないか?」
「ぇ……」
ミリィはかつて、馬車に乗ることに忌避感を覚えていた。
それは、古くからこの街に蔓延っていた『亜人差別』という空気や雰囲気から来るもので、同乗者が俺たちしかいなくとも随分と遠慮をしていた。
こんな豪華な六人乗りの馬車なんか、乗るだけでぷるぷる震えていた。
今は、随分と落ち着いて見える。
「ぁ……それは、ぁの……みんなが、……るしあさんも、とってもやさしくしてくれたから……ぁの……ぁりがと、ね?」
「よし、もらって帰る!」
「ギルベルタ!」
「心得た、私は。手のツボ、友達のヤシロ直伝の」
「いたぁぁあーい!?」
親指と人差し指の間、骨と骨の間付近を親指で思いっきりぐりっとするとかなり痛い。疲れ目のツボだ。
「き、貴様は、足だけでなく手のツボとやらまで知っているのか? このツボイワシ!」
「なんだその保存食? 初耳だな」
ツボにイワシがびっしり。
乾燥してなきゃすぐダメになりそうだ。
「ミリィたんが可愛過ぎるのだ! 連れて帰りたくなるのは当然だろう!」
「その気持ちは分かる」
「ぁう……分からなぃ、で」
水着などが入った大きなカバンを抱えて身を隠そうとするミリィ。
人見知りなその様子は、まるで深い森の奥に住まう森の妖精のようだ。
森で遭遇したら絶対連れて帰る。
乱獲する。
「三十五区の虫人族たちがな、花園の在り方を見直してみてはどうかと意見を出してきたのだ」
嬉しそうな、むず痒そうな表情を浮かべて、緩む口でルシアが言う。
「花園は虫人族の聖地ではなく、誰でも――人間でも虫人族でも獣人族でも、貴族でも庶民でも、誰でも――気軽に来られる場所にしたいと。……彼らの方から大きく歩み寄ってきてくれた。あの結婚式の影響が大きかったのだろう。それから、花園で行った出店がな」
これまで、花園はほとんど虫人族たち専用で、人間が入る際には十分に注意を払う必要があった。
それをやめようと、虫人族の方から申し出てきたそうだ。
「人間との交流にな、興味があるのだそうだ」
悲劇の象徴とされていたシラハが、その悲劇と言われた結婚を心から望んでいた。そして、今現在もとても幸せに暮らしている。
そんな状況が虫人族たちの心を変化させたのだろう。
「結婚式をしたいと言う者までいてな。今度、三十五区のシスターが、シスターベルティーナに教えを乞いに来るそうだ。見かけた際はよろしくしてやってほしい」
それらの言葉は、すべてミリィに向かって発せられていた。
結婚式の時は、何かとミリィを連れて三十五区へ行っていたしな。
ミリィはあの時、ルシアや三十五区と深く関わっていた。
その時の礼――を装って、俺に礼を言っているのだろう。素直じゃないルシアらしいやり方だ。
そんなもんは、ミリィとエステラにくれてやればいいものを。
「また、人間と虫人族の架け橋となってくれないか、ミリィたん。そなたの花と笑顔は、周りを幸せにする力を秘めているのだ」
「ぅん。みりぃに出来ることなら、なんでも」
ミリィも、ルシアの感謝が自分だけに向いていないことを悟ったのか、随分と楽な気持ちで受け止めていたようだ。
俺の顔を見ては、くすくすと笑う。
あんまり見つめると、連れて帰っちゃうぞ。
「また、てんとうむしさんと一緒に遊びに行く、ね」
「あぁ、待っている。そして歓迎する。ミリィたんだけを」
「くすくす」
俺に向かって「んべっ!」と舌を見せるルシアを見て、ミリィが口を押さえて笑い出す。
そうして、和やかな空気の中、馬車の速度が落ちる。
ミリィの家に着いたらしい。
「それじゃあ、送ってくれて、ぁりがとうございます」
馬車を降りてぺこりと頭を下げるミリィ。
ルシアからの強い要求で敬語を使わないようにしているミリィだが、お礼は敬語になっていた。
しかし、ルシアに向ける笑みはエステラや俺たちに向ける笑みと同じで、そんな些細なことがルシアには堪らなく嬉しいのだろう。
「風邪を引かぬようにな。ミリィたんが風邪を引いたら、三十五区から飛んできて付きっきりで看病することになるからな」
「じゃあ、三十五区のみんなのために、温かくして寝る、ね?」
笑みを交わし、ミリィが家に入るのを見送る。
ミリィは何度も振り返り、小さな手を振ってくれた。
……さて、と。
「じゃ、陽だまり亭まで送ってもらおうかな」
ここからが、ルシアの本題だ。
先ほどの感謝の言葉も、機会があれば言おうとしていたのかもしれないが、ここから陽だまり亭までの短い距離を移動するわずかな時間のために俺は呼び出されたのだ。
忠告なのか、苦言なのか、命令なのか……
さて、どんな話が飛び出すかな。
馬車がゆっくりと動き出す。
「そろそろ腹を括る気になったか、カタクチイワシ?」
始まりはそんな質問だった。
「何にだよ?」
「エステラとの結婚だ」
こいつは、また……
「まだそんなこと言ってんのか?」
セロンとウェンディの結婚式が終わった後、こいつは俺にそんな話を振ってきた。
自分の家に弟として養子に入り、エステラの婿になれと。
そうすれば四十二区と三十五区は強固に結びつくからと。
「そんな話は影も形もねぇよ」
「ヘタレが」
「お前みたいに無節操じゃないだけだ」
それに、俺が一方的にどうこう言ってどうにかなる問題でもないだろうが。
こういう話がしたいからエステラを連れてこなかったんだな?
「なんでそこまで俺とエステラをくっつけたがるんだよ」
「四十二区を守るためだ」
「は?」
守る?
俺とエステラが結婚することで?
意味が分からん。
少子化とか、跡継ぎの話か?
「どこぞのバカが大張りきりでその手腕を振るいまくっていることで、四十二区は目覚ましい発展を遂げている」
「おいおい、仮にも領主であるエステラをバカ呼ばわりかよ」
「ふん……白々しい」
うるせぇよ。
別に俺が四十二区を発展させてるわけじゃねぇっつの。
副産物だ、こんなもんは。
俺は、俺の利益のために行動をしているだけだ。
たまに、降りかかってくる火の粉を払ったりしているが。
「ニューロードに、新しい港。その他にも変わった特産品が数多く誕生している。あの下水というものは早晩王族の耳にも入るだろう。少しでも頭の回る者なら、その価値を正確に把握する」
それで、四十二区と友好関係を築く方が得策だと思ってくれれば楽なのだが……世の中とは、得てして平和に回ってくれないものなのだ。
「四十二区は、今や金を生む大樹のような存在だ。『BU』も、外周区の連中の目にもそのように映っているだろう」
四十区や四十一区とは連携していろいろと事業を行っている。
三十五区とも協力することが増えてきた。
その間に存在する三十六区から三十九区の領主とも、結婚式のパレードの際に商談を持ちかけて面識はある。
それらの区は、多少なりとも利益を得ている。四十二区と関わることで。
『BU』の連中はどう思っているかは分からんけどな。
ニューロードと新しい港の誕生で通行税による税収のアップが期待できる、くらいは思っていそうだが。
「その金の成る大樹の守護者は、まだうら若い新米で、しかも――『女の領主』だ。この意味が、分かるか?」
「与しやすいと、舐められると?」
「ふふん。四十二区の事情に少しでも精通すれば、厄介な門番が立ちはだかっていることくらいイヤでも理解するだろう」
その厄介な門番ってのは、もしかしなくても俺のことか?
まぁ、エステラがどこぞのバカに騙されそうになったら、俺がしゃしゃり出て未然に防ぐけどな。
バカにこの四十二区を引っかき回されるわけにはいかないからな。
「罠に嵌めるまでもなく、領主が女であれば正攻法が取れるであろう?」
女領主は婿を取り、跡取りを残す。
エステラがどこかの貴族を婿に迎えれば、そいつが領主になる。
もしくは、そいつは補佐に収まったまま、エステラを都合のいいように動かすかもしれない。エステラの人気を知っていれば、そちらの方が領民との摩擦は少なくて済む。
エステラに取り入ろうなんて考えを巡らせるヤツなら、それくらいのことには思い至るだろう。
……ふん。気に入らねぇな。
「婿にならずとも、エステラを使い物にならなくすれば乗っ取りは容易であろう? 今、四十二区には領主の血縁者が誰もおらぬのだからな」
「それはお前んとこもそうだろうが」
「私とエステラでは、キャリアが違う」
まぁ、ルシアなら大抵のことは一人でなんとか出来るんだろうけど。
「私も新米の頃はいろいろちょっかいをかけられたのだぞ。列を成す求婚者に、執拗な暗殺者」
どっちもうんざりする存在だな。
ちょっと同情してしまいそうだ。
「そして、私の純潔と、女としての尊厳を踏みにじり使い物にならないように画策した暴漢どもの群れ」
「――っ!?」
思わず、感情が表情に出てしまった。
わずかだが、殺気を放ってしまった自覚がある。
こいつが今こうして、俺なんかにそんな話をしているということは、そういった謀は未然に防がれたということだ。
そうでなければ、自分の汚点となり得るそんな重要な話を口にするわけがない。
そして、そんな事案を起こさせないための給仕長なんだしな。
ギルベルタは強い。
あどけない素直な心を持ってはいるが、その腕は一流だ。その部分は信頼できる。
「……ふっ。マグダたんたちの言うことも、あながち大袈裟ではないのだな」
「何がだよ」
「このお人好しが」
「ふん……言ってろ」
勝ち誇ったように口角を持ち上げ、薄い笑みを浮かべるルシア。
けっ、こっち見んな。
何が嬉しいのか、ルシアはその後しばらくくすくすと肩を揺らしていた。
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