泣きながらカレーを食べていたトレーシーとネネのアルバイト期間も無事終わりを迎えた。
いつまでも拘束しておくわけにはいかない。
昼のピークを越えたあたりで二人のお勤めは終了ということとなった。
この後は、一度エステラの館に戻って、領主的な話なんかをしてから、二十七区へと送り届けるのだそうだ。
俺がとどけ~る1号を見に行ったあたりで、一足先に館へと戻ったナタリアがそこら辺の準備を滞りなく行っているはずだ。あとは丸投げでいいだろう。
「お世話になりました。本当に楽しいひと時でした」
トレーシーが恭しく目礼をくれる。
とても優雅で、感謝の気持ちがはっきりと見て取れる。
初めて経験するアルバイトは、トレーシーにとって楽しいものになったようだ。
「オオバ様を始め、皆様にはよくしていただいて、感謝の言葉もありません」
と、こちらは深々と頭を下げる。
相変わらず給仕長というには頼りない雰囲気のネネではあるが、顔つきは変わったような気がする。
「たった二日……それも限られた時間ではありましたが、私は給仕として大切なものを見つけられたような気がします」
今回のアルバイトは、ネネにとって大きな転換期となるだろう。
トレーシーをフォローするというのはどういうことか、どういう時にトレーシーがフォローを欲するのか。それらは、一度感覚を掴んでしまえばあとは体が動いてくれる。
ネネにしたって、もともとダメな給仕なわけではないのだ。これまではただ委縮していただけで。
恐怖とは、未知への不安が膨れ上がった結果もたらされるものだ。
「怒鳴られるかもしれない」の「かもしれない」の部分が恐怖に起因し、そしてそれは、慣れによって払拭することが出来る。
おそらくネネはもう大丈夫だろう。
「二十七区に帰った途端、元通りになったら…………その時はジネットを派遣するからな?」
「だ、大丈夫です! ね、ねぇ? ネネさん!」
「は、はい! 大丈夫です、きっと、たぶん……」
「たぶん……か」
「いいえ、必ずやっ!」
これで言質は取れた。
もし、二十七区に帰って『癇癪姫』と『怒られたくない病』がぶり返していたら、足つぼと『精霊の審判』のダブルパンチだ。
そう思えば、こいつらだって、意地でも再発を防ごうとするだろう。
これぞ、『精霊の審判』のいい使い方の見本だな。うん。
「ヤシロ……、君は精霊神様までもを利用するのかい……」
「心外だな。人のためになれるんだから、精霊神にしたって本望だろうに」
「その上から目線が怖いんだよ、君は……」
エステラは、どうにも権力に媚びる傾向が強いよなぁ。
もっといろんな領主だとか王族だとかに会わせて耐性をつけさせないと。
遠慮したり萎縮したりすれば、それだけで上下関係が形成されてしまいかねない。
交渉事は、マウントポジションをとった方の一人勝ちだからな。卑屈になる必要などないのだ。遠慮してやる必要もないのだ。
「お前はもっと図太くなれよ」
「君にはもう少し繊細になってもらいたいところだね」
他人の心の機微に敏感なこの俺に何を言う。
俺ほど繊細な男はそういないぞ。
なにせ、布のこすれる音でサイズが分かっちまうくらいに繊細なんだからな。……なんのサイズかは、割愛するが。
「みなさんのおかげで、とても穏やかに過ごすことが出来ました。ノドも、痛くありませんし」
茶目っ気たっぷりにトレーシーが笑う。
怒鳴らないからノドへの負担も少ないのだろう。もっとも、今のは冗談なのだろうが。
「本当に、私は必要のないことまで怒鳴っていたのですね……ネネさん、ごめんなさいね」
「そんなこと……っ!?」
トレーシーの謝罪に、ネネが慌てて体の向きを変え、トレーシーに向かい合うように全力で否定する。
「あれはすべて私のためを思っての行動であると、私は理解しています! 謝られるようなことなど何ひとつなく……むしろ、こちらこそが申し訳ないくらいで……私が不甲斐ないばっかりに……っ!」
泣き出しそうなネネを見て、トレーシーは眉根を寄せて、けれど優しげな笑みを浮かべる。
「ほらほら、ネネさん。またネガティブな思いが言葉に表れていますよ。そんなんじゃ、また足つぼされてしまいますよ」
「ひぅっ!?」
泣きそうだったネネは体を震わせ、身を縮めて、無意識にジネットから距離を取る。
その様に、ジネットが微かにショックを受けていたが、まぁ、足つぼハッスルの後遺症だ。甘んじて受けておけよ。
「あ、あの、決してネガティブなわけではないですよ。皆様のおかげで、私は随分と前向きになりましたし、これからもきっといい方向へ変わっていけると、そう確信しております」
所信表明というほどではないにせよ、ネネはネネなりにここでの時間を今後に生かしていくつもりのようだ。その意気込みは見せてもらった。
「もう、自分のことを『ボロ雑巾』なんて言ったりしないようにね」
エステラがからかうように言う。
初めて会った時には、それはもうネガティブで自分を『ボロ雑巾』なんて言っていたっけな、ネネは。
そんなことを揶揄されて、ネネは照れ笑いを浮かべる。
「はい。もう、自分をそんな風には思いません。私はこれから、マッカリー家に相応しい、おろしたての綺麗な雑巾のような人間になりますっ!」
「結局雑巾なのかよ!?」
「い、いえ! ポジティブに! 真新しい雑巾を使う時はわくわく感と贅沢をしているような多幸感がありますし、そのような人間になれればと……っ!」
どんなに力説しても、結局は雑巾だ。
こいつは雑巾の汚れ具合でしか自分の価値を表現できないのか?
「……真新しい雑巾は、使うほどに汚れていく…………つまり、汚されたいという願望の表れ」
「うわっ、ネネさん、ドMです」
「い、いえっ! 決してそのようなことは!?」
心理学的に、自分を雑巾で表現する者はドM――なんて話は聞いたことがないが、なんだろう、妙に納得してしまうくらいの説得力はあるな。
「……マグダは真新しい雑巾で、零した牛乳をあえて拭くっ」
「やめてです! 今後その雑巾で拭く場所拭く場所臭くなるですから!」
「……そんな雑巾と、ネネは同等」
「うわぁ……臭給仕長です……」
「な、なんだか酷いことを言われている気がします!?」
気がするも何も、完全にからかわれてんだよ。
「あ~ぁ、エステラのせいで……」
「なんでボクのせいなのさ!? そりゃ、話を振ったのはボクだけどさぁ」
ネネがあわあわして、それをトレーシーが笑って見ている。
ほんの数日前なら、こういう場面で怒声が飛び出していたことだろう。
本当に、驚くほど感化されたな、この陽だまり亭のまったり空気に。
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