長かった一日が終わる。
「ジネット~、戸締まり終わったぞ」
「はぁ~い」
これまでにないほど大勢詰めかけていた客どもを全員追い返したのは、すっかり夜が深くなった後だった。
やっぱり陽だまり亭に酒は置かない方がいいな。始末に負えない連中が多過ぎる。
いちいち俺に絡みやがって。
大通りでかなり目立つことをやっちまったせいで、今日はやたらと絡まれた。
やれ「よくやってくれた」だの、やれ「お前を見直しただの」、やれ「お前は見込みのある男だ」だの、やれ「俺が言いたかったことを全部言ってくれた」だの、やれ「ウチの娘の婿に来ないか」だの……馴れ馴れしくすんじゃねぇよ。俺は、お前らから金を搾り取るための前段階としてこの街の経済を正常化しようとしただけだ。搾り取るエモノが金を持ってなきゃ始まらないからな。
……今日馴れ馴れしく肩を抱いてきたヤツからは、特に厳しく徹底的に搾り取ってやるとしよう。ふっふっふっ、震えて眠れ。
「なんだか楽しそうですね、ヤシロさん」
厨房からふわりと現れたジネットは、いつもよりも幾分柔らかい笑みを浮かべていた。
「マグダさん、疲れていたんでしょうね。ベッドに入るなりぐっすりでしたよ」
「そうか」
「後片付けも終わりました。今日は洗うお皿が多くて大変でしたぁ」
「あ、悪い。そっちも手伝えばよかったな」
「ダメですよ~。洗い物がたくさんあって、わたし嬉しかったんですから。みなさん、いっぱい食べてくださったんだなぁ~って。……うふふ」
ジネットが陽気だ。
いつもよく笑うやつではあるが、今日は特に笑っている。というか表情筋が融解してふにゃふにゃになっている。
よく見れば、ほのかに頬が赤い。
「ジネット。お前、ちょっと酔ってないか?」
「酔っていませんよ。ただ、今はすごく楽しい気分ですけれど……うふふ」
顏が熱いのか、普段はあまりやらないのだが、顔にかかる髪の毛を手でかき上げる。
そんな仕草が――赤らんだ頬と、とろんとした表情と相まって――なんだか妙に色っぽかった。
こいつは、こんな表情をするヤツだったか?
「ヤシロさんはお酒をいただかなかったんですか?」
「酒臭いオッサンに散々絡まれてな……臭いだけで悪酔いしそうだったよ」
「うふふ。みなさん、ヤシロさんのこと『すごいすごい』って言ってましたね」
「勘違いだろ」
「『えらいえらい』って」
「『エロい』の聞き間違いじゃないか?」
「『たいしたもんだ』って」
「『パイスラ揉みたい』って言ってたんじゃねぇの」
「もう、ヤシロさんっ」
強引に褒めようとするのをはぐらかしていたら、ジネットが頬をぷっくりと膨らませて俺を睨んできた。
背の低いジネットに下から睨まれても全然怖くなどないのだが。
おまけに、ジネットは怒り顔の持続時間が他の人間より極端に短いらしく、物の二秒でいつものふんわり笑顔に変わってしまう。
「それじゃあ、今から、わたしがヤシロさんを褒めます」
「いや、いいから、そういうの」
「聞き間違えないように、しっかり聞いてくださいね」
「だから、いいって」
「むぅ! 聞いてください~!」
握った拳をぶんぶん振って抗議してくる。
……子供か。
「……はいはい。聞くから」
「えへへ~」
そしてすぐに機嫌が直る。
こいつ、絶対酔ってるだろ? え、これが素なの? それはそれですごいけども。
「ヤシロさん」
「へ~いへい」
「…………」
「…………なんだ?」
「少ししゃがんでください」
「は?」
「これくらいで……はい、それくらいです」
えっ、めっちゃ中腰なんですけど?
割ときつい体勢を強要されてんだけど?
気付いてないよな? やっぱ、酔ってるだろ?
もうすでにヒザがプルプルし始めてるんだけど!?
「ヤシロさん」
そんな俺のヒザ事情など知る由もなく、ジネットは太陽のような笑顔で俺を見つめる。
そして、宝物に触れるような優しい手つきで頭を撫でる。
「とってもよく頑張りました。ヤシロさんはすごいです」
髪を撫でる手つきが、なんだか懐かしく感じられて……まぁ、これくらいのご褒美があってもいいかと、そんなことを思った。
とはいえ、中腰はきついので「もういいか?」と聞こうとした……の、だが。
何を思ったのか、ジネットが俺の首に腕を回し、抱きついてきた。
「…………ジ、ジネッ……?」
「ヤシロさん……」
吐息に混じるような、囁きが耳たぶを掠めて通り過ぎていく。
ぞわっと全身を電気が駆け抜けていき、吐き出しかけていた言葉が止まる。
口を閉じ、ジネットの次の言葉を待つ。待たされる。強制待機だ。ヒザへの酷使も継続される。
なのに、この甘い拘束に抗えない。
「わたし……ヤシロさんに出会えて幸せです」
ごくりと、妙に大きな音が鼓膜を震わせる。
どくどくと鼓動が頭蓋骨の中に反響する。
えぇい、うるさい!
いちいち耳障りなんだよ、ちょっと静かにしろ!
「ヤシロさんと出会ってから、わたし、毎日笑ってます。いつもいつも、楽しくて、満たされた気持ちで……あぁ、ヤシロさんがいてくれてよかったなぁ、って」
きゅっと、ほんの少しだけジネットの腕に力がこもる。
ほんの少しだけ、俺とジネットの距離が縮まる。
ほんの少しだけ、密着する面積が増える。
たったそれだけのことで、鼓動が倍速になる。
ちょっと待て、俺だって無知なガキじゃない。
この流れで、あとに続く言葉くらい予想がつく。
いいのか、このまま言わせてしまって。
俺はいつかここを離れるつもりで、この街の連中全員を騙して、金を搾り取って、それから……
「ヤシロさん」
その声で名を呼ばれるだけで、頭の中が真っ白になって、フル回転していた脳みそが職務を放棄する。
その吐息が耳を掠める度に、頼んでもいないのに心臓が過剰労働を始め体温をグングン上げていく。
なんなんだよ、クソ。
思春期の中学生じゃあるまいし、こんな……こんなことくらいで。
「あのな、ジネット……」
「ヤシロさん。わたし、ヤシロさんに聞いてほしいことがあります」
体を離そうとしたら、それ以上の力でしがみつかれた。
これは、相当な覚悟を持っている証拠だ。
ジネットのヤツ、覚悟を決めてきている……ん、だな?
もう一度、俺のノドがごくりと鳴る。
「わたし……ヤシロさんにどうしても言いたいことが…………あって……」
滑舌が甘いせいか、少し甘えているような声に聞こえる。
くそ……可愛いな、もう。
「ヤシロさん……わたしと…………」
仕方がない。
お前がその気なら、こっちだって覚悟を決めて聞いてやる。
結果がどうなろうが、きっちりと答えを出して……
「わたしと一緒に、笑ってください」
「………………は?」
俺の声と同時に、ジネットは俺から離れて、両手を顔のそばで開いて「ばぁ!」とおどけてみせた。
…………え?
……………………なに、それ?
「ばぁ! うふふ……ばぁ~!」
手を閉じては開き、体を左右に揺らして「ばぁ!」と繰り返す。
『いないいないばぁ』の『いないいない』抜きみたいな行動だ。
あ、ついに『いないいないばぁ』し始めた。
……俺、何を見せられてんだ?
「ほら、ヤシロさ~ん、笑ってくださ~い。ばぁ~!」
いやいやいや。赤ん坊か、俺は?
そんなもんで笑うわけが…………
「……ふふっ」
くそ、こんなので。
そんなもんで俺が笑うって、なんで信じて疑ってないんだよ、お前?
あはは、バカじゃねぇの?
「あははははは!」
「やりました! ヤシロさんが笑いました! うふふ」
なんだか、すごくバカバカしくなって、思わず笑ってしまった。
癪なので、俺も『いないいないばぁ』をやり返してやった。多少、面白い顔をして。
「ふふっ、ヤシロさん、そんな顔……うふふふふ! ずるいです! ふふふ!」
「使える武器はすべて使うものだ!」
「じゃあ、こっちだってお返しです! ばぁ~!」
え、なにその可愛い顔?
それがお前の変顔なの? 正直めっちゃ可愛いんだけど?
「甘いな! 変顔とはこうするのだ! ばぁ!」
「ぷくすぅっ! ふふ、ふふふっ、じゃ、じゃあ、わたしも……ばぁ~!」
「まだまだ!」
「ばぁ!」
その日の俺たちは、くたくたに疲れ、酒の席の雰囲気や酒の匂いにあてられて、相当酔っぱらっていたのかもしれない。
ついでに、深夜のテンションも手伝っていたのだろう。
俺たちは、そんなくだらないことで延々と笑い合った。
……翌日、二人揃って羞恥心で死にかけたわけだけれども、それはまた別の話だ。
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