「遅い」
水のおかわりが目の前に置かれたところで、ドニスが低い声でうなる。
明らかに不快感をあらわにし、眉間のしわが一層深くなっている。
「フィルマンはまだ来んのか?」
「はっ」
そばに控える使用人に怒りを向けるドニス。
鋭い声に使用人が肩を震わせる。
「実は……その、準備に手間取っているとおっしゃっておりまして……」
「客人を待たせてまでするような準備があるか! 今すぐに連れてこい! 下着姿でも真っ裸でも構わん! これ以上客人を待たせてワシに恥をかかせるなっ!」
「か、かしこまりましたっ!」
怒号に押され、使用人たちが八人ほど慌てて食堂を飛び出していく。
現当主と次期当主の間に挟まれた、可哀想な使用人たちなのだろう。
「ミスター・ドナーティ。フィルマンさんというのは?」
「ん? あぁ、すまない。ワシの甥の息子でな。ワシの後継者として、現在勉強をさせている男だ」
ドニスには子供がいない。
ならば、後継者はその血縁者から選出される。
しかし、それが甥の息子とは……随分と遠いな。
ドニスの兄弟は、……ドニスの年齢を見る限り次期当主には向かないだろう。
ドニスはどう見ても六十から七十歳というところだ。その弟なら、若く見積もっても五十代後半というところだ。そんな歳から領主を引き継いでも、すぐにまた交代しなければいけない。
普通に考えれば、その甥という男が引き継げばいいと思うのだが……
「才覚のない者には任せられんのでな。甥や姪の婿どもは、どいつもこいつも農業に夢中な大豆農家に成り果てておる。貴族の振る舞いを忘れた者に、領主は務まらん」
何も聞いていないのにぺらぺらと親族の、それも恥ともとれる部分を話し出した。
話し終わった後で、「そう聞きたかったのだろう?」と、しわを深くして頬を歪める。
このジジイ……これくらいの弱みを話したところで、俺たちは脅威にもならないと、そういうことなのだろう。
ほんの少しだけ、マーゥルを相手にしているようなやりにくさを感じる。
だてに、何十年と『BU』の主導権を握る二十四区の領主はやってないってことか。
「フィルマンは、アレが六歳の頃からワシが引き取り、次期領主となるべくワシ自らがしつけを施しておるのだ。あいつは将来化けるぞ。ワシの目に狂いはない」
六歳だったフィルマン少年に何かを見出したのか、はたまた、無色透明だった純真な少年を自分色に染め上げたという自負があるのか。
ドニスの自信は相当なものだ。
「だというのに……」
そんな自信に満ちた表情がくしゃっと歪む。
「あのバカたれは、最近何かとワシに反抗するようになりおって……ここまで育ててやった恩を忘れ、このワシに口答えなどをするようになりおった! たわけ者が……このワシを誰だと思っておるのだ、まったく!」
おぉう……完全無欠の愚痴だ。
それも、ジジイの「最近の若い者は」的な、お決まりの愚痴だ。
「来年には成人を迎えるというのに、最近は夜中に館を抜け出して夜遊びなんぞを覚えおって! 最近の若いもんはたるんどるっ!」
あぁ……ついに言っちゃった。
異世界でもジジイの言うことって同じなんだな。
テーブルにヒジを突き、両手を組んでそこに額を載せる。
そして、長く重々しいため息を漏らした。
「……やはり、血の繋がりが薄いのがいかんのだろうか……」
それは、ドニスが初めて見せた弱気な顔だった。
血の繋がり。
自分の息子であったなら、ここまで反抗はされなかったと、そう思っているのだろう。
しかし、来年成人ということは、今年十四歳ということだ。
それくらいの年齢になれば、誰だって反抗期くらい迎える。血気盛んな男子ならなおのことだ。
おそらくドニスは子育てを経験したことがないのだろう。自身はもちろん、兄弟や親族の子供の面倒すら見たことがないのだ。
親族も、ここまであからさまに見下してくるジジイに我が子を見せようとは思うまい。
だから知らないのだろう。反抗期というものを。
「ミズ・クレアモナ。結婚はした方がいいぞ。それも、出来る限り若いうちにだ。年寄りからの助言だ」
「ご進言、ありがとうございます。心にとめておきます。……ですが」
エステラの瞳がまっすぐ前を向き、ドニスを明確にとらえる。睨み合っても決して引けをとらない迫力がこもっている。
胸の前で軽く拳を握り、言いにくい言葉を慎重に吐き出していく。
「今は、領主としての責務を全うしたいと考えています。ボクは四十二区を愛しています。愛する者たちの幸せを、今は何よりも優先させたいのです」
領主としての誇りと意地。
それはエステラの偽らざる本心なのだろう。
「ボクの幸せは、その後でもいいかなと思っています」
「ミズ・クレアモナ……」
エステラのまっすぐな瞳とまっすぐな言葉を受け取り、ドニスがゆっくりとエステラを指さす。
「はい、行き遅れ決定ー!」
「そんなことないですよ!?」
「はい、残念! はい、終了!」
「ミスター・ドナーティ! 相応の年齢になればきちんと考えますから! だから大丈夫です!」
「ワシもそう思ってたんだよなぁー、若い頃は! けどこの有様だ! はい、同類! はい、道連れ決定!」
「ボクはいい頃合いで嫁に行きますっ!」
「その頃にもらい手が残っていればな!」
「むぁぁあああ、ムカつくなぁ、このジジイ!」
「エステラ様。本音がダダ漏れ過ぎます」
「まぁ、そっとしといてやれよナタリア。今のはジジイの自業自得だろう」
ジジイ呼ばわり、致し方なしだ。
あぁ、ちなみに、行き遅れとかもらい手とか、ジジイの個人的な意見だから、俺たちは全然そんなことは思ってないからな。大人女子、すっげぇ素敵。
――と、どこ向けだか分からんが、一応フォローしておく。
「では聞くが、ミズ・クレアモナよ! そなた、チューはしたことあるか!?」
「セクハラが過ぎますよ、ミスター・ドナーティ!」
「じゃあ、そっちの給仕の娘でも、そこの男でも構わん! 初チューのエピソードを語れ!」
「どんだけ恋バナ好きなんだ、このクソジジイ!?」
もはや、俺も遠慮はしない。
暴走を始めたヤツは、地位や権力に関係なく均等にツッコミを入れなくてはいけない。
これが世の理だ。
そのしわの一本一本にもらってきた豆板醤を塗り込んでいってやろうかと思い始めた頃、複数の使用人を従えて一人の男が食堂へと姿を現した。
「別に待っていなくてもよかったのに」
不遜な態度でそんな言葉を吐き捨てた男の顔を見て、俺は思わず声を上げる。
「あっ!?」
「ん? …………あっ!?」
向こうも俺たちに気が付いたようで、目をくりっくりに見開き声を上げた。
「なぜ、あなたたちがここに?」
間の抜けた顔でそこに立っていたのは、早朝の麹工場の門前に張りついてリベカのストーキングをしていたパーシー予備軍(ハビエル成分微含)の、あの少年だった。
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