遠ざかるヤシロ様の背中を見つめ、もう一度深く頭を下げます。
「あなたには、本当に感謝しております」
あの大食い大会がなければ、そしてあの領主宣言がなければ、この街はまた元の『進展できない街』に逆戻りしていたことでしょう。
「あなたの受けた痛みを、私は生涯忘れません」
あの方は、尊敬に値する人物だ。
それが確信から常識に変わった。
もはや、この考えを覆すことは何人にも不可能でしょう。
「……ヤシロ様」
どうか、ご壮健で。
あの笑顔の裏に、あの軽口の向こうに、どれほどの傷を隠し持っておられるのか……
願わくは、これ以上の傷が増えませんよう。
「それは、こちらも同じですが……」
振り返り、館を見上げる。
二階の最奥。
そこで、エステラ様は今、どのようなお顔をされているのでしょうか。
彼と話し、何をお考えになってるのか。
「……やれやれですね」
その表情が容易に想像できてしまうということは、ヤシロ様にも見透かされているということでしょう。
エステラ様には、もっとしっかりしていただかなくては。
もう、『お嬢様』ではないのですから。
現四十二区領主様、なのですから。
館へ入り、執務室のドアをノックします。
中から覇気のない声が聞こえ、私は入室します。
「……そのようなお顔で面会をされていたのですか?」
案の定、部屋にいたエステラ様は今にも泣き出しそうな沈痛なお顔をされていました。
「そんなわけないだろう」
言い返す言葉は弱々しく、投げやりで、拗ねているように聞こえました。
「ちゃんと笑っていたさ。いつも通り、ボクらしく、前向きで素直で楽し気に……」
「『装って』いたのですね」
「…………」
そして、その後ろめたさが今の表情を作っているのでしょう。
まったく、不器用な方です。
領主がそんなに分かりやすく感情を表に出してどうするのでしょうか。
エステラ様が一人前になるには、まだ時間が必要でしょう。
覚悟だけではどうしようもないのですから。
ただ、これまでは抱けなかったその『覚悟』を抱かせたヤシロ様は、やはり素晴らしいです。
留まり、澱みかけていた溜め池に流れを生み出し、清流へ変えた。
……分かっているのですか?
彼女には……エステラ様には、まだまだあなたが必要だということを。
そして、私にも……
「ナタリア」
思わず窓へ向けた視線をエステラ様へ戻します。
そこには、こちらを慈しむような寂し気な笑みがありました。
「君も、酷い顔をしているよ」
そう、でしょうか……
「君の方こそ、そんな顔でヤシロと話をしたわけじゃないだろうね?」
「いえ、大丈夫です」
憂い顔など、見せておりません。
それを証明するために、私は髪を掻き上げ、反対の手の小指を口にくわえて、体を「S」字にくねらせました。
「ぬっふぅ~ん……」
気だるげな、熱を帯びた吐息をつき、流し目でエステラ様を見やる。
「このような顔でお会いしておりました」
「嘘だよね!?」
いいえ?
事実ですか?
それが何か?
「否定して!?」
しませんが?
否定すれば嘘を吐くことになるではないですか。
のーもあ虚偽申告。
「軽くおはようとおやすみのチューをおねだりしておきました」
「何してんのさ!?」
「ですから、軽くおはようとおやすみのチューをおねだりしておきました」
「二回聞いてもまったく理解できないよ!?」
「だぁかぁらぁ、軽くおはようとおやすみの――」
「なんでキレてんのさ!? そうじゃなくて、君の軽率な行動を非難しているんだよ、ボクは!」
顔を真っ赤にして両腕ふりふり抗議してくるエステラ様。
「軽率とおっしゃいますが、前領主様であるエステラ様のお父様もおはようのチューは――」
「ちょっと待って、その情報聞きたくない!」
心底嫌そうな顔で耳を塞ぐエステラ様。
ご両親の育んだ愛情に関しては記憶したくないご様子。
「おやすみのぺたぺたは日課でしたのに」
「悪かったね母娘揃ってぺったんこで!? 誰がだよ!? やかましいよ!」
ご自分を貶めたのはご自身でしょうに。八つ当たりもいいところですね。
「ご病気のせいだと思われるのですが……一度、手元が狂って空振りされた時は、危うく離縁になるのではないかというほどの修羅場に……」
「お母様、被害妄想が激し過ぎますよ! ご病気だから! 手元狂っただけで、的が小さいとかどこからもクレーム出てませんからぁー!」
窓の外に向かって懸命に叫ぶエステラ様。
届くといいですね、その思い。親孝行になることでしょう。
「まったく……君といると哀愁に浸ることも出来やしない」
「では、これからはなるべくおそばを離れないように心がけます」
「……ナタリア?」
憎まれ口を叩いたつもりがそれを肯定されて戸惑っているようですね。
いいのです、私はいくら憎まれようと、疎まれようと。
「今のエステラ様には、俯いている時間も、過去を振り返っている暇もございませんので」
あなたは、今やるべきことへ目を向けなければいけないのです。
これ以上の後悔を増やさないために。
幸いにして、今この街にはエステラ様の助けになってくれる勢力がそこかしこに存在しています。
たった一人の男が街中を引っ掻き回し、凝り固まった固定観念を叩き壊し、新たな――開けた価値観を植えつけてくれたのですから。
今の四十二区の結束は、おそらく四十一区や四十区よりも強固で確かなものであるはずです。
「今だからこそ、動かれるべきであると私は愚考いたします」
そのような出過ぎた意見など、凡百な貴族にかかれば「不敬である」と糾弾される事案なのでしょうが――
「……うん、そうだね。君の言う通りだよ」
我が主は、こうしてしっかりと聞き入れてくれる。
受け止めてくださいます。
だからこそ、私はこの方のためにこの身とこの生涯を捧げると誓ったのです。
「覚悟だけはしたけれど、覚悟だけじゃまだまだ足りない……」
ソファから立ち上がり、エステラ様が私の前へとやって来る。
背筋を伸ばし、凛と胸を張って、私の瞳を見つめながら言う。
「至らないボクをフォローしておくれよ。君にしか、頼めないことだからさ」
私の居場所はここである。
こんなに嬉しいことはない。
「もちろんです。お任せください、エステラ様」
最大級の礼をもって、主のお言葉に応える。
私の心は、あなたと共に。
「ありがとう」
頭上から柔らかな声が聞こえ、私は床に突いていた膝を伸ばす。
目線の高さが元に戻ると、エステラ様は少し照れた様子で頬をかき、視線を逸らせてはにかまれました。
「あはは。なんか、まだちょっとくすぐったいね。君に『エステラ様』って呼ばれるのは」
なんとも居心地が悪いご様子。
急な立場の変化に対応しきれず、戸惑いが多いのでしょう。
であるならば、私の取るべき行動はただ一つ。
「……このブタッ!」
「だからって貶さないでくれるかな!?」
敬われ過ぎるのが慣れないのだとばかり思っていましたが、そうではないようです。
「まったく、ナタリアは……ヤシロに出会ってからというもの、性格が変わり過ぎだよ」
「お嬢様の体型は一切変わりありませんのにね」
「そーゆーところだよ、君が変わったのは! 主の乳をガン見しない!」
「……つん」
「突っつくな!?」
手を叩かれてしまいました。
父親にもぶたれたことないのに!
……まぁ、母親には容赦なくボッコボコにされていましたけれど。
やれ、反応が遅いだの、仕上げが甘いだの、先が読めていないだの……
「母親め……っ」
「ん? それは君の母親に対する憤りかな? まさかとは思うけれど、ボクの胸の成長度合いを見てボクの母親に対して憤慨しているわけじゃないよね? だとしたらキレるけれど?」
……ふっ。
エステラ様も変わったではありませんか。
これまでなら、そんなご冗談は決して口にされませんでした。
どんどん弄られるのが快感になっているご様子。
「ヤシロ様に乳をいじられ過ぎなのでは?」
「ごっ、誤解を招くような発言は控えるように! 物理的には皆無だから!」
ぷいっとそっぽを向いて怒ってみせる。
それでも、こんなくだらないやり取りで、声に張りと元気が戻ってきている。
私が入室した時の憂い顔など、もうどこにも見当たりません。
「すごい男ですね」
「まぁ、不敬だけどね」
それすらも許してしまえる。
そういう、逸脱した存在、なのですよね? エステラ様にとって。
そして、この四十二区にとって。
「得難い存在ですね」
「うん。……そして、失いたくない存在だよ」
それは偽らざる本心なのでしょう。
「じゃ、そうならないように、ボクはボクのやるべきことをやってしまおうかな!」
声を上げ、腕まくりをし、エステラ様のエンジンがかかる。
彼がいなければ、きっとひと月やふた月は沈んだままだったでしょうに。
本当に、感嘆するばかりです。
初めてここであなたにお会いした日の発言を、すべて撤回いたします。
あなたを排除するなど、もはや考えられません。
ヤシロ様。
これから先、何があろうと私はあなたを信じます。
影ながらあなたを見守り、いつ何時もあなたを支え、可能な限りの助力を惜しみません。
ですので、どうか……
今後も私の目の届くところに留まり、あなたを見守らせてください。
それが叶うのであれば、私はもう、それ以上を望みません。
私が心から尊敬し、お仕えしたいと思えるお二人のうちの一人なのですから……
「あ、そうでした。エステラ様」
ヤシロ様の顔を思い浮かべたら、言い忘れていたことを思い出しました。
「なんだい?」
「先ほどのことなのですが……ぷぷぷ、ドキドキ感上書きしてきちゃった、ザマァ」
「はぁ!?」
「さぁ、お仕事に戻りましょう」
「戻りにくい発言しといて、何言ってんの!?」
「どうせ二人きりでイチャイチャしていたのでしょう?」
「んなっ!? し、して、ないよ……イチャイチャなんて……そんなには」
「まぁ、私はこれでもかとイチャイチャしましたけれどね!」
「何やってんのさ、もぅ!」
「さっ、お仕事に戻りましょう」
「だから……はぁ。ナタリアに悪影響を及ぼしたアノ男に、正式にクレームを入れに行かなきゃね」
陽だまり亭の方角を睨み、エステラ様がため息を吐かれました。
ふふふ。
まったく、飽きない職場です。
願わくは、この楽しくも刺激的な日常が、末永く続きますように。
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