異世界詐欺師のなんちゃって経営術

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宮地拓海
宮地拓海

【π限定SS】「今日も素晴らしい朝ですよ」

公開日時: 2020年12月12日(土) 20:01
文字数:6,050

 空気が澄んで、日が沈んだ後の夜の匂いから日が昇る前の朝の匂いへ変化しました。

 それを感じ、わたしはゆっくりと体を起こします。

 

「……少し、寒いですね」

 

 暖かいお布団の誘惑には、いつも心が揺れ動きますが、ぐっとこらえてベッドを出ます。

 今日は、ヤシロさんとマグダさんを起こすという大切なお仕事があるのです。

 責任重大です。

 

「先に食事の用意をしてから、起こすことにしましょう」

 

 今朝はお二人とも教会の寄付には参加できませんから、こちらで軽く食べていただくことにしましょう。

 お弁当も作らないといけませんね。

 

 いつもよりも少し急いで身支度を始め、わたしはふと昔のことを思い出しました。

 

 

 昔。まだわたしが子供だった頃。

 お寝坊さんだったわたしを、お祖父さんが毎朝起こしてくれていました。

 お祖父さんの大きな手がわたしの頭を撫で、お腹をぽんぽんと叩いて、ゆっくりと肩を揺らし、そして落ち着いた優しい声でこう言うんです。

 

「おはよう、ジネット。今日も素晴らしい朝だよ」と。

 

 よく晴れていても、土砂降りの日でも、凍えるように寒い朝でも、うだるような熱気をはらんでいても、お祖父さんにかかればみんな「素晴らしい朝」になってしまうんです。

 けれど、お祖父さんがそう言うと、本当に素晴らしい朝であるような気がして、わたしは毎日満たされた気持ちで一日が始められるのでした。

 

「お祖父さんの手は、寒い朝でも温かくて、とても気持ちよかったですね」

 

 大きくて温かい手に撫でてもらえるのが嬉しくて、いつしかわたしはお祖父さんが起こしに来るより少し早く目を覚ますようになりました。少しでもその感触を味わいたくて。

 少し早く目を覚まして、お祖父さんが起こしてくれるまで寝たふりをして待っていたんです。

 

 夜のうちに目を覚まし、まだかなまだかなとお布団の中でお祖父さんを待っていると、ある瞬間に空気の匂いが変わることに気が付きました。わたしはそれを、朝の匂いだと思ったんです。

 お祖父さんがわたしの部屋へやって来るのは、いつも決まって、夜の匂いが朝の匂いに変わった後でした。

 

 だから、わたしはこの匂いが好きなんです。

 楽しいことが始まる合図でもある、この朝の匂いが。

 

「もうすっかりクセですね」

 

 朝の匂いを嗅ぐと、自然と目が覚めてしまいます。

 今日も何か楽しいことが起こりそうな、そんな予感がして。

 ……ふふ。子供の頃から変わっていませんね、わたしは。

 

 身支度を終えたわたしは厨房へ向かいます。

 ヤシロさんたちの朝食とお弁当の準備をし、寄付用の下拵えは……もう少し後でも構いませんね。

 

「そろそろ、ですかね」

 

 手を洗って厨房を出ると、冷たい風に身を縮ませました。

 まずはマグダさんを起こしに向かいます。

 

 マグダさんは温かいお布団が大好きですから、着替えが終わった後もう一度お布団に潜り込んでしまうんです。

 ふふ。あの誘惑に抗うのは難しいですからね。

 

 ヤシロさんの部屋の前を通り過ぎ、ノックをせずにマグダさんの部屋のドアを開けます。

 ノックの音で起こしてしまうのは、なんだか申し訳ないですから。

 

 部屋に入ると、マグダさんの匂いがしました。

 

 マサカリの手入れをする油の匂い。

 革の防具の匂い。

 今日は微かにお花の匂いもします。女の子らしい、可愛い匂いです。

 

 そして、ふわふわの髪の毛から漂う、マグダさんの匂い。

 

 わたしは、この匂いが好きです。

 

 ドアをそっと閉めて、ゆっくりとベッドへ近付きます。

 お布団にくるまって眠るマグダさんは、体を丸くして可愛らしい寝息を立てていました。

 

 本当なら、すぐにでも起こすべきなのでしょうけれど……

 

「少しだけ……」

 

 無防備なマグダさんの寝顔を独占です。

 役得ですね。……ふふ。

 

 

 ――そういえば、お祖父さんもすぐにはわたしを起こそうとはしませんでしたっけ。

 あの頃のわたしは、寝たふりがバレるんじゃないかとはらはらしていたりもしたのですが……

 

 こんな気持ちだったんでしょうか。

 わたしの寝顔は、マグダさんみたいに可愛らしくはなかったかもしれませんけれど。

 

「マグダさ~ん。起きてください。今日も素晴らしい朝ですよ」

 

 マグダさんの頭を撫で、お腹をぽんぽんと叩いて、ゆっくりと肩を揺すります。

 すると、マグダさんは寝ぼけながら「もにゅ……」と可愛い声を漏らします。

 可愛いですっ。

 

「楽しいお出掛けに遅れないように、ちゃんと準備しましょうね」

「…………ぅにゅ。じゅんび、する」

 

 そう言いながら、お布団の奥へもぐってしまうマグダさん。

 いつものことです。心は起きようとしているのに、体は眠ろうとしてしまう。きっと毎日頑張って働いているせいで、体が疲れているんでしょうね。

 なので、起きようとしている心にもっと頑張ってもらえるよう、声を掛けます。

 

「マグダさんが起きて、わたしとヤシロさんと、一緒にご飯を食べてくれると、嬉しいですよ」

「…………んむ……ご飯、一緒に、食べる」

 

 マグダさんは優しいので、わたしのお願いを聞いてくださいます。

 お布団から顔を出し、のそりと這い出してくるマグダさん。

 まだぬくぬくの体をそっと抱き上げ、ベッドへ座ってもらいます。

 

 昨日のうちに準備しておいた服を渡して、着替えてもらいます。

 手伝ってもいいのですが、今日はヤシロさんも起こさなければいけません。

 

「マグダさん、自分で着替えられますか?」

「……へいき」

 

 まだうっすらと寝ぼけているマグダさんを残し、わたしは部屋を出ました。

 

 廊下に出ると、少し、緊張が高まりました。

 ……ヤシロさんのお部屋に、入り…………ます。

 

 普段でも少し緊張するのですが、ヤシロさんが眠っている寝所に入るとなれば緊張も一入ひとしおです。

 ……心臓の音で、目を覚まされるのではないでしょうか?

 

 ドアに手をかけ、そっと開きます。

 

 

 ヤシロさんの匂いです。

 

 

 …………いったん、ドアを閉めました。

 ……いけません、いけません。心臓が痛くて、踏み込めませんでした。

 ヤシロさんのお部屋は、当然ながら、ヤシロさんの匂いがしました。

 

「起こすだけ……ですから」

 

 許可も得ていますし、お願いされたのですからお部屋に入るのにためらう必要はないのです。

 ヤシロさんのためになることです、これは。

 やましいことでは、決してありません。

 

 意を決して、もう一度ドアを開けます。

 

「し、失礼します……よ?」

 

 部屋は暗く、静まり返っていました。

 静かなんですが、確かに人の気配を感じます。

 

 一歩足を踏み入れ、ドアを、閉めます。

 

 世界は、こんなに静かだったでしょうか。

 まるで、世界にわたしとヤシロさんしかいないのではないかというくらいに静かです。

 

 そっとベッドに近付けば、こちらに背を向けて眠るヤシロさんの後頭部が見えました。

 やはり寒かったのでしょう。マグダさんと同じように、布団にくるまって、丸くなって眠っていました。

 

 ……ふふ。可愛いです。

 

 もう一歩近付いて、もう一歩……もう一歩。

 ベッドのすぐ隣にまで近付いて、そっと寝顔を覗き込みました。

 いつもはきりっと鋭い目元が、柔らかい弧を描いていました。無防備な寝顔は、まるで幼い子供のようで、とても可愛く思えました。

 

 ……ふふ。可愛いです。

 

 可愛い寝顔を見たら、緊張が解れていきました。

 ヤシロさんも寒いのは苦手ですから、ゆっくりと、じわじわ起こしてあげましょう。

 飛び起きたりしたら、布団がどこかへ行って寒いですから。

 

「ヤシロさん……」

 

 不快にならない声量で名を呼び、そっと……髪の毛に触れました。

 芯がありしっかりとした髪質。指を絡ませればするりとすり抜けていく艶やかな髪。

 けれど、もふもふと撫でればふわふわと柔らかく手のひらを撫でてくる。

 ヤシロさんの髪質は、ヤシロさんの性格をそのまま表しているような気がしました。

 

『ヤシロさん、今日も素晴らしい朝ですよ』と、そう声をかけて起こしてあげようと思っていたのですが……

 

「ん……んむ」

 

 髪の毛を撫でていると、不意にヤシロさんが寝返りを打ってこちらを向きました。

 …………思わずドアのそばまで逃げてしまいました。

 いえ、なんとなく。やましい気持ちは一切なかったはずなのですが……心臓がどきどきしています。

 

 きゅ、急に動かれるのは、驚きます、ね。

 

「すぅ……はぁ……」

 

 起こしに来たのですから、起こさなければいけません。

 寝返りを打ったということは、覚醒が近いのでしょう。

 あとは、お腹を叩いて、肩を揺すって、そして目覚めのあいさつをすればきっと起きてくださいます。

 そうすれば、わたしの役目もおしまいです。

 

 使命に燃え、わたしは再びベッドのそばへと移動します。

 

 先ほどとは異なり、ヤシロさんの無防備な寝顔がこちらに向いています。

 

「……可愛い、です」

 

 この顔は、滅多に見ることが出来ない貴重なものです。

 陽だまり亭のフロアで転寝うたたねをされている時がたまにありますが、その時はテーブルに突っ伏して、顔は腕の中に隠れてしまっています。

 起きた直後の寝ぼけ顔は、たまに見ることが出来るんですけれど。……ふふ、あの表情も、可愛いんですよね。

 

「……もう少しだけ」

 

 気が付くと、わたしはベッドの隣に座っていました。

 目線を合わせ、気持ちよさそうに眠るヤシロさんの寝顔を見つめていました。

 

 ……よかった。

 ヤシロさんは今、安心して眠れているんですね。

 ここに来た当初は、どんな時でも多少の警戒心が見て取れました。ちゃんと休まる時間があるのだろうかと、不安になることもありました。

 でも、こんなに穏やかな寝顔をされているのですから、少なからずこの部屋の中ではリラックスされているのでしょう。

 それが、とても嬉しいです。

 

「気持ちよさそうですね」

 

 あまり日に焼けていない白い頬を突っついてみました。

 肌理が細かくさらっとしたほっぺたが、ぷにっと心地よい弾力を指に伝えてきます。

 実を言うと、わたしは日がな一日ヤシロさんのほっぺたをぷにぷにしていたいという秘かな野望を抱いていたりするのです。

 誰にも話したことはありませんが。

 ヤシロさんのほっぺたは細過ぎず、厚過ぎず、硬過ぎず、柔らか過ぎない理想的なぷにぷに感なのです。

 

 ……以前、不意に触れた時にそれに気が付いたんです。

 

 …………今なら、誰も見ていません、よね?

 ………………ヤシロさんも、まだ眠っています、よね?

 ……………………少しだけなら、平気……です、よね?

 

 そっと指を伸ばし、ぷにっと頬を摘まみます。

 あぁ、やっぱり。

 思った通りの柔らかさ。思った通りの弾力。

 そして、思っていた以上に心地よい指ざわりです。

 

 ヤシロさんは、肌がとてもきれいなんです。

 それこそ、貴族の女性のように何か特別な手入れをしているかのようです。

 きっと、神様に愛されて生まれてきた方なのでしょうね。ヤシロさんの故郷にいらした神様に。

 

「ぷにぷにです……ふふ」

 

 そうして、少し調子に乗っていたのが……いけなかったんです。

 

「……こら」

「――っ!?」

 

 ヤシロさんが薄っすらとまぶたを開け、こちらを見ていました。

 ……バ、バレました!?

 

「楽しみなのは分かったから――」

 

 ガバッと、お布団から両腕が伸びてきて、わたしの肩を、そして頭を掴まえてぐっと引き寄せました。

 

「――早く部屋に戻って寝ろ、マグダ」

 

 ぎゅっとわたしを抱きしめて、いつもマグダさんにしているみたいに頭を、髪の毛をもふもふと撫でるヤシロさん。

 

 おふっ、お布団の中っ、ヤ、ヤシロさんの匂いでいっぱいですっ!?

 

「あ、あのっ、あのっ、わた、わたしは、マグダさんでは、あり、ありませ、せぬ!」

 

 ヤシロさんの匂いがして、ヤシロさんの腕に抱かれ、頬に触れる胸が温かくて、頭をもふもふ撫でられて、わたしは盛大に取り乱してしまいました。

 

 わたしをマグダさんと間違えているということは、きっと寝ぼけてらっしゃるのでしょう。

 で、あるならば、一刻も早く目を覚ましていただかなければいけません!

 そうでなければ……わたしの心臓が限界を超えてしまいます!

 

「ヤ、ヤシロさんっ! あ、朝ですっ! 今日も素晴らしい朝ですよっ!」

「……ん~」

「いえ、『ん~』ではなくてっ。……あ、あの? 今二度寝しようとしてませんか? ダ、ダメですよ、起きてください!」

 

 腕をばたばた振ってみても、力強いヤシロさんの拘束を解くことが出来ません。

 無理やり振り解けば逃げ出せるかもしれませんが、そんな乱暴な起こし方はヤシロさんが可哀想です。

 

 ですので、お祖父さんのように、優しく、丁寧に……

 

「ヤシ、ヤシロしゃんっ、素敵な、素晴らしい、朝が、あの、起きて、朝っ、素敵ですよ!」

 

 ぁぁぁああっ。

 何を言っているのか分かりません!

 

「ん……んん……」

 

 わたしが騒がしくしたせいか、ヤシロさんはわたしを解放し、再び寝返りを打ってこちらに背を向けました。

 はっ!? 完全に二度寝するつもりです!

 それは困ります。

 だって、二度寝をされたら……

 

 今日はもう、恥ずかし過ぎて起こしには来られません。

 

「二度寝はダメですよ。ちゃんと起きてください」

「ん……あれ、ジネット……もう、朝か?」

「はい。素晴らしい朝ですよ」

「……こんなクソ寒い朝が素晴らしいものか……」

「空気が澄んで、とても気持ちがいいですよ」

「空気が淀んでてもいいから温かい方がいい……」

 

 そんなことを言って、お布団に潜り込もうとします。

 ……あの中に逃げ込まれたら、もはや手出しは出来ません!

 

「えい!」

 

 思い切ってお布団をめくりました。

 

「うぉっ!? 寒っ!」

「早く着替えてしまえば、寒さも気にならなくなりますよ」

「だって、服冷たいし……」

「着ていれば、そのうち温かくなります」

「……俺の体温奪われてるってことじゃん」

 

 寒そうにご自身の体を抱くヤシロさん。

 ふと、両手を見つめながらこんなことをおっしゃいました。

 

「なんか、マグダを抱っこしてる夢を見た気がするんだよなぁ」

「……っ!? そ、そう、なんです、か?」

 

 夢……だと、思っておいてください。

 

「けど、なんか妙に温かい気が……ホントに夢だったのか?」

「あ、そうでした! わたし、マグダさんを起こしに行かなければ!」

 

 これ以上ここにいて、もし先ほど抱きしめていたのがマグダさんではなかったと気付かれでもしたら大変です。

 わたしは早急に退室することにしました。

 

「マグダさん、着替えた後で二度寝されているでしょうから、起こしてきますね」

「マグダには許可出したのかよ、二度寝……」

 

 贔屓だ、甘やかしだ、格差だと、ヤシロさんが可愛らしく拗ねます。

 やめてください。甘やかしたくなるじゃないですか。

 

 ……でも、ヤシロさんに二度寝されたら、もう起こしに来られません。

 

「二度寝はダメですからね?」

「へーい」

「二度寝すると、お布団没収しちゃいますからね」

「へいへーい」

 

 ――と、返事をしながら、寒そうに布団に潜り込もうとしていたヤシロさん。

 お布団、没収です。

 

「ちょっ、マジか!?」

 

 そんな声を背に、お布団を抱えたままヤシロさんの部屋を出ました。

 ……もぅ。これ以上どきどきさせないでください。

 

 ヤシロさんの匂いがするお布団をぎゅっと抱きしめて、わたしは二度寝しているマグダさんを起こしに向かいました。

 

 

 お祖父さん。今日も素晴らしい朝でしたけれど……朝からくたくたです。

 

 

 

 

 

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