エステラ様は、朝からずっと執務室にこもりっきりです。
まるで、何かに取り憑かれたかのように仕事に没頭している。
……そうしていなければ、つらいのでしょうね。
ヤシロ様が、自分を忘れてしまう――
そんなことを考えると、心が張り裂けそうになるのでしょう。
分かります……
私も……少なからず同じ思いを抱いていますから。
「給仕長。浴室の水漏れ、欠損箇所が見つかりました」
「では、直ちに修理を」
「トルベック工務店に依頼をかけますか?」
「それくらいは自分たちで出来るでしょう。当家のお金は領民のお金。無駄遣いは許しません」
「はい! では、六名ほど給仕をお借りしたいのですが」
六名……多いですね。
致し方ありませんか。
「分かりました。門番を連れて行きなさい。代わりに、私が門に立ちます」
「はい!」
この一年で、四十二区の財政は飛躍的に豊かになった。
もう、以前のように金策に頭をひねることも、飢えを我慢することも、見栄の一つも張れずに恥辱に歯がみすることもなくなりました。
ですが。
こうして生活が楽になったのもみんなヤシロ様のおかげ。無駄遣いなど出来ません。
恩には報いたい。
そのためには、ヤシロ様が必要とする時に必要とする働きが出来るようにしておかなければ。
お金も、人も、……そして、私個人も。
いつだって、ヤシロ様の思い描く通りに協力・提供できる体制を整えておく。それが、私なりの恩返しであると考えます。
「ふふ……いつの間にか、主が二人になったようですね」
人のいなくなった正門に立ち、頬を緩ませる。
そんな自分が気恥ずかしく、また、頬が緩む。
もういっそのこと、ヤシロ様が当家の主になってくださればそれで丸く収ま…………
……なんでしょう。不愉快ですね。
なんでしょう、なんでしょう。
どうしましょうか、この気持ち……
「………………ぺったんこ」
あ……なんでしょう。少し溜飲が下がりました。
不思議な言葉ですね、「ぺったんこ」。今後活用しましょう。
ふふふ……
まさか私がエステラ様にこんなことを思ったり、あまつさえ、面と向かって言うようになるとは……
曾祖父の代よりクレアモナ家に仕え、母について先代の領主様にお仕えして……
エステラ様とお会いしたのは、エステラ様がまだろくにしゃべれもしないくらいの幼い頃で……
「私の人生は、この方をお守りするためにあるのだ」――と、そう確信した。
まだ未熟ながらも仕事を覚え、エステラ様をお守りしつつも私の方が癒されたりして……
私は恵まれた環境にいるのだと実感していました。
しかし、母が亡くなった直後は……、正直、もうダメかと思いました。
給仕を取りまとめていた母がいなくなり、……当時の副給仕長は、仕事は出来ても人を動かす能力の無い方で……館内の統率は崩壊。
クレアモナ家始まって以来の危機とも言われた、酷い有り様でした。
時を同じくして、先代様がお体を悪くなされて……
その後の重責を一身に背負われたのが……エステラ様。
気丈に振る舞い、「絶対大丈夫だから」と皆を励まし……そして、幼少の頃からおそばに居させていただいた私を、ご自身の右腕として給仕長へ抜擢された。
私は、あんな小さな体で懸命に頑張るエステラ様を、なんとしてでもお守りしなければと……少々強引な方法も取りつつ、給仕たちをまとめ上げた。
それでも……四十二区は、ずっと崖っぷち……破綻と隣り合わせでした……
「よく……ここまで変われたものですね……」
館の前の道は、四十一区とその先へと通じる街道として、美しく整備し直されています。
道の両サイドには光るレンガが設置され、夜の闇を明るく照らす。
たまに、ふと思うのです。
「本当に、ここは四十二区なのか」と。「もしかしたら、これらはすべて、私の見ている夢なのではないのか」と……
過労で体力を磨り減らし、心労で心を磨り減らし、ついには倒れてしまった私が熱に浮かされて見ている、現実逃避の夢……なのではないのか、と。
しかし。ここへ至るまでの歴史がそれを否定しています。
何もいきなり変わったのではないのです。急激ではありましたが、それらは着実に、一歩一歩積み重ねていった結果だということを、私はちゃんと理解しています。
エステラ様に変化が現れたのは、昨年の、間もなく大雨の時期に入ろうかという頃……
ゴミ回収ギルドなどという意味不明なギルドを新設したり、『安いっ! 美味いっ! 可愛いっ!』などと書かれた服を着て帰ってきたり、海漁ギルドと交渉して海藻の絡まった網を預かってきたり……
一見すれば、自棄を起こしてしまったのではないかと思うような奇想天外な行動が増え……そしてある日、私はついにその理由を知ることになる。
「よくもまぁ、長々と私に隠し事をしてくれましたよね、あのぺったんこは……」
少し腹立たしくなって、エステラ様のいる執務室へ顔を向ける。
「ぺったんこー!」
ギリギリ聞こえないであろう声量で、私の鬱憤を念に載せて送っておく。
これで、少しでも縮めばいいのです。
「……仲良くしろよ、お前らは」
突然、そんな声が聞こえて、驚いて視線を戻すと……そこにヤシロ様が立っていました。
半ば、呆れたような顔をして。
「仲は良いですよ。近年類を見ないほどに良好です」
「それで『ぺったんこ』か?」
「本名をお呼びするほどに親密になったのです」
「……いつからあいつの本名は『ぺったんこ』になったんだ?」
……『あいつ』、ですか。
にわかには信じ難かったのですが……やはり、ヤシロ様は忘れてしまわれているのですね、エステラ様の名前も…………そして、私の名前も。
「少々お待ちください。お取次いたします」
現在エステラ様は仕事中。
とはいえ、ヤシロ様の用件なら何はなくとも優先されるでしょう。
エステラ様にとって、ヤシロ様に関する案件は最優先事項なのですから。
早く取り次いで、さっさと用件を済ませていただきましょう。
ヤシロ様の用件……おそらく、エステラ様を忘れないように記憶の定着を行うつもりなのでしょう。
どれくらいの時間がかかるかは分かりませんが……
早くしていただかないと、私の番まで回ってきませんから。
……私は信じますよ。
たとえ体に負荷がかかろうと、どんな苦痛を味わおうと……あなたはきっと思い出してくださる。
これまでも、ずっとそうしてきてくださったように……
私たちの望む未来を、あなたは見せてくれる。
私は、そう信じています。
順番は、ずっとずっと後で、構いませんので。
目礼をして、場を辞そうとした時――
「あ、いや、いいんだ」
――ヤシロ様に呼び止められました。
振り返ると、少しばつが悪そうな、……いえ、どこか照れたような表情をされていました。
…………まさか。
いや、そんなまさか。
けれど……期待してしまいます。
期待してしまいますが……私の口からそれを言うわけにはいかない。
私は立場を弁えて、あくまでヤシロ様の歩調に合わせ、付き従うのみ……
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