「ヤシロさん」
どれくらいの時間が経ったのだろうか……どうやら少し眠っていたようだ。
ジネットが俺の肩を揺すって起こしてくれた。
「まだ眠いですか?」
「いや、平気だ。すまん」
「いいえ。コーヒー、淹れましたよ」
「あぁ……悪いな」
ジネットが俺の前にコーヒーを置く。
そして、俺の隣に一つと、向かいにも一つ。
「失礼します」
そう言って、ジネットは俺の隣へ腰を下ろす。
向かいに置かれたコーヒーは、祖父さんの分らしい。
「なんだか、近いですね」
少し照れくさそうに、ジネットが肩をすくめる。
このテーブルに並んで座ることは何度かあったが、向かいがあいている状態だと、なんだか普段よりも近い気がした。
「えへへ」と、照れ笑いを浮かべるジネットに、照れをうつされた。……くそ。
「飲んでいいのか? それとも、祈りを捧げたりするのか?」
「え? あ、どうぞ。召し上がってください。冷めてしまいますから」
「そっか。……じゃ」
なんとなく、カップを持ち上げた後に、祖父さんの席に向かって目礼をする。
「あ……」
と、ジネットが微かに声を漏らす。
「なんだ? 俺、なんかいけないことでもしたか?」
「いえ……。やっぱり、ヤシロさんって不思議な方だなと思いまして」
不思議?
「亡くなった方の魂は、精霊神様のお導きにより天界へ召され、現世にはもう存在しない……というのが精霊教会の考え方なんです。ですから、わたしたちが故人を偲ぶ際は、記憶の中にある在りし日の姿に思いを馳せるんです」
この世界には写真などない。死んだ後は、近しい人間の心の中だけが、唯一存在できる場所となる。
「ですので、あまり馴染みのなかった方は、今みたいに敬意を払ってくださることはそうそうないんです」
「この陽だまり亭を作った人なんだろ? そりゃ、敬意くらい払うさ」
この街に来てから経験した、本当にいろんな出来事……そのすべてが、この陽だまり亭から始まっていた。
この場所の創始者ってのは、ちょっとすごい存在だと思うぞ。
「ありがとうございます」
こちらに体を向け、丁寧に頭を下げる。
顔を上げると、照れくさかったりしたのだろうか、くすくすと笑い出した。
「ヤシロさん、オバケは怖いのに、故人の魂には敬意を払ってくださるんですね」
「うるせっ」
照れじゃなく、からかわれていたようだ。こいつめ。
「よいしょ……」
体をこちらに向けたせいでずれてしまった椅子を、ジネットは一度立ち上がり、元の位置へと戻す。そして再び腰を掛けたのだが…………さっきより、近くなってない?
今にも肩が触れそうな距離だ。まだ暗い静かな食堂で二人きり……さすがにちょっと緊張する。
「あの……ヤシロさん」
微かに、ジネットの声が震える。ジネットも、緊張とか……しているのだろうか。
「少しだけ長くなるかもしれないのですが…………お祖父さんのお話を、聞いていただけますか?」
こちらを見ないまま、ジッとコーヒーカップを見つめて、そんなことを言う。
こいつが相手を見ずに話すなんてのは珍しい。やっぱ、緊張してんのか?
「あぁ、聞かせてくれ」
ジネットが自分の過去を話すのは珍しい。
それも、聞いてほしそうにするなんてことは、ちょっと記憶にない。
どこかホッとした表情を浮かべて、ジネットはぽつりぽつりと語り出した。
「わたしは、九歳の年から、ここにお手伝いに来るようになりました」
『九歳の年』ということは、ジネットが九歳になる年……つまり八歳の頃ってことか。
「まだ幼かったわたしは、お手伝いどころかずっと足手まといで……お祖父さんの仕事を余計に増やしてばかりでした」
今からは想像もつかないが……八歳の子供ならしょうがないかと思える。
「けれど、お祖父さんはいつも優しくて、『お前がいてくれるだけで、店が明るくなるんだよ』と、そんなことを、いつも言ってくれていました」
それでも、そんなことには甘んじず、ジネットは一つずつ丁寧に仕事を覚えていったのだろう。
「常連のお客さんも、同じようなことを言って……とても可愛がっていただきました」
その風景が目に浮かぶようだ……
ジジイが経営する店には、やっぱりジジイやババアが集まるのだろう。そんな中に、懸命に頑張る八歳の少女がやって来たのだ。
ジジイババアはこぞって可愛がったに違いない。
それが、ジネットの言う『あの頃の陽だまり亭』なのだろう。
「それから、なんとか仕事を覚えて、十二歳の年に、わたしは正式にこの家へと迎え入れられました」
十一歳の頃だ。
今のマグダよりも、一つ年下だったんだな。
「とても楽しくて、とても、幸せでした」
ジネットがコーヒーに口をつける。
ゆらりと上る湯気が空気へ溶けていく。
「ずっと、この幸せが続けばいいと思っていました。……いえ、続くと、思い込んでいました」
けれど、別れは突然やって来る。
「この家の子になって、一年と少し……あの日、わたしはいつもと同じように買い出しに向かったんです。なんということはない、なんでもない、普通の買い出しでした」
ジネットの顔に、影が落ちる。
散々泣き尽くして、もう涙も出ない。そんな憔悴しきった表情に、俺には見えた。
「買い出しから戻ると……お祖父さんが倒れていました…………」
カチャリと……コーヒーカップが音を立てる。
「大量に、血を吐いていて…………わたしは、どうしていいのか、分からなくて……結局、何も出来ないまま、お祖父さんはそのまま…………」
ジネットの唇が……キュッと結ばれる。
…………分かる。
その時のお前の気持ち…………分かるよ。
何も考えずに毎日を過ごして、当たり前に日常は続くと思っていた。
今日も明日も明後日も……ずっとずっと変わることなんてないと思ってた。
けれど、それは突然やって来る。
自分が、何も考えずに適当に過ごしてしまった時間を、どれだけ悔やむか。もっと真剣に向き合って、もっときちんと伝えておけばよかった、そんなことがどれほどたくさんあるか。
俺には、分かる。
「え……きゃっ」
思わず……
そう、何も考えずに……
俺はジネットを抱き寄せていた。
椅子ががたんと音を立て、体は窮屈に折れ曲がっていて……それでも、強く……抱きしめずにはいられなかった。
「……ヤシロ、さん?」
耳元で、戸惑ったような声が聞こえる。
微かに震える吐息が温かくて、少しくすぐったい。
「お前が……泣きそうだったから」
そんな言い訳を、口にする。
そして、ギュッと、腕に力をこめる。
「わたしは、大丈夫ですよ?」
諭すように、ジネットが言う。
けれど……
「もう少しだけ……このままで」
もう少しだけで、いいから……
「……はい」
静かな囁きが耳を撫で……そっと、ジネットの手が背中へと回される。
まるで、子供をあやすように、ジネットは俺の背中をゆっくりと撫でてくれた。
…………あ、ダメだ。
泣きそうなのは、ジネットじゃない…………俺だ。
ジネットの話が、そのまま…………自分の過去と重なって…………堪らなくなった。
奥歯を噛みしめ、漏れそうになる息をのみ込んで……ギリギリのところでこらえる。
呼吸が……乱れる。
「大丈夫ですよ……」
囁くような、柔らかい声がする。
「もう、一人じゃないですから……」
それは、お前がか…………それとも、俺がか……
それからしばらくの間、俺は何も言えずにジネットを抱きしめていた。
その間、ジネットも何も言わずに、ただ俺に体を預けていてくれた。
早朝の陽だまり亭は、とても静かだった。
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