「じゃあ、給仕長。悪いけど厨房を借りるな」
ヤシロさんが給仕長に声をかけ、給仕長はそれにお辞儀で返す。なんともスマートな応対ですわ。さすが給仕長。余計なことを口にしない、出来る女ですわ。
「お嬢様は必ずやらかしますでしょうから、お湯とお着替えをご用意しておきます。それ以上の不測の事態が発生した場合は、申し訳ありませんがご対応願います。屋敷の物でしたら、何をどうされても構いませんので」
「余計なことをべらべらと! 慎みなさいまし、給仕長!」
「いやぁ、よく出来た給仕長だなぁ」
ヤシロさん、下手に褒めないでくださいまし。給仕長が調子に乗りますわ。
まったく……ワタクシが『やらかす』などと……
「それから、お嬢様はあれでかなり乙女ですので、物事を進展させるつもりがおありでしたらかなり強引に押すのもまた一つの手段かと」
「お~い。余計なこと言ってるけど怒らなくていいのか?」
必要な情報というものは、ありますわ。
得た情報を有効活用するか……腕の見せ所だと思いますわよ。しっかりと熟考なさいまし。
それから十分ほど、あれやこれやと準備を整えて、給仕たちが屋敷を離れていきました。
そして、ワタクシとヤシロさんはお揃いのエプロンを身に着けて、二人、厨房に並び立ちましたわ。
「……なんでこんなひらひらしてんだよ?」
「あら? お似合いですわよ、ヤシロさん」
肩と腰回りにフリルをあしらった愛らしい純白のエプロン。
ウクリネスさんデザインの最新モデルですわ。よくお似合いでしてよ、ヤシロさん。
今度、リボンでも用意させますわ。なんとなく、ヤシロさんには似合いそうですもの。
「んじゃまぁ、始めるか」
食材を前に、ヤシロさんが勇ましい表情を見せたのですが……
「……ぷふっ、フリルを着てキリッと…………くすくす」
「お前ぇが用意させたんだろ、このフリルエプロン!」
いけませんわね。
なんだかヤシロさんが可愛くて、ついからかってしまいますわ。
「何か作ってみたいものはあるか? あんま難しいのは勘弁してほしいところだが」
「そうですわねぇ……」
これまで、ヤシロさんが作り広めてきた数々の料理。
ケーキやパスタ。焼きおにぎりやお好み焼き……
どれも美味しく、何度でも食べたくなるものばかりでしたわ。
「お好み焼き…………いえ、ナポリタンもなかなか捨てがたいですわ……」
「お~い、お茶請けだぞ~」
あら?
ワタクシ、紅茶とお好み焼きでもよろしいですわよ?
ですが、そうですわね……
「ヤシロさんの思い出の味って、何かありますの?」
どうせなら、今日、こういう機会だからこそ食べられるものがいいと、そう思いましたの。
ヤシロさんを、もっと知りたい……と、思いましたの。
「そうだなぁ…………アップルパイ、かな」
「アップルパイ? って、あの、アップルパイですの?」
「あぁ。そのアップルパイだ」
「丸ごとのリンゴに衣をつけて油で揚げた?」
「それリンゴカツだな!?」
「四十区でアップルパイと言えばそれですわよ?」
「四十二区のアップルパイ! パイの中にアップルが入ってるヤツ!」
「おっぱいの中にニップルが?」
「お前、四十二区に来てからおかしくなったよな、確実に!?」
心外ですわね。
もし仮にそうなのだとしたら、原因は間違いなくヤシロさんですわ。
……ワタクシは、その、……ヤシロさん以外に、心を動かされることはそうあることではありませんもの。
「割と地味なものですので。ショートケーキなどの方が思い入れが強いのかと思っていましたわ」
「いや……」
そこで珍しく、ヤシロさんが照れた表情をなさいました。
照れくさそうに、けれど嬉しそうに……子供のような、屈託のない表情を。
「女将さんがな、俺の誕生日に作ってくれたことがあるんだよ。それが、まぁその…………すげぇ、美味かったんだよな」
女将さん。というのは、ヤシロさんのお母様のことですわ。
……お母様の、思い出の……味。
「……羨ましい、ですわね」
ワタクシの思い出といえば……
「ワタクシは、お母様の味を、台無しにしてしまったんですの」
病床に伏せったお母様が、最後にワタクシに食べさせたいと無理を押して作ってくださった料理……
とても簡単ではありつつも、心のこもったその料理を……
「ワタクシは、お母様が最後に作ってくれた料理を食べられませんでしたわ……」
食べてしまうと、お母様の料理がなくなってしまう。
もう二度と作ってはもらえない、最後の料理……
「そう思うと、とても、口にすることは出来ず……」
そして、無残にも、朽ち果ててしまった…………
お母様の料理は、もう二度と……食べることが出来ない……
「眺めているだけでなく……きちんと食べておけばよかったと、今さらになって思いますわ」
ただの愚痴になるでしょうが……ヤシロさんの前でなら、それも許されるでしょう。
もっとも、ヤシロさんに言ったところで仕様のない話なんですけれど……
「きっと美味しかったに違いありませんわ。世界一だったはずですわ…………惜しいことを、しましたわね。幼き日のワタクシは」
もし、あの時にヤシロさんがいてくれたなら……
最近、そんなことをよく考えてしまうのです。あり得るはずもない、仮定の想像を。
もし、やり直せるのなら……きっと、ワタクシは……
「だったら、いくらでも想像し放題だな」
「……へ?」
リンゴの皮を剥きながら、ヤシロさんがこちらに視線を向けました。
そして、ニコっと笑って……
「世界一美味いんだろ? これからすげぇ美味いもんに出会ったとしても、『それより美味い』って思えるんだぞ。すごいじゃねぇか」
「いえ、それは……ワタクシが勝手に言っているだけで……」
「いいや。絶対美味かったって」
得意げに断言して、そして――
「母親が我が子のために心を込めて作った料理に勝てるもんなんか、あるわけねぇだろ」
――そんなことを言うのです……自分の言葉に、絶対の自信を持って。
「女将さんのアップルパイは、いまだ誰にも超えられてないからな」
「誰にも? ……ヤシロさんでも再現できませんの?」
「惜しいところまではいってる気がするんだけどなぁ……、まだまだだな」
「ラグジュアリーのオーナーシェフでも?」
「あんなもん、足元にも及ばねぇよ」
「……店長さん、でも?」
「そうだなぁ…………うん。まだ、女将さんの方が一枚上手かな」
「そう……ですの…………」
あの店長さんをしても超えられない味……
「母親というのは、偉大なんですのね」
「そりゃお前、母親だもんな。伊達に子供育ててねぇって」
確かに。
お母様はワタクシのことならなんでもご存知でしたわね。
好きな食べ物から、好きな色、嫌いな生き物、怖い場所、拗ねて泣いている理由まで……
「どんな料理に出会っても、それを超える美味さなんだぞ。すげぇよな」
「うふふ……そこまで言われると、少々大袈裟な気がしますが…………そんな気がしてきましたわ」
ワタクシのお母様は、そこまでの料理上手ではありませんでしたわ。
料理はほとんど給仕が作っていましたし。
ただ、ワタクシが喜ぶからと、たまに自ら厨房に立たれて…………あ、そうなんですのね。
「ワタクシ……お母様のお料理が、大好きでしたの」
そう……どんな料理人の作る料理よりも、ずっと。
「理不尽にへそを曲げて大泣きするワタクシを、一瞬で泣き止ませるくらい、美味しい料理だったんですのよ」
「そりゃすげぇな。その味が再現できたら世界から戦争がなくなるぞ」
「ワタクシの癇癪は、それほどの大事ですの?」
「俺はお手上げだからな」
冗談めかして両手を上げるヤシロさん。
今は鍋の中でカットされたリンゴが煮込まれていて、とても甘い香りが立ち込めていますわ。
パイ生地は、以前給仕が作り置いていたものを使用するようで、これなら割とすぐに完成しそうですわね。
「美味しそうな匂いですわね」
「美味いからな。当然だろう」
「自信満々ですのね」
「ただなぁ……生地が俺のヤツじゃないからなぁ」
「なら、今度は完璧なアップルパイをご馳走してくださいまし」
「そうやってサラッとわがまま言ってくるよな、お前は」
「当然ですわ。ワタクシを誰だと思っていますの?」
「いや、自慢することじゃないから、それ」
『お前も手伝え』なんて、よく分からない言葉を発するヤシロさん。ですが、『このワタクシが隣にいる』というだけで、かなりの手助けになっているはずですので絶対に手伝いませんわ。
リンゴを並べ、生地を被せて……オーブンへ。
作業が終わっても、ワタクシたちは厨房に残り、立ったままお話をしましたわ。
他愛もない、いつも通りの会話を。パイが焼き上がるまでの間、ずっと。
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