ヤシロを見送り、陽だまり亭の戸締まりを終える。
……きっと、今晩ヤシロは一人で怖い思いをする。気の毒。
けれど、マグダは陽だまり亭と店長を任されたから。
「……ヤシロ、ガンバ」
夜に寂しくて泣くかもしれない。
「マグダがいない~」と。
……ふむ。
明日、ヤシロが帰ってきたら盛大に甘えさせてあげることにしよう。
『……ヤシロ、お帰り』
『あぁ、やっぱりマグダがいる陽だまり亭は落ち着くなぁ~。一晩頑張った俺に、是非マグダの頭を撫でさせてくれ』
『……ふむ、仕方ない。今回だけは特別』
『あぁ~マグダの頭を撫でると癒されるなぁ~!』
……むふー。
まったく、ヤシロは大人なのに甘えん坊さん。
しかし、それもまた仕方のないこと。
では、明日の朝は少し寝ぐせを付けて『撫で甲斐』のある頭にしておくとしよう。
マグダは、そういう細かい配慮が出来る娘。
陽だまり亭に来て身に付けた思いやりの結晶。
「……戸締まり、よし」
昼間は人で賑わうフロアも、今はマグダ一人きり。
がらんと広く、とても静かで、物悲しい。
「…………」
いつもなら、ヤシロがあそこの席に座っていて――
『マグダ。もういいから先に寝ろ。あとはやっとくから』
――って、マグダを見送ってくれる。
今日は、イメルダのわがままに付き合って留守にしているから仕方ないけれど……
それでも、出かける前にもう少し、そう、いなくなる分の甘やかしを少し多めに与えていってもよかったように思う。
ヤシロは迂闊。
明日は、少しお説教しなければいけない。
「……先に、休む」
ヤシロがいない席にそう告げて、フロアの明かりを消す。
暗闇でも、マグダの目は物をしっかりと捉える。
躓くことなく厨房へと向かえる。
「……厨房も、静か」
いつもなら、あのあたりに店長がいて――
『マグダさん、お疲れ様です。きちんとお布団をかけて寝てくださいね』
――と、マグダを見送ってくれる。
それで、たまにもう少し甘えたいなぁ~という気分の時は、こう、店長のそばに寄っていって、腰の付近に頭をこすりつけると――
『お部屋までお送りしましょうか?』
――って、にっこり笑って言ってくれる。
そして、マグダを部屋まで送って、マグダがベッドに入ったら布団を肩までかけてくれて、頭を撫でて……マグダが眠るまでそばにいてくれて…………
「……店長。マグダ、もう寝る、よ?」
声をかけても返事はない。
当然である。
そこに店長がいないのだから。
「……むぅ」
なんだか、無性に寂しくなってきた。
店長は几帳面なので、厨房の中はすっかり綺麗に片付けられている。
だから余計に、人の気配がしなくて物悲しい。
……なんだか、陽だまり亭が、陽だまり亭じゃないような雰囲気がする。
「……もう寝る」
厨房の明かりを消して、ランタンを一つ手に取る。
このランタンは、朝店長が使うための物。
マグダとは違い、暗闇で目が利かない店長が暗い厨房に明かりを灯すために使う物。
今日は、マグダが部屋の前まで持っていってあげる。
真っ暗闇でも、マグダなら目が利く。
なんだって見える。
でも……やっぱり明るい方がいい。今は、明かりを点けたままにしておく。
中庭に出ると夜の匂いがする。
庭の鶏小屋も静まり返っている。ウチのニワトリは早寝早起きの規則正しい生活を送っている。
……なんだか、今、この世界で起きているのはマグダだけのような気がしてしまう。
「…………」
…………突っついて起こしてやろうか?
「……まぁ、しないけれど」
ウチのニワトリは、店長とヤシロが可愛がっている。
もっとも、マグダに対する可愛がりの足元にも及ばないレベルではあるけれど。
それでも、たっぷりと愛情を注がれている。
……突っついて起こしてやろうか?
「……まぁ、しないけれど。……今日のところは」
寛大な心で鶏小屋を一瞥し、マグダは二階へと上がっていった。
店長の部屋の前にランタンを置く。
たまに店長が先に眠った時、ヤシロが店長のランタンを置いておくために置き場を作った。
ヤシロは、店長の部屋への立ち入りが禁じられているから。
マグダは入ったことがあるけれど。
「……静か」
店長の部屋からは物音ひとつ聞こえない。
ドアの隙間から店長の部屋の匂いがしているけれど、起きている時の店長の、あの優しい匂いはしない。
物に残った匂いは、時に寂しさを増長させる。
……今は、ちょっと、イヤ。
ランタンを置いて、マグダは自室へと戻る。
部屋は暗く、ひんやりとしていた。
当然ながら、誰もいない。
それはいつものこと。
マグダが眠る時、ヤシロは部屋にいないことがほとんどだから、隣から物音が聞こえないのもいつものこと。
……けれど。
「……今日は、ずっといない…………」
そう思うと、無性に寂しくなってきた。
ベッドに潜り込んでさっさと眠ってしまおう。
もう夜も遅い。
いつものマグダならもう眠っている時間。
ベッドに潜り込み、布団にくるまってしまえばすぐに眠ってしまうことだろう。
眠ってさえしまえば、あっという間に朝になって――朝になれば、ヤシロが帰ってくる。
「……これは、史上最大級の甘やかしが必要。それを要求するだけの権利を、マグダは得た」
ヤシロの罪は重い。
へそを曲げたマグダを誠心誠意甘やかす義務を負った。
これは必須事項。
回避不可能。
だから……
「……早く、帰ってきて……」
目を閉じ、必死に眠ろうとした。
なのに、こんな日に限って眠気がやってこない。
何度も寝返りを打ち、その度に夜の風が布団の中に潜り込んできてマグダの心を寒からしめる。
「……ムリ」
そう、無理だった。
今日はきっと甘やかされないと眠れない日だったのだ。
本来なら、マグダが眠るまで店長かヤシロがここにいなければいけない日だったのだ。
そんな日に誰もいないから、マグダは眠れないのだ。
「……暫定的な対策が必要」
抜本的解決案は実現が難しい。
ならば、今夜、今この瞬間の寂しさをなんとか和らげる方策が必要とされる。
「……これは、ヤシロのせい」
だから、多少のことは大目に見られるはず。
マグダはベッドを抜け出し、部屋をそっと出た。
廊下を少し進み、ヤシロの部屋の前で止まる。
「……今は、緊急事態だから」
そう呟いて、ヤシロの部屋のドアを開ける。
ヤシロの部屋の匂いがして……けれど、ヤシロの匂いはしない部屋。
似た匂いだけれど、やっぱりヤシロ本人からする匂いとは少し異なる。
この部屋の匂いも好きだけれど……
「……ヤシロの匂いの方が、いいのに……な」
そんなわがままを言っているのに、ヤシロが甘やかしてくれない。
いつもなら、マグダがどうしようもなく寂しくなって、どうしようもないようなわがままを言ったら、こう、優しく微笑んで、マグダの寂しさを取り去ってくれるのに。
どうして、ヤシロはここにいないの?
「……むぅ」
これは、ヤシロが悪い。
ヤシロの責任。
マグダは、許可なくヤシロのベッドに潜り込んだ。
この部屋で、最もヤシロの匂いが染みついている場所を占拠する。
布団にもぐり、包まって、胸いっぱいにヤシロの匂いを吸い込む。
これで、少しは寂しさが紛れ……
「……ない」
おかしい。
なんだか余計に寂しい。
ヤシロの匂いがするのにヤシロがどこにもいない。
そんな異常な事態に、心臓がばくばくと早鐘を打つ。
まるで……
ヤシロが、マグダを置いてどこかに行ってしまったような気がして……
「……イヤっ」
布団をはねのけた。
ベッドから飛び降りた。
ヤシロがいない部屋はイヤ。
ヤシロの声が聞こえない部屋は嫌い。
ヤシロの温もりが感じられない部屋は、……怖い。
「……うぅ…………ぐすっ」
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
寂しいが、悲しいに変わってきた。
すぐ戻ると言ったまま戻ってこなかったら、どうしよう?
「……や、だ…………」
困った。
この寂しさは、一人では消せないのに。
どうしよう……
「……てんちょ……う」
ヤシロの部屋を飛び出して、店長の部屋へ向かう。
静かな部屋の前に立つと、心臓がざわざわと騒ぐ。
店長の部屋に招かれたことは何度もある。
マグダが部屋に入っても、店長は嫌な顔をしたことがない。
そればかりか、とても楽しそうにお話をしてくれる。
……けど。
無断で入ったことは、ない。
……怒る、だろうか?
マグダのこと、嫌いになるだろうか……
怖い……
けど、寂しい……
「……店長…………ヤシロが、ね……いないから……だから…………」
言い訳をいっぱいして、意を決してドアを開ける。
ふわっと、店長の匂いがする。
店長の部屋の匂いと一緒に、店長の匂いがする。
耳がぴくっと震える。
「……すぅ……すぅ」
店長の声……
静かな寝息が聞こえて……マグダの目から涙が溢れた。
……怒られても、いい。
明日だったら、いっぱい怒られてもいい……
だから……今だけ…………
部屋に入って、ドアを閉める。
ゆっくりとベッドに近付いて、店長の寝顔に話しかける。
「……店長……あの、ね…………マグダ、ね……」
ベッドに潜り込もうとしたら、うっすらと、店長が目を開けた。
ぽや~っとした瞳がこちらを見つめて……
……笑った。
「……店長……」
「マグダさん?」
「……そう。あの、今日、一緒に……」
「えぇ。構いませんよ」
そう言って、布団をめくって、マグダに向かって手を広げてくれた。
あぁ、よかった。
これでマグダは眠れる。
怖い気持ちから解放される。
ベッドに潜り込むと、店長がマグダをぎゅっと抱きしめてくれた。
眠っていた店長の体はいつもより温かくて、マグダはすごく安心した。
胸いっぱいに空気を吸い込めば、全身に店長の匂いが広がっていって――
あぁ、この匂い、好きだなぁ。
――って、思った。
「……店長、おやすみ」
「はい。おやすみなさい、マグダさ……」
店長は、半分以上眠っていた。
言い切る前に再び眠りに落ちていった。
だからきっと大丈夫。
今夜、マグダが物凄く甘えてしまったことも、きっと明日の朝には忘れている。
不思議なもので、こうして安心できる場所にいると、さっきまでのわがままがとても恥ずかしく感じてしまう。
……あれでは、まるで赤ちゃんだ。
マグダは、もうすぐ大人になるレディだというのに……
「……店長、きっと全部夢だから、忘れるといい」
店長の寝顔にそう呟いて、店長の腕の中で体を丸める。
柔らかくて温かい胸に顔をうずめて、大きく深呼吸する。
「……けど、マグダと一緒に寝て楽しかったことは、覚えているといいと思う」
きっと、店長も今マグダと同じ気持ちで眠っているはずだから。
さっきまでは影も形も見えなかった眠気が急ぎ足でやってきて、マグダは物の数秒で眠りに落ちた。
惜しむらくは、もう少しくらい店長の温もりと匂いを堪能すればよかった。
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