「一つ、いいですか?」
エステラが、苦くて飲めないコーヒーのカップを指でなぞりながら、トレーシーへと問いかける。
最初は視線を合わせずに、トレーシーがこちらを向いたと確信した後にそっと視線を向ける。
この動きは相手に、「こちらはすべて分かっているのだぞ」ということを無言のまま伝える効果がある。
相手が自分の目を覗き込んでくるのは、同時に向いた視線がぶつかるよりももっと強い威圧を感じるものだ。「相手は勝利を確信しているからこそ臆さないのだ」と、脳が勝手に解釈してしまうから。
「今、ここには、ボクたちしかいません。……内緒話をするには、打ってつけではないですか?」
「え…………いえ、でもそれは」
「ボクは、今日を境にもっとあなたと親しくなりたいと思っていますよ。トレーシー『さん』」
「…………エステラ様……」
軽く、気取らない笑みを浮かべる。それで相手の警戒心を和らげる。
エステラは、こういうところだけは本当にうまい。
相手を追い詰めて突き落とすような心理戦は苦手なクセに、相手がひた隠しにしている悩みや弱点を引き出して手を差し伸べられる状態に持ち込む心理戦だけは、な。
要するに、自分から進んでババを引きに行くような心理戦専門のお人好しなのだ。
「…………はぁ」
重いため息を落とし、トレーシーががくりとうな垂れる。
顔を覆い隠すように手を広げ、そして両手で前髪をくしゃっと掴む。
話をしようと決めたとしても、いざ口を開く前には緊張するものだ。
特に、誰にも打ち明けることが出来ずにいた秘密の片鱗を垣間見せるような時には。
どうやら、『癇癪姫』には誰にも言えない秘密がありそうだ。
俺たちは、トレーシーの準備が整うのを黙って見つめていた。
「本当は、もっと楽しいランチになるはずでしたのに……」
「発想の逆転だよ、トレーシーさん。ランチを楽しいものにするために、心の重りをここで吐き出すのさ」
「エステラ様…………ふふ、素敵な考え方ですね」
親密さをアピールしてトレーシーの緊張を緩和させようとしているのだろう、エステラが敬語をやめた。……それは結構勇気のいる行動で、下手をすれば不興を買い追い出されても文句が言えないようなことなのだが……幸い、トレーシーは不快に思うどころか砕けた口調を喜んでいる様子だった。
「私は、自分が『癇癪姫』などと呼ばれていることを知っています。そして、それは事実なのです」
「けれど……本当は、あんな風にネネさんを怒りたくはないんだね?」
単刀直入に、エステラがトレーシーに尋ねる。
トレーシーは感情の起伏が激しい。
時に、こいつの中には複数の人格が内在してるのではないかと錯覚してしまうほどに。
こいつが二重人格者ではないというのであれば、その理由は一つ……
「無理して怒っているうちに、それが癖にでもなったってところか?」
俺の言葉に、トレーシーの肩が震える。
俯き、震える吐息を漏らし、静かに、弱々しく「……はい」と、肯定した。
あまりにエスカレートした悪癖は、止め時を見失い、当初の目的すら置き去りにして思いもよらない方向へ暴走してしまうものだ。
例えるなら――
気に入らない相手に正論をぶつけられた時に、重箱の隅を突いてでも相手の非を探そうと躍起になって喚き散らしてしまうような、そんな感情に似ている。
だが、止め時を見失ったそれは、得てして悲劇しか生み出さない。
人は、大切なものをなくしてしまうまで、そのありがたみに気が付けない生き物だからな。
「……こんなことを、皆様にお話していいものか……恥の上塗り……いえ、それ以前に非礼に当たるかもしれませんが……」
「構わないよ。むしろ聞かせてくれると嬉しいな」
「では、頑張ってお話させていただきますね」
恥ずかしそうな顔を覗かせ、トレーシーはエステラを見つめてはにかむ。
エステラを喜ばせるのがそんなに嬉しいか?
ただな、「話してくれると嬉しい」ってのは、「人の話を聞くのが大好き!」ってわけじゃないからな? 「相談してごらん」ってことだからな?
まぁ、しゃべってくれるなら聞こうか。
「ネネは幼い頃から一緒に育った妹のような存在なのですが、昔からどこか頼りなく、また悲観的で、自分に自信がなく……あ、言い忘れていましたが、私が今十九でネネが十六になります。ですので、幼い頃よりまるで姉妹のように育ってきたのです」
本当に頑張ってしゃべっている。
これも、エステラを喜ばせたいがためか?
モテるな、エステラ。……女に。
「私は一人娘で、幼い頃より領主になるための教育を受けてまいりました。父の方針で、直系の者に跡を継がせたいということでしたので……。私は生まれながらに領主になることが義務付けられていました。ですが……もともと、体が丈夫ではなかった私は、それが不安で……重荷で……」
やはり、トレーシーの色白はそういう理由があるらしい。
きっと、昔からあまり表で遊ぶようなことは出来なかったのだろう。
「そんな時に、一緒にいたのがネネさんなんだね?」
「はい、そうです」
エステラが敬語を使わない言葉で話しかけると、トレーシーはそんなことが嬉しいのか、一度言葉を区切って明確な笑みを浮かべる。
へこみつつも浮かべた笑みには、先ほどよりも軽やかで愛嬌があった。
「私は、給仕長はネネ以外あり得ないと思っています。けれど、ネネは……健康ではあるのですが心が弱く、泣き虫で、口下手で、人見知りでした…………領主が病弱なのに、給仕長までもがそんな有様では……」
そんな話の合間に、ナタリアがそっと俺に耳打ちをしてくる。
「領主様のお体に不安がある場合や、幼い等の理由で発言力が低い場合などは、給仕長がその代理人となり矢面に立ち、人を動かし、時には締めつけを行うのが慣例なのです」
領主の中では常識となっているのであろう情報を素早く教えてくれる。
要するに、頼りない領主にはおっかない給仕長をあてがって代わりに睨みを利かせてもらう、ってことのようだ。
が。
二十七区はトレーシーもネネも前に出るタイプではなかった。と、いうわけだ。
「それで、ネネには強くなってもらおうと、弱音を吐いた時、泣きそうになった時には、心を鬼にして注意をしてきたんです…………その結果……」
エスカレートし過ぎて、理不尽なことでまで罵倒してしまうようになったと。
そして、ネネのあの反応……あっちはあっちで、怒鳴られ癖が付いてしまっているようだ。
要するに「怒られないように顔色を窺っている」という状態だ。
それは、ともすれば「気を遣っている」と錯覚しがちで、しかしながら実態は真逆なのだ。それは単に、「自分の意志で行動していない」ということに過ぎない。
「これでいいですか」「これはダメですか」と逐一顔色を窺い、「怒られないための予防線」を張るのに終始してしまう。
そうすることで、自身の言動に『責任』を持てなくなっていくのだ。
無責任な言動ほど他人を不愉快にさせ、不利益を与え、不幸を呼び込むものはない。
そして、そんな無責任な言動にまた、トレーシーは怒鳴ったりしていたのだろう。
そんな様を見た者が、トレーシーを『癇癪姫』などと呼ぶようになったのだ。
そりゃそうだ。
怒鳴る理由が、本人にも止められない悪癖なのだ。正当な叱責でない以上、それは癇癪にしか映らないだろう。
「私も、気が付いています。私の叱責は理不尽であると……けれど、どうしても止められないのです…………つい、怒鳴ってしまって…………」
そして、あとで深くへこむ。
自己嫌悪は時に心を殺してしまう。……危険だな、こいつらはどっちも。
「だから……だから私は…………」
テーブルに手を突き、トレーシーが身を乗り出してくる。
エステラに顔を近付け、必死な形相で訴えかける。
「エステラ様のようになりたいと思ったのですっ!」
「ボ……ボクみたいに、って?」
数秒見つめ合った後、トレーシーは自身の格好に気が付き、「きゃっ!? ……す、すみません」と、ソファに座り直し、体の向きをずらして照れ隠しに髪を弄り始めた。
そして、髪を弄りつつも呼吸を整えて、ゆっくりと口を開く。
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