街を歩けば、賑やかな声が耳につく。
「ほら、どいたどいた! 荷車が通るよー!」
「ちょいと! そんなに急いじゃ荷車をひっくり返すよ!」
「ご心配なくー! もうデコボコの道じゃないんでねー!」
「……まったく、はしゃいじゃってさぁ。そんなに急いでどうしようってんだかねぇ」
「けど、はしゃぎたくなる気持ちも分かるわよねぇ」
「ねぇ、こんなに綺麗になっちまってねぇ」
大荷物を積んで全速力で駆けていく荷車の男を見送る井戸端会議中の奥様たち。
近くでは子供たちが平らになった道で存分に遊んでいる。
二ヶ月前。
この大通りにはほとんど人影がなかった。
大雨の影響でぬかるんだ道は、乾いてデコボコの硬い土になっていた。
食料も金もなく、仕事すら失いかけていた人々は息を潜め、お腹を空かせないために家に閉じこもってじっとしていた。
まるで、あの大不況が流行り病の類であるかのように。
息を殺してじっと耐えていれば、災難はいつか過ぎ去って以前のような日常が戻ってくると、そんなありもしない未来に縋るように。
あの惨状に、もしボク一人で立ち向かわなければいけなかったら……
この街では多くの犠牲者を出していたことだろう。
それがまさか――
「たったの二ヶ月で、こんなにも変わるなんてね」
飲み水の汚染から引き起こされた恐ろしい病も、大雨による水害も、そして大災害による経済の停滞も、そのすべてが解決してしまった。
おまけに、この次同じことが起こっても対処できるように予防策まで立てられている。
もう二度と、四十二区は同じ悲劇を繰り返さない。
そう確信できる。
「みんないい顔をしているなぁ」
大通りを歩いていると、すれ違う顔がみんな生き生きと輝いて見える。
下水工事は完了したけれど、そのために掘り起こされた道路の整備や、水害で被害を受けた家屋の復旧作業があちらこちらで行なわれている。
今現在はどこもかしこも手が足りていない状況なので、希望者には特別許可証を発行して復興作業に従事してもらっている。
工房の復旧を待つ職人や、雨で水位の上がった川での漁を控えている川漁ギルドの者たちが大工の手伝いをしている様子をそこかしこで見かける。
そんな中に、小柄な体で走り回っているハムスター人族の姿が散見される。
「おい、ハムっ子! ここに筋交い付けとけ」
「はーい! そーゆーの得意ー!」
「「「お得意様ー!」」」
「いや、それ意味違うだろ!?」
大工に混ざって、実に楽しそうに作業を行っている。
周りにいる大人たちも、ハムっ子の元気過ぎるパワーには苦笑いしながらも、純粋で真面目なハムっ子たちの仕事ぶりには感心をし、子供っぽい失敗や仕草には思わず笑みが零れているようだ。
彼らを『スラムの人間だから』と忌避する人間は、もうこの街にはいない。
ハムっ子たちは、すっかりこの街の住民に受け入れられたのだ。
やっぱり下水工事での頑張りが目を引いたんだろうな。
ハムっ子の掘削作業は驚異的と表現して差し障りない。
彼ら抜きでの下水工事は、もはや不可能だと思えるほどに。
「よぉし、それが終わったら昼飯食いに行くぞ! 特別に俺が奢ってやる! お前ら、何が食いたい?」
「「「「ポップコーン!」」」」
「昼飯にだよ!」
「「「「ポップコーン!」」」」
「じゃあ食えよ!? それで午後腹減ったとか言うなよ!?」
「「「「それは約束できないー!」」」」
「じゃあ飯を食え!」
「「「「ポップコーン丼ー!」」」」
「食えよ!? 絶対食えよ!? 俺、注文するからな!? 残さず食えよ!」
「「「「それは約束できないー!」」」」
……まぁ、どこに行っても自由過ぎるって評価が付いて回っているようだけどね。
それにしても、だ。
「たいしたもんだね、……君は」
これだけの改革をやってのけた、一人の男の顔を思い浮かべる。
いつもどこか不満そうな不貞腐れ顔をしていて、何かある度に他人に難癖をつけて、そのくせ困っている人を見ると放っておけない。
そして、困っている人が救われた後に見せる笑顔を見ると、ほっとしたような表情を一瞬だけ見せる。そんな、不器用な男の顔を。
「君が変えたのはこの街じゃなくて、この街の人々の心なのかもね」
誰もが自分の生活で精一杯だった。
人を思いやる余裕なんてなかった。
余裕がないからどこもかしこも、今にも切れてしまいそうなほどに張り詰めていた。
かつての四十二区は、本当に破綻の一歩手前まで追い詰められていたんだ。
領主代行であるこのボクが、三十五区の外の海に出稼ぎに出なければいけないくらいに、ね。
どこにも余裕がなくて、ならばそれをボクが作らなければと必死になって駆けずり回っていた。
穏やかな心で微笑む余裕すらも、あの時は失っていたかもしれない。
ヤシロに出会う、ほんの数日前。
ボクはこんなことを思っていた。
ボクには力がない。
この街の状況をひっくり返せるような行動力も、妙案を思いつく頭脳も、動かせる人脈も圧倒的に不足していた。
じりじりと迫りくる破綻の影に脅えて、必死に前を向いて走ろうとしていた。後ろを振り返れば、もう歩き出せなくなるような気がして。
そして縋った。
神に。精霊神に。
恋に焦がれる乙女のように、空に向かって必死に祈りを捧げたんだ。
この閉塞感を打破してくれる、エキセントリックで魅力的なヒーローが、どこかからふらっと現れてくれないものかと、そんな現実逃避をしていた。
他人任せで無責任な空想。
でももし、そんな人が現れたのなら……ボクは、一生を賭してその人物に尽くしたってかまわない。そう思っていた。
実在するはずがない、そんな風に諦めながらも。
けれど、ボクは出会ったんだ。
一人の、エキセントリックで規格外の男に。
そして、その男は見事にこの街の閉塞感をぶち壊してくれた。
ボクが望んだ、まさにその通りに。
過去から引きずり続けていた重い枷から住民を解き放ち、未来に立ち込める不穏な暗雲を振り払い、雲間から光が差し込むように進むべき道を示してくれた。
「まったく……君というヤツは」
通りの向こうに、倒壊した家が見えた。
柱が古くなっていたところに長雨でダメージを喰らっていたのだろう。
そこに数人の大工が集まり、設計図を広げてああでもないこうでもないと話し合いを重ねている。
こんな倒壊した家屋でさえ、大雨以前の風景に比べれば輝く未来に続いているように見えるのだから不思議だ。
この倒壊した家屋は、やがて綺麗に建て直され、家族を迎え入れて子々孫々まで健やかに育んでいくのだろう。
不思議だね。
ボクの目がどうにかなってしまったのかという錯覚に陥りそうになる。
見るものすべてが輝いて見えるのだから。
「……ボクが何年も悩んで苦しんで、結局できなかったことを、いともあっさりとやってのけてくれたものだね、ホント」
癪かと聞かれれば、間違いなく癪ではある。
けれど、ボクは彼を称賛したい気持ちでいる。
「こんな景色が見られるなんて、思ってなかった」
大通りを行き交う人の顔がみんな笑っている。
すれ違いざまに声をかけて「最近忙しそうだな」「お前もな」なんて会話をして仕事に戻っていく。
こんなに活気に満ちた大通りは久しぶり……いや、初めてかもしれない。
決して領民が裕福になったわけではない。
どん底だった生活が最低ラインに戻っただけかもしれない。
けれど、この街のどこを見ても以前のような閉塞感や絶望感は感じられない。
悲愴感は鳴りを潜め、代わりに希望が見え隠れしている。
「まっ、ボクの懐は今まで以上に寒々しいけどね」
スラムの大改革、トルベック工務店の誘致、寮の建設、下水工事に道路整備。
それらすべての費用がボクの肩にのしかかってきた。
まったく、あの男は。
ヤシロという男はいつもそうだ。
人のお金だと思って遠慮なくぽんぽんぽんぽん浪費して……
けれど、きちんと稼ぐための手段も提示してくれる。
相当ハードルの高い要求だけれど、それでもボクは――
「君がこの街を絶望から救ってくれたんだから、この街の未来を希望で満たすのはボクの役目だ。どんな無理難題だって受けて立ってやるさ」
活気づいた街の雰囲気に乗せられて、強気な気分になっていた。
そう、やってやるんだ。
今までは一人で背負い込んで、悩んで、迷って、諦めかけていた。
けれど、今は一人じゃない。
また、一人の男の顔が頭の中に浮かんできた。
いつもどこか不満そうな不貞腐れ顔で、こちらを嫌そうに睨む、もうすっかり見慣れた顔。
不思議だね。
そんな不貞腐れ顔が、少しだけ輝いて見えるんだから。
ボクの目がどうにかなってしまったのかという錯覚に陥りそうだよ、まったく。
まぶたを閉じ、脳裏に浮かぶ不貞腐れ顔に告げる。
ボクは頑張るよ。
どん底からようやく這い出すことが出来たこの街を、もっともっと活気のあるいい街にしてみせる。
君が吹っかけてくるどんな無理難題にだって立ち向かってみせる。
だから、さ。
まだほんのちょっと未熟なボクのそばにいて、ほんの少しだけ手を貸しておくれよね。
それくらいはいいだろう?
それくらいの甘えなら、君は受け止められるだけの度量を持っているはずだ。
あぁ、分かっているよ。
無料でこき使うなって言いたいんだろう? ふふん、君の考えることなんかお見通しなのさ。
無論、君にも報酬を与えるよ。
金銭的なものは少々苦しいけれど、それ以外のものでならなんだって。
「……もし」
もし、君が、本当にボクの望むような未来を見せてくれるのなら――精霊神に祈りを捧げた時に思ったように――
生涯を賭して君に尽くしてあげても、かまわないよ。
「ただし、それは本当に最高の未来を見せてくれた時に限るけれどね。ただの最高じゃだめだよ、本当の本当に、最高の、頂上の未来でなきゃあげられないよ」
「何をくれるって?」
「――っ!?」
突然背後から声がして、ボクはその場から飛びのいた。
飛びながら半回転し、背後にいた人物の顔を確認する。
「……ヤシロ」
「大通りの真ん中で寝てると危ないぞ」
「ね、寝てないよ!? ただ、ちょっとまぶたを閉じていただけさ!」
「なんだ? キス待ちしている間に男に逃げられたのか?」
「そんっ、そんな破廉恥な真似、こんな大通りでするわけないだろう!?」
まったく、なんてヤツだ!
会って早々そんな、バカなことを!
だいたい、ボクにそんな相手は…………
言いながら、目に見えている光景に愕然とする。
いや、違うんだ。きっとこれは、街のみんなが活気づいて、街全体が輝いて見えているからで……
だから、別に深い意味なんかは決してないはずで……
だからつまり、そういうことでは決してないのだけれども……
「ははっ、必死過ぎだろ、お前」
無防備に笑ったその顔は、とてもキラキラして見えて……心臓がちょっとだけ鼓動を速くしていた。
あぁ、もう。
ボクの目は、本当にどうにかなってしまったのかもしれないなぁ。
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