俺たちが筋肉痛で苦しんでいた時、この巨大都市オールブルームでは歴史を変えるような衝撃的な出来事が各区で同時に起こっていた。
そう。
新しいパンの発売だ。
今までの常識を覆すような、柔らかく、そして美味しいパンの登場に街中の人間が度肝を抜かれた。
パン職人ギルドの工房には、普段とはまるで異なる芳醇な薫りに釣られた客たちが、何が売り出されるのかも分からないままに長蛇の列を成し、その正体が分かった後はその列が一層長く伸びたのだという。
主食用の丸パンは、噛めば噛むほど甘みが出てくると評判で飛ぶように売れた。
だがそれ以上に、甘くバリエーション豊富な菓子パンの存在が人々を驚かせた。
見たこともないようなパンは、食べたこともないような美味さで、パンとは思えないような柔らかさも相俟ってあっという間に完売となってしまったらしい。
本来であれば、教会が定めた日にまとめて作られるパンなのだが、この日は特別に二十四時間ぶっ続けでパンが焼かれることになった。
教会の偉いさんに俺のメッセージがちゃんと届いたのかねぇ。
鉄は熱いうちに打て。
出し惜しみせず全区民に新しいパンを食わせてやれ。
最初の勢いに乗って胃袋を鷲掴みにしてやれば、そいつらはこれから先ほぼ永遠にパンを買い続けてくれる。それも、これまでとは比べものにもならない頻度で――と、そう伝えておけとベルティーナには伝言しておいたのだが……ま、そこまでは伝わってないんだろうな、どうせ。
けれど、このパンのすごさくらいは理解したのだろう。
教会は出し惜しむことなくパンを焼き続け、新しいパンの誕生を祝うかのように盛大に新しい味を振る舞った。金はもちろん取ってたけどな。
そんな衝撃のデビューから一夜明けた今日。
俺たちの前には大量のパンが山と積まれている。
「『BU』内に存在するパン工房から融通させてきたぞ」
おのれの権力と財力を見せつけるかのように、偉そうに胸を張ってドヤ顔を見せつけてくるゲラーシー。今日もオールバックが決まっている。
「お前、老け顔だな」
「他に言うことはなかったのか、貴様!?」
二十代のくせに、なんかオッサン臭いんだもんよぉ。
威厳と老け顔は比例しないと思うぞ。
「こっちも大量に用意してきてやったぞ」
と、呼んでもいないリカルドも大量のパンを引っ提げて四十二区に顔を出していた。
「え、呼んでないけど?」
「テメェんとこのシスターを満足させるだけの量が必要だっつぅから協力してやってるんだろうが!」
「友好アピールしてポイント稼いで、いつかはエステラの家に泊まろうと? イヤラシイヤツだ」
「そんな下心はねぇわ! 誰が泊まるか、あんなヤツの家!」
泊まろうとして断られたヤツが何を言う。
こいつ、エステラに冷遇された後は決まって友好アピールしてくるからなぁ、なんとも分かりやすい性格をしている。
おかげでこっちは利用しやすいんだけども。
とかなんとか考えていると、ゲラーシーに形式上の挨拶をしていたエステラがこちらへやって来た。
「わぁ! リカルドも持ってきてくれたんだ。それもこんなにたくさん」
「お、おう。まぁ、これくらいの量は、俺の力をもってすれば用意するのは造作もないことなんだが、お前たちには必要だろ?」
珍しく素直な喜びを表すエステラに、リカルドは少々舞い上がっている。鼻の穴、膨らんでるぞ。
「遠慮なく持っていってくれていいぞ、ふふははは」
「うん。助かるよ。じゃ、受け取ったからもう帰っていいよ」
「いるわ! 最後まで!」
「えぇ……暇なの?」
「暇などここ数年感じたことないわ!」
いや、どう見ても暇だろ、お前。
しかし、まぁ。
少々歪ではあるが、エステラとリカルドは幼馴染らしい関係になってきたのではないだろうか。気軽に悪態をつけるくらいには。少々歪ではあるが、な。
「しかしまぁ、アレだ……何か困ったことがあれば頼れ。それくらいの時間ならいくらでも融通してやれる」
腕を組んで、空を見上げながら呟くリカルド。
それだけエステラのことを認め、心を砕いていると、そんな表明なのだろう。
それを聞いて、エステラがリカルドの顔を覗き込む。
「リカルド」
微かに口元が緩んで、笑みを漏らす。……というか、鼻から息が漏れていく……というか、まぁ平たく言えば鼻で笑う?
「だから、その兄貴ヅラはなんなの?」
「兄貴みたいなもんだろうが、俺は!?」
「あっははっ、おっこっとっわりぃ~★」
「テメェ、エステラ!」
拳を振り上げるリカルドに、エステラは薄い笑みながらも真剣な瞳を向ける。
「他区の領主である君に頼らなければいけないような危機的状況に陥らないようにする。それが、この区の領民の生活を預かるボクの使命だよ。四十二区のみんなを不安にするような状況にしない、仮にそうなっても他区に頼らなければ何も出来ないような頼りない領主ではいない、それがボクの領主としての責任だ」
これからも、イヤになるくらいトラブルは舞い込んでくるのだろう。
それでもいちいち慌てふためかない、しっかりと四十二区を支える領主になる。そんな意志が感じ取れる笑みでエステラはきっぱりと断言する。
そんなエステラの様子に、リカルドは振り上げていた拳を降ろして口角を持ち上げた。
「そうかよ」
「うん。それに、いざという時はオジ様とルシアさんに頼るから」
「他区の領主じゃねぇか、その二人!?」
「この二人はもう身内」
「俺も入れろよ、その身内に!」
「あっははっ、おっこっとっわりぃ~★」
「それヤメロ! イラッてする!」
リカルド。真意はどうあれ、十数年もイジメ続けてきた事実はそうそう簡単には払拭できないみたいだぞ。
尽くしなさい。貢ぎなさい。そして俺の糧となりなさい。
さすればいつの日か、エステラがほんのちょっとくらいはお前を見直してくれるかもしれなくもなきにしもあらずんばありもせずナリだ。
「で、ルシア。お前、パンは?」
「私はずっと四十二区にいたのだ。用意できるはずないだろう。考えてから物を言え、カタクチイワシ」
分かってるよ。お前が昨日一日筋肉痛に咽び泣いて一歩も表に出ていないことはな。
気軽に二泊もしてんじゃねぇよ。二泊したなら自区の様子を気にして早朝にでも帰れよ。なに昼時までちゃっかり残ってんだよ。
「もう昼だぞ? 帰らなくていいのか?」
「帰るわ。パン祭りが終わったらな」
きっちり遊んで帰るつもりだぞ、この領主。
「ギルベルタが路頭に迷わないか心配だよ」
「仮にそうなったら、私が嫁にもらって生涯面倒を見てやるさ」
ギルベルタが路頭に迷う時はお前が破産した時だっつの。面倒なんか見られるか。
「それはそうと、ハム摩呂たんをどこに隠した? 今日からハム摩呂たんは陽だまり亭のお手伝いのはずだろう?」
「詳しいな、ルシア……」
「ふん。領主の諜報力を侮るな」
「発揮する場所選べよ」
ハム摩呂の勤務事情なんぞに諜報力とやらを割いてんじゃねぇよ。
ルシアの指摘通り、今この場所に陽だまり亭のメンバーはいない。
当然、お手伝いのハム摩呂もいない。
あいつらはこの後で合流する予定なのだ。
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