フィルマンの私室のドアが勢いよく開け放たれる。
突然鳴り響いた大きな音に、廊下に控えていた使用人たちが何事かと身構える。
ドアが開くと同時に、『フィルマンの服を着込んだ人物』が廊下へと飛び出し、全力で走り出す。
「ふぃーるふぃるふぃるふぃるっ!」
「フィルマンさっ……ま?」
思わず声を上げた使用人だったが、語尾が疑問形に変わる。
それもそのはず。
目の前の『フィルマンの服を着込んだ人物』は、明らかにフィルマンとは違う。似ても似つかない。
フィルマンより背が高く、胸元がぱっつんぱっつんだ。
誰あろう、その『フィルマンの服を着込んだ人物』の正体はナタリアなのだ。
「こっちふぃる! 捕まえられるものなら、捕まえてみるふぃる!」
などと、少年声を意識した若干低めの声でナタリアが叫ぶ。
「多少はフィルマンっぽく見える工夫を」と言ったところ、語尾と笑い方が「ふぃる」になった。……って、おい。
「さぁ、ゲームの始まりふぃる!」
逃走を図る怪人のように、颯爽とナタリアが廊下を駆け抜けていく。
一応、戸惑いながらも使用人たちの何人かが後を追いかけていったようだ。
その隙を突くように、部屋から黒い人影が抜け出す。
頭から黒いマントをすっぽりと被り、使用人の目を盗むように廊下を進む。
だが、あんなあからさまな陽動に釣られなかった使用人たちが即座にその黒マントを取り囲む。
先ほどの胸がぱっつんぱっつんの明らかな偽物とは違い、こちらの黒マントは胸がぺったんこだ。
廊下に待機していたほぼすべての使用人がこちらを本物と判断した。
「フィルマン様。お出掛けになる際は一言お声をおかけください。我々がお供をいたしますので」
使用人が黒マントに声をかけると、黒マントはなんとも微妙な顔をして――完全に信じ込まれちゃってるもんな、ぺったんこだから……ぷぷっ――頭を覆うマントをはぎ取った。
「ごめんね。ボク、フィルマン君じゃないんだ」
「ク、クレアモナ様!?」
自身を取り囲む使用人たちに、エステラは苦笑いを向ける。
――と、ここまでは後から伝え聞いた情報だ。
俺はというと、二人が囮になってくれている間にフィルマンを連れて館の外へと抜け出していた。
夜中、頻繁に抜け出しているフィルマン。
いくら夜中といえど、玄関から堂々とは抜け出せないだろうと踏んだ俺は、フィルマンに「抜け道があるよな?」と尋ねた。
案の定、人目につかず表へ出られる抜け道は存在した。
床下を通り裏庭へ出る抜け道と、裏庭を突っ切った先の塀に作られた秘密の抜け穴。
俺とフィルマンはそこを通って館を出たのだった。
ただ、この抜け道も、使用人たちの意識を他所に向けなければ見つかってしまう危険が高く、陽動作戦を決行したというわけだ。
「大丈夫でしょうか、クレアモナ様たち……」
「まぁ、咎められることはないだろう。秘策もあるし」
もし使用人、もしくは執事のベノムに責められた際は、「これがフィルマンの、ひいてはドニスの幸せのためになる」と宣言するように言っておいた。
たぶんそれで乗り切れるだろう……あの館の使用人、ちょっとアレなアホばっかだったし。
床下を這い回り、塀に開けられた小さな穴に体を押し込め、ぐるりと遠回りするように人目のない裏路地を頭を低くして移動していく。
決して見つからないように慎重に移動するのは精神をすり減らされる。
エステラたちに囮をやらせてしまったのだ。
俺も、しんどいだの疲れただの文句は言っていられない。
何がなんでもフィルマンを麹工場へ連れて行き、リベカと面会させる。
随分と時間をかけ、俺たちはようやく麹工場の近くまでやって来た。
「ここを抜けると、麹工場の正門前に出られるんです」
そう言ってフィルマンに連れてこられたのは、今朝フィルマンが身を隠していた角だった。 本当に誰にも見つからなかったな……こういう用意周到さが、なんか怖いんだよなぁ……ストーカーって。満面の笑みで「どうです? すごいでしょ?」とか言ってるけどさ、俺、鳥肌立っちゃってんだよね。
「ところでパーシー」
「誰ですか!? フィルマンですよ!?」
いや、すまん。
もう、生態がパーシーそっくりだったから、つい。
「お前、リベカ・ホワイトヘッドに会っても、いきなり変なこと口走るなよ?」
こういうタイプのヤツは、好きな娘を目の前にすると緊張が一瞬で臨界点を突破して、あり得ないことを口走ったりしそうだからな。
「大丈夫ですよ、ヤシロさん」
自信たっぷりに胸を張るフィルマン。
「僕が、どれだけ長い間見つめてきたと思っているんですか。お会いしても、スマート且つ優雅に対応できるはずです」
……不安だ。
こんなところに隠れて、チラッとでも姿が見られれば大喜びしているようなヤツだ……ガッチガチに緊張するに違いない。
さて、どうやって話をさせればいいのか……
「まずはボクたちが呼び出して、先にリベカさんと話をする方が無難かもしれないね」
俺の頭上から、エステラの声が降ってくる。
「なっ!? なんでお前らがここにいるんだ!?」
振り返ると、エステラとナタリアが立っていた。
こいつらは、今頃ドニスのとこの使用人たちに取り囲まれて、弁解とかしているはずなのに……
「まさかっ、僕たちを追いかけて? ま、まずいですよっ。ここに来たことが使用人にバレたら……」
「あぁ、うん。そこら辺は大丈夫だよ」
心なしか、エステラの顔が引き攣り始めた。
「私からご説明いたします」
苦笑を噛み殺すエステラに代わり、ナタリアが淡々とした口調で状況を説明し始める。
「使用人たちに捕まった私たちは、執事のベノムさんに『なぜこのようなことをしたのか?』と問われました。返答によっては、外交問題に発展しそうな雰囲気でした」
「それで、なんて答えたんだ?」
「『彼らは、ミスター・ドナーティの幸せを捕まえに行ったのだ』と……」
なに、その微妙な言い回し……そして、あながち外れてないところが、ちょっと嫌。
「おまけに、『ここで私たちを見逃し、なおかつ自由に行動させてくれれば、ミスター・ドナーティは超ハッピー』と申しましたところ、監視無しで外へと解放してくださいました」
「セキュリティ的に問題大有りだな……」
「彼らはみんな、ミスター・ドナーティが大好きなんだよ…………ちょっと引くくらいに、ね」
ドニスの幸せに繋がるならばと、不穏な動きを見せる俺たちを野放しにしてくれたらしい。
……それは、主のためになっているのか?
いや、まぁ、ドニスに不利益を吹っかけるつもりはないけどよ……
「……正直、こんなにあっさり分かってくれるなら、ボクたちの努力はなんだったんだって……すごく虚しい気持ちになってね…………ふふ、ふふふ……」
男装をしたナタリアと、マントを羽織っただけのエステラ、
両者を比べると、明らかにエステラの方がメンズだった。
……それが、地味に心を抉っているのだろう。
俺は、現在痛んでいるであろう場所を指さして労いの言葉を述べる。
「お前のその抉れが、きっと俺たちに幸運をもたらしてくれるさ」
「君が今指さしているのはボクの心だよね? 胸ではなく」
まぁ、心も胸も同じような場所じゃないか。
「約束通り、ボクたちが身に着けた衣服は処分してもらったよ。新品だったのに、もったいなかったな……」
フィルマンに扮装する際、フィルマンの強い希望により、一度も身に着けていない新品の服とマントを使用することになった。
そして、エステラたちが身に着けた物は、たったの一度もフィルマンの手に渡ることがないように即時焼却処分された。
…………いや、もう……なんか怖いわ。こいつの徹底ぶり。
「…………ボク、悪い菌にでもなった気分だよ……」
「心配すんなエステラ。俺がフィルマンの立場だったら、ちゃんとくんかくんかしてやるから」
「それはフォローのつもりかな!? それならそれで心配なんだよ、別の意味で!」
「そうですよ、ヤシロ様。エステラ様は、嗅がれるより嗅ぎたい派です」
「そんな派閥に属した記憶はないよ!」
門の前でギャーギャーと騒ぐエステラ。
こいつらは、館から普通に歩いてここまでやって来て、ここでも身を隠すことなく騒いでやがる。ここまで必死に身を潜めてやって来たのがバカバカしくなってきたな……
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