ぶぅーぴぃーぶぅーぴぃー……と、ブタの鼻から荒い呼吸が漏れる。
床に、豚肉の塊(生きたまま)が転がっている。
その隣で、輝くような笑みを浮かべて額の汗を拭う九歳の幼女。
「むふん! タッチの差じゃったが、逆転大勝利なのじゃ!」
リベカプレゼンツの食材調達競争は、激闘の末、僅差でリベカの勝利となった。
「やるなぁ、アッスント。ナイスデッドヒート」
「ぜっ……全力で急いだ結果、の、……ぶぴぃ……まぐれ、の、僅差、ですよ……ぶぅ……」
演出ではないと、息も絶え絶えに訴えるアッスント。
全身汗だくだ。
全力疾走をかましたリベカとアッスントよりはるかに遅れて、バーサが今、悠々と戻ってきた。
こいつがリベカの速度を調整してくれたのだろう。
普通に競争していたのでは、アッスントは惨敗しているはずだった。
涼しい顔をして、がっちりとポイントを押さえてくる。
いい仕事をするバーさんだ。リベカの喜ぶポイントをしっかり押さえている。
「これ、アッスントよ。いつまで転がっておる。早く料理をするのじゃ。わし、今なら美味しく食べられる気がするのじゃ!」
「え……いや、料理は…………」
ガン見された。
それはもう、魂のこもったガン見だった。
「これ以上動かされたら直視できないような惨状になりますよ」という、鬼気迫る訴え。
アッスントは必死だ。
「料理は、ヤシロ様にお任せしましょう。彼は四十二区随一の料理人のいる店で働いておりますので」
その場をまとめるように、ナタリアが俺を推薦する。
四十二区随一の料理人のいる店で働いている……まぁ、間違ってないか。俺の料理の腕とは一切関係のない情報ではあるが。
どちらにせよ、俺が作るつもりだったので問題はない。
ただ、このナタリアの助け船によって、アッスントが「ナタリアさん……いい人っ!」みたいなきらきらした瞳をし始めたのは、ちょっと危険だけどな。……ナタリアに貸しを作るなんて、アッスントお前、変わったな。
「それじゃあ、厨房を貸してもらえるか?」
「ご案内いたします」
「わしも見に行くのじゃ!」
バーサに先導され、リベカに裾を引っ張られながら部屋を出て行く。
エステラとナタリアも俺の後に続き、油まみれのブタだけが床に転がっていた。
帰ってくる頃には熟成でもされてそうな雰囲気だな、アイツ。
「美味いのじゃっ!」
俺渾身の麻婆茄子に笑顔満面のリベカ。
……そりゃそうだろう。どんだけ苦労させられたと思ってんだ。
かなり辛さを抑えても「まだ辛いのじゃ!」の一言で没にされ、作り直しを要求され、仕舞いには「辛さで殺す気か!」とケツを叩かれる始末……元気の良過ぎるお子様って、首根っこ摘まんで泥の沼にでも放り込んでやりたくなるくらいに可愛いよなぁ~ホント。
「ヤシロ。食事中に魔王みたいな顔しないの」
隣の席に座るエステラが肘で脇腹を突いてくる。
お前はいいよな。労せず美味いものを食ってるだけなんだから!
……九歳の味蕾、敏感過ぎんだよ。ったく。
「これは、確かに美味しいです。以前の『豆板醤もどき』とは比較にならないほどに」
味の違いを理解していそうなバーサも太鼓判を押す。
感心したように頷き、何度もスプーンを口へと運ぶ。
「きちんと熟成させると、もっと深みのある味になるぞ」
「むふふん! 俄然やる気が出てきたのじゃ!」
一人だけ、激甘口仕様の麻婆茄子を食っているリベカが拳を振り上げて吠える。
バーサに聞いたところ、リベカの仕事は麹の管理であり、味噌や醤油は別の職人が作っているらしい。……なら、お前が頑張るところなんかもうないだろうが。
「豆板醤に合った麹を開発するのじゃ! きっと、もっと相性のいい麹があるはずなのじゃ!」
凄まじい意気込みだ。
まぁ、専門的なことは専門家に任せておくのが吉だろう。そんな麹があるのなら、そいつを作ってもらった方がありがたい。
「それより、どうじゃこのナス? たまらんくらいに美味いじゃろ?」
「え、えぇ、そうだね。肉厚で歯応えもよくて、美味しいナスだね」
「の~ぅ! さすがエステラちゃんじゃ。舌が肥えておるのじゃ」
まぁ、おそらく、エステラはナスの善し悪しなんぞが分かる繊細な舌は持っていないんだろうが、「美味いか」と聞かれたら普通に美味いナスだ。
が、あくまで普通レベルだ。
「……ロレッタ、今頃何してるかなぁ?」
「ヤシロ……なんでその名前が出てきたのかは想像がつくけど、ちょっと自重しようか?」
さくっと釘を刺される。
しかしなぁ。そんな自慢するような味ではないぞ、このナス。
「こちらは、何か特別なナスなのですか?」
『無知な給仕』を演じて、エステラの代わりに質問をするナタリア。
エステラは「さすがじゃ」とか言われた手前、聞きにくいだろうからな。
ナタリアの質問を聞き、リベカが得意満面で小鼻を膨らませる。
何か自慢したい逸品なのだろう、このナスが。
「このナスはの、『教会ナス』なのじゃ!」
「教会ナス?」
そんなものがあるのかとアッスントへ視線を向けるが、アッスントは表情を曇らせる。聞いたことがないようだ。
まさか、アッスントも知らないような二十四区の特産品だったりするのか?
俺たちの間に『?』マークが飛び交っていたからだろう、バーサが静かな声で解答を寄越してきた。
「ただのナスでございますよ。単に、教会で栽培されたというだけの、変哲もないナスでございます」
麻婆茄子をもそもそと咀嚼しながら、澄ました顔で言う。
教会で栽培したから『教会ナス』……まぁ、それは分かった。だが、なぜそんな普通のナスを、リベカはこれでもかとドヤ顔で自慢しているのか?
「少々、思い入れの強い方がおいでになるのです……もっとも、本日は残念ながらお会いすることは敵いませんでしたが」
「これ、バーサ! 余計なことは言わなくていいのじゃ! 別に、わしはあの者に会いたくてわざわざ教会に足を運んだわけではないのじゃ。ただ、あそこのナスが美味しいから、エステラちゃんたちに食べさせてやろうと思っただけなのじゃ」
「『精霊の……』」
「真顔で恐ろしいことをするんじゃないのじゃ!」
まっすぐに伸ばされたバーサの手を全力で叩き落とすリベカ。
その行動をもってさっきの発言が嘘だと自白したわけだが、……教会に思い入れの強い方、ねぇ。
「……気の毒になぁ、少年」
「まぁ、あの様子じゃ、きっとそういうことなんだろうね」
「大人ぶりたいのも、そのお方の影響が大きいのかもしれませんね」
「みなさん、何気に他人の色恋がお好きですよね……私はあまり興味がありませんが」
リベカの浮かれように、俺たちは全員なんとなく事態を察し、なんとなく名も知らぬ少年を哀れんで、数秒後にはすっかり忘れて麻婆茄子に舌鼓を打った。
まぁ、若いんだから、失恋の一つや二つは経験しておくべきだ。
つか、こんな幼女に手を出そうってこと自体が間違いだったのだ。
「なんじゃ? みんなしてにやにやしてからに。なんだか気持ち悪いのじゃ」
ガキがいっちょ前に照れて誤魔化してやがる。そうかそうか、恥ずかしいのか。初々しいのぅ。
「リベカ。お前も一応女の子なんだから、恋くらいしたっていいんだぞ。何も恥じることはない」
大人の余裕で寛大な言葉をかけてやると、リベカはビックリしたように目をまん丸く見開き、そして、みるみるうちに顔を赤く染め上げた。
「わ、我が騎士よ……そ、そなた……っ!」
「なぜわしの心が読めるのじゃ!?」的なうぶうぶな言葉が飛んでくるかと思っていると……
「わしを口説いておるんじゃな!?」
とんでもない大暴騰が後頭部に直撃した。
「違うわっ!」
「いいや、隠さんでもいいのじゃ! そなたも男じゃ、うら若い乙女と触れ合えば恋心も疼くというもの……わしが、可愛過ぎるのがいけないのじゃ」
なんかとんでもない勘違いをされているぞ、俺!?
「どうりでのぅ……いや、先刻から、妙にいやらしい視線を感じるなとは思ぅておったのじゃ……まったく、エロエロじゃのう、我が騎士は!」
「そんな視線、送った覚えがねぇわ!」
「またまたご冗談を。このバーサめも、ヤシロ様のエロい視線はビンビン感じておりましたよ」
「お前もそっち側か、バーサ!?」
なに寝言を抜かしてやがるんだ、このガキとババアは!?
誰がお前らなんぞをエロい目で見るか!
「自惚れるのも大概にしろよ、このぺったんことしわしわめ!」
「そうやって、すぐ胸に直結するからエロい視線とか言われるんだよ、君は」
エステラが冷ややかな視線を向けてくる。
「ヤシロ、君はついにこんな子供やお年寄りにまで!?」とか、面倒くさい返しをしてこなかっただけまだマシではあるが……フォローくらいしろや。
「しかしのぅ、我が騎士よ。わしと結婚するには、ウチの婿に入り、一から麹の知識を体に叩き込んで、この工場と室を継ぐことが絶対条件じゃ。ソナタにそれだけの覚悟があるのかの?」
「ない」
「もう少し根性見せたらどうじゃ! まったく、最近の若い男はだらしないのじゃ!」
俺の四分の一程度しか生きてないガキんちょに若い者呼ばわりされた……あ、俺、実年齢三十七。…………あぁ、俺ももう少し落ち着いた方がいいのかなぁ。いやいや、体は十七歳だし、まだ大丈夫。きっと大丈夫。
「しかし、ヤシロ様でしたら見込みはあるかもしれませんね」
比較的まともだと思っていたバーサが世迷い言を口にし始める。この短時間でボケが始まったんじゃないだろうか。
「麹についてもお詳しいと伺いましたし、豆板醤という新しい調味料を持ち込んでくださった実績も高く評価されるべきものです。何より、私の青春の味、豆腐をご存じであるところなんてぐっときます。どうでしょうか、真剣に考えてはいただけませんか? 私との結婚を!」
「お前かーい!?」
ビックリした! ビックリし過ぎて、物凄くベタな感じのツッコミをしてしまった。
てっきりリベカとの結婚をゴリ押しされるのかと思ったら、まさかの自分の婿探し!
やっぱりボケが始まってんじゃねぇの!?
「初婚です!」
「知らんわ!」
なぜだか、清々しいまで自信たっぷりなバーサ。俺の中でのこいつに対する印象は540度くらいぐるんぐるんと変わってしまった。一回転半だ。
くそぅ。
ほんのちょっとお兄さん的な余裕を見せつけてやろうと、「お前も恋とかしてもいいんだぞ」的発言をしたのが間違いだった。……こいつら、ウゼェ。
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