朝目が覚めた時、体に軽い違和感があった。
ほんの少し熱っぽい。あと、関節が痛い。
けれど、疲れが溜まるとそうなることはままあった。
最近、社畜さに磨きがかかったからなぁ、あいつ……
とある少女の顔を思い浮かべて苦笑を漏らす。
さぁて。今日も一日お仕事を頑張りましょうかねぇ。
――と、ここまではありふれた日常だった。
「おはようございます、ヤシロさん」
「…………」
「ヤシロさん?」
「あ、あぁ。……おはよう」
おかしい……
なんだ?
どうなってるんだ……?
ここは陽だまり亭の厨房。
俺はいつものように自分の部屋を出て、階段を降り、中庭を突っ切って、この厨房に入った。
そこには、いつも目にする光景が広がっていた。
火のついたかまど。立ち込めるいい匂い。下ごしらえ中の食材。
にこにこと俺を出迎えてくれる、まるで太陽のような温かい笑顔。
そのどれもこれもを、俺は『知っている』。
「あの、ヤシロさん?」
当然、こいつのことも、俺は知っている。
よく知っている。
陽だまり亭の店長で、限度を知らないお人好しで、この街一番の爆乳で、今川焼きが好きで、疲れた時はコーヒーにミルクをたっぷりと入れて、エッチなことを言うといつも「懺悔してください」と言う、……一緒にいると、とても落ち着く――少女。
こいつの名前が、思い出せない。
「……うっ!」
「ヤシロさん!?」
激しい吐き気が腹の底から突き上げてきた。
耐えきれなくて俺は床へと蹲る。
世界が回る…………なんだこれ? なんなんだ?
「×××さん! ○○○○さんもっ! ヤシロさんが大変なんです!」
少女が誰かを呼んでいる。
なのに、誰を呼んでいるのかが分からない。
名前が聞き取れない……
「……なにごと?」
いつも無表情なトラ耳の少女の半眼が少し見開かれる。
そう……分かる。この無表情の奥に見え隠れする感情を、俺だけははっきりと読み取れるんだ。……なのに、名前が分からない。
「ほゎぁあっ!? お兄ちゃん、どうしちゃったですか!?」
いつも騒がしい、こいつのことも分かる。
獣特徴こそほとんど現れていないが、こいつはハムスター人族で、下に弟妹がいっぱいいて、いじられキャラだけれど、本当は誰よりも思いやりがあって……
昨日は、「今日はお泊まりしたい気分です!」とかなんとか、訳の分からん理由でここに泊まって…………そこまで分かるのに、どうしてか名前が分からない…………
くそっ!
なんだってんだ。
頭にくる…………気持ちが、悪い…………くそ……
俺の名を呼ぶ悲鳴にも似た声と、慌ただしく駆けていく足音を聞きながら、俺は意識を失った。
目が覚めると、ワラのベッドに寝かされ、布団が掛けられていた。
ここはおそらく俺の部屋だろう。
「ヤシロ。気が付いたみたいだね」
俺を覗き込んでいた赤い髪の毛の少女がホッと息を漏らす。
中性的な顔立ちだが、最近ではもっぱら可愛らしい表情を浮かべることが多くなっている。
「具合はどうさね? あっ、無理して起きなくてもいいさね」
キツネの耳を生やした妖艶な美女が、起き上がろうとした俺の体を支えてくれる。
この微かに甘い独特の香りは、葉煙草のものだろう。こいつはいつも煙管を懐に持ち歩いている。
「ぁの……てんとうむしさん……だいじょう、ぶ?」
頭に大きなテントウムシの髪飾りをつけた小さな少女が、遠慮がちに俺の顔を窺っている。あの髪飾りは、俺が作ってプレゼントした物だ。
極度の人見知りだったのに、俺の前では普通に振る舞ってくれるようになった。
「店長さんを呼んできますわ」
ブロンドの美しい顔立ちをしたお嬢様が部屋を出ていく。
あいつも、今は支部の方で忙しいだろうに、こんなところにいていいのか?
「気分はどないや?」
俺の周りにいた少女たちの間を縫って、緑色の髪をしたメガネの少女が顔を出す。
独特のしゃべり方は、俺にとっては少し懐かしい。
「なんや、ちょっと呆けとるみたいやけど。ここがどこか分かるか?」
「…………俺の、部屋だ」
「ほなら、自分の名前は?」
「……オオバ、ヤシロ」
「ほなら、ウチの名前は?」
「………………」
「どないしたんや? ウチの名前やで? 言うてみ?」
「………………っ!」
また、頭が痛む。
おかしい。
俺は知っているはずなんだ。
こいつの名前も、ここにいる全員の名前も、一緒に過ごしてきたってことも……なのに、どうしてか名前だけが思い出せない。
「ねぇ。もしかして、ヤシロは……記憶喪失ってやつなのかい?」
赤髪の少女が、緑髪の少女に尋ねる。
その顔は、真っ青だった。
「分からへん……せやけど、自分の名前と、ここが自室であることは分かってるようやし…………」
「けど……どうも様子が変さね。なんだかぼーっとして……」
「ぅん……てんとうむしさんらしくなぃ……ょね?」
と、その時。
俺の鼓膜に慌てたような物音が響いてきた。
――ぷるんっぷるんっぷるんっぷるんっ!
「しっ! 大きなおっぱいが近付いてくる! 揺れる音が聞こえるっ!」
俺がそう叫ぶと同時に、部屋のドアが開け放たれ、今朝見た爆乳の少女が部屋に駆け込んでくる。
「ヤシロさんっ! ……よかった。気が付かれたんですね……」
とても安心したような、けれどまだ不安が残るような、儚げな笑みを浮かべる。
「…………ねぇ、ヤシロ。大丈夫なんじゃない?」
「そうさねぇ。特殊能力も健在みたいだしねぇ」
「ぇ、ぇっと……すごく、てんとうむしさん、っぽい……かも?」
なんだろう。
最初からここにいた面々の表情が「のぺー」っとしてしまった。
さっきまでの不安げな空気はどこにもない。
いや、緑髪の少女だけが先ほどよりも深刻な表情を見せている。
「……これは、深刻かもしれへんね……」
「ヤシロのおっぱい好きは、前からずっと深刻だよ」
「そうやないねん」
緑髪の少女が、呆れ顔の赤髪の少女に真剣な眼差しを向ける。
いつもふざけ倒して正常な思考が退化してしまった感のある緑髪の少女だけに、その真剣な眼差しには迫力があった。
赤髪の少女が一瞬、怯む。
「これから、ちょっと真面目な話をさせてもらうな」
ごくり……と、誰かの喉が鳴った。
……俺かもしれない。
緑髪の少女が、薬剤師らしい雰囲気を身に纏い俺へと視線を向けた。
「自分、ちょっとえぇか?」
「な、……なんだよ?」
「すまんのやけど……乳首見せてんか」
緑色の髪の毛が宙を舞う。
赤髪の少女とキツネ耳の美女がまったく同じタイミングで緑髪の少女の後頭部を叩いた。
つんのめって俺へと急接近する緑髪の変態。
身の危険を感じるので少し距離を取る。
「ちゃうねん! ふざけとるんとちゃうんや! ウチは真剣に乳首が見たいんや!」
「尚更重症だよ!?」
「救いようがないさね!」
「だからちゃうねんって! なぁ、自分やったら分かってくれるやんな? ウチのこの必死さを!」
「あぁ……すげぇ必死に俺の乳首を見たがってて…………正直、引く」
「ちゃうねんって!」
頭をかきむしる緑女。
いや、もうむしろ乳首女だな、こいつは。
……ん?
そうか。
「見せ合いっこっていうことならいくらでも……っ!」
……俺の髪の毛が宙を舞った。
キツネ耳の美女の煙管がデコのドセンターにクリーンヒットし、頭が後方へ傾いたところへ、赤髪の少女のナイフが踊る。
先ほどまで俺の鼻があった付近の空気を切り裂き、ついでとばかりに俺の前髪を数本切断した。
今、確実に仕留めにきてたよね!? マジ怖い!
「で、なんの話だったっけ。チクビーナ?」
「誰がチクビーナやねん!? 『意外と可愛いチクビーナ』や!」
「……そんな名前でもないさね、あんたは」
この赤髪の少女とチクビーナとキツネ耳の美女は、これからもずっとこうなんだろうな……可哀想に。
俺もなるべく関わらないようにしよう。
「自分。ウチらの名前は分からへんけど、ウチらのことは分かるんやろ?」
「え? あ、いや、ん~ちょっとどうかなぁ……」
「嘘や! その目は『分かってるけど知り合いや思われたぁないからしらばっくれといたろ』っちゅう顔や! ウチには分かるんやで!」
くっ。……鋭い変態だな。変態のくせに。
「あ、あの……。ヤシロさんは一体どうされてしまったのでしょうか?」
「それなんやけどなぁ……ウチの予想が正しかったら、結構厄介なことになってもぅてるで」
「厄介…………あ、あの……もちろん、治りますよね? お薬があるんですよねっ!?」
「ま、まぁまぁ落ち着きぃや、店長はん!」
ぐいぐいと詰め寄る巨乳店長を、緑の変態チクビーナが制止する。
「なぁ、自分。この店の名前、分かるか?」
俺は、少し考えて答える。
「…………陽だまり亭」
なんだろう……当たり前に知っている名前なのに、一瞬引っかかった。
まるで、本が風化して、色褪せたページの文字を必死に読んでいるような……そんな感じがした。
「ほんなら、これは?」
と、チクビーナが自分の胸を指す。
「巨乳」
「ほなら、これは?」
次いで巨乳店長の胸を指さす。
「爆乳」
「ほなら、あれは?」
と、赤髪の少女の胸を指す。
「…………誤差?」
「誰の胸が誤差だ!?」
「偽乳」
「今日は入れてないよ!」
「……頑張れ」
「励ますな! 頑張ってるよ!」
「……と、いうわけや」
「あ、あの……さっぱり意味が分からないんですが?」
巨乳店長の戸惑いがピークに達したようだ。
そこで、緑髪の薬剤師・チクビーナがキリッとした顔で語り出す。
「記憶はなくなってへん。せやけど、欠損している部分がある。ウチの予想はおそらく外れてへん。その証拠が……」
言いながら俺に近付いてきたチクビーナ。
突然俺の服を掴むと、勢いよく引っ張り上げた。
俺の腹から胸にかけての肌が露出させられる。
「きゃっ!?」
両手で顔を押さえ、薄く頬を染める巨乳店長。
それとは対照的に、絶対変態神・チクビーナZはアゴを摘まみ、真剣な眼差しを俺の胸元に注ぐ。
「やっぱりや…………」
俺の胸元を見て、何かを悟ったらしいチクビーナ。
「ちょっと、これを見てみぃ」
俺の服を捲り上げたまま、その場にいる少女たちに俺の肌を見せつける。
「…………ふむ。綺麗なピンク色」
「ホントです……っ、想像以上に綺麗なピンクです」
「見るんは乳首ちゃう! もうちょい上や!」
「上って…………あっ!?」
トラ耳少女と普通っ娘を叱るチクビーナ。
そして、赤髪の少女が何かを発見して声を上げる。
驚いた表情のまま、俺の胸元を震える指で指し示す。
「何か、付いてる……っ!?」
赤髪の少女の言葉に、その場にいた少女たちが一斉に俺の胸元を覗き込む。
そして、同時に息をのんだ。
「……そいつが、今回の原因や」
緑髪の少女がそう言ったことで、空気が一気に重たくなってしまった。
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