その日の世界は、凍えるように凍てついていた。
「ぅ……ぐぉうっ、……し、死ぬっ」
目が覚めた瞬間、毛布にくるまってしまった。
昨日、寝る前にジネットが「念のために」と出してくれた毛布だ。
あってよかった。
今日という日を境に布団の中に住民票を移してしまおうかなどと考えていると、小さくドアがノックされ、遠慮がちにドアがゆっくりと開いた。
「ヤーくん、起きていますか?」
声の主はカンパニュラだ。
布団にくるまっているため顔は確認できないが。
「ちゃんと起きているから寝かせておいてくれ」
「うふふ。そのようなことを言われた際は、部屋へ入って起こしてくるようにと、ジネット姉様から申し遣っております」
うぉおぅ、ジネット……鬼か。鬼なのか……
「失礼します」
静かに言って、カンパニュラが部屋に入ってくる。
心なしか、緊張している様子だ。
「婚約もしていない殿方の寝所に立ち入るというのは、やはり緊張しますね」
毛布から顔を出して表情を窺うが、特に緊張しているようには見えない。
ただ、若干いつもより声が上擦っているかな~くらいだ。
「まぁ、俺は保護者みたいなもんだから、そんな深く考えるな」
「わぁ。それは嬉しいことを聞きました。ヤーくんは私の保護者なのですね」
ふわっと、蕾が解けていくようにカンパニュラが纏っていた緊張感が霧散していく。
さすがに、カンパニュラに手を出そうなんて考えるほど、俺は末期じゃない。
無邪気に喜んでくれるカンパニュラを見ても、くすぐられるのは保護欲くらいなもんだ。
「では、これからはもっと頻繁に遊びに来ますね」
「なんなら、添い寝でもしてやろうか?」
「それは、あと四年ほど若ければ検討したところですが……残念です」
添い寝はお断りと。
「じゃあ、子守歌はどうだ?」
「ヤーくんが歌ってくださるのですか?」
「いや、カンパニュラが歌って、俺は寝る」
「生憎と、私はヤーくんを起こしに来たのですよ」
くぅ……
このしっかり者め。
自分の任務を確実に遂行するつもりのようだ。
ジネットよりも甘くないな、カンパニュラは。
「しょうがない。起きるか」
「はい。表で待っていますので、お召し替えが済んだら一緒に顔を洗いに行きましょうね」
「いや、廊下は寒いだろ。ここにいろ」
「ですが……」
「大丈夫大丈夫。見なきゃノーカンだ」
俺は平気だが、カンパニュラの方が大丈夫じゃないのだろう。
なので、一応背を向けさせて手早く着替えを済ませる。
部屋干し用のロープを張ってあるので、気持ち程度そこにタオルを掛けて、簡易的な更衣室を作った。
「ヤーくんは、お部屋まで変幻自在なのですね」
「俺自身は七変化なんかしてないだろう?」
「ヤーくんは、いろいろなお顔をお持ちですから」
え~っと、自覚があるのは、エロい顔と、めっちゃエロい顔と、控えめにエロい顔くらいかな。
あと四つ、どんなエロい顔を持っているのだろうか、俺は。
「マグダは?」
「ジネット姉様から、寄付が終わるまでの睡眠許可が出ております。マグダ姉様も睡眠を希望されました」
マグダだけ、物凄く甘やかされている。
贔屓だ。俺も寝ていたいってのに。
「リベカとソフィーは?」
「お二人は早起きが得意なようで、もう起きてらっしゃいますよ」
「テレサは?」
「とても可愛い寝顔を拝見させていただきました」
まだ寝ているらしい。
ジネットはマグダを、カンパニュラはテレサを甘やかしている。
誰か、俺のことも甘やかしてくれ。
「テレサのヤツ、起きた時に一人だと寂しがらないか?」
「はっ!? そうですね。では、ヤーくんの洗顔が済みましたら、私が起こしに行ってきます」
カンパニュラが起こしてやれば、テレサも寂しくはないだろう。
「私はそこまで思い至りませんでした。さすがヤーくんです」
その『さすが』はどういう意味だ?
頭が切れるとか、そういう意味か?
まさか、いい人だとか優しいなんて眠たいことは言うまいな?
「ふふっ。これが、皆様がおっしゃっている照れ隠しのお顔なんですね」
人の顔を見て笑い出すとか、一体どういう教育を受けているのやら。
親の顔が見たいぜ。
……いや、やっぱいいや。顔を見る度にトラブルが起こりそうだから。特に母親の方。
サクッと着替えて部屋を出る。
廊下、寒ぅ~っ!
「あれ? 今って豪雪期だっけ?」
「雪は降っていませんでしたよ」
雪が降っていなかったとしてもだ、この寒さは堪らんな……
どうした、精霊神? ついに今日が何日かすら分からなくなったか? 痴呆が始まったのか?
廊下を進み、中庭へ続く階段へ出ると――
「白っ!?」
世界が白かった。
雪ではない。霧だ。
目の前が見えないほどの濃霧ではないが、3メートル先は怪しい。
階段の上から厨房へのドア付近はもう見えない。
井戸がうっすらと見えるくらいだ。
「……ニワトリ、死んでないか?」
「ジネット姉様がフロアに入れていましたよ」
それ、豪雪期の時の対応じゃん。
もうほとんど豪雪期じゃん、今日。
「ヤーくん。この白いのはなんなのでしょう?」
「これは霧だな。気温が低いせいで、空気中の水蒸気が粒になって空気中を漂っている状態だ」
「水蒸気というのは、説明会の時、瓶の中を真っ白に染め上げたアレですね」
ま、あの時は気化しやすいエタノールだったけどな。
「寒くなると、空気は白くなるんですね」
「この白いのは、雲と同じ原理だぞ」
「そうなのですか?」
「あぁ。空の上は地上よりもずっと寒いんだ。だから、空で冷やされた水蒸気が粒となり、集まって雲になっているんだ」
「では、この白い霧を集めれば雲になるのですか?」
「集められればな」
人の手ではムリだろうが。
「ということは――」
何かを思いついたらしいカンパニュラは、口を大きく開いて胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
そして、口を閉じてもぐもぐと動かす。
「……えへへ。初めて雲を食べてしまいました」
「お、雲食べ屋さんデビューだな」
「はい。憧れの職業を体験できてしまいました」
カンパニュラの将来の夢。
それが体験できて、カンパニュラは嬉しそうだ。
「ただ、思っていたほど美味しくはないようです」
「まぁ、無味無臭だしな」
「ジネット姉様なら、美味しい雲を作れるでしょうか?」
「どうかな。美味しい湯気なら、毎日作ってるけどな」
ジネットの煮込む出汁からは、堪らない香りの湯気が立ち上っている。
あの湯気なら、丼飯三杯は余裕だ。
「また、母様にお話したい思い出が一つ増えました」
「そうか。じゃあ、部屋に戻って手紙でも書くといい。俺も部屋でもう一眠り――」
「さぁ、お顔を洗いに行きますよ、ヤーくん」
なんか、ちょっとだけジネット流のスパルタが伝染している気がする。
一階と二階でそこまで差があるはずはないのだが、地面に降りると物凄く寒い気がした。底冷えだ。冷気が足首付近に溜まって漂っている。
「なぁ、霧は水蒸気の集まりなんだから、もう顔を洗ったも同然なんじゃないか?」
「大丈夫ですよ。ジネット姉様がお湯を沸かしてくださっていますから、温かいお湯でお顔を洗えます」
「えらい! さすがジネットだ!」
というわけで、クッソ冷たい井戸を通り過ぎてさっさと厨房へ向かう。
あはぁ……一階はあったかい。
ストーブは出してないから、きっと七輪でも出してきたのだろう。
足早に廊下を進み、厨房へ突入する。
「おはようございます、ヤシロさん」
「ジネット、えらい!」
「へ? あの、わたしが何か?」
「ジネット姉様は、ヤーくんのことをよく理解されているということだと思います」
「そうなんですか? うふふ。では、ありがとうございます、ですね」
そして、熱湯を水で薄めてほどよい温度にした湯で顔を洗い。
赤々と燃える七輪の火に当たって暖を取った。
「まさか、こんなに寒くなるとはな」
「ここ最近、寒い日が続いていましたからね。でも、今日は特別です。この時期としては、例年では考えられない寒さですね」
「まるで豪雪期のようだとおっしゃってましたよ」
「そうですね。カンパニュラさん、よくヤシロさんをお布団から連れ出せましたね」
「ジネット姉様のアドバイスのおかげです」
うふふと笑い合うジネットとカンパニュラ。
なんだか、物凄く落ち着いた姉妹のようだ。
「むはぁー! びっちゃびちゃなのじゃー!」
「あぁっ! 水もしたたる可愛い妹っ! ……じゃなくて、リベカ、ちゃんと拭かないと風邪を引きますよ」
フロアから、騒がしい声が聞こえてくる。
……あっちは、まったく落ち着きがない姉妹だな。
「リベカさん、お泊まりが嬉しかったようですよ」
「そうか、最初で最後になるが、楽しんでもらえたようでよかった」
「うふふ。もう『またいつでもお越しください』と言ってしまいました」
なんて迂闊なことを!
ジネット。やっぱりお前には危機管理能力というものが欠如しているようだ。
「おぉ、我が騎士よ! 起きたのじゃ? すっごいのじゃ! 外が真っ白で、全力で走ると全身がびっちゃびちゃになるのじゃ!」
何がそんなに嬉しいのか、びちゃびちゃに濡れてリベカがはしゃいでいる。
「寒くないか?」
「死ぬほど寒いのじゃ!」
「なら、もうちょっと寒そうにしてろよ……」
なにそのバイタリティ?
死にそうなほど寒くても、全身びっちゃびちゃになるまで走り回る方が大事なの?
「朝食は温かいものにしましょうね」
「うむ! ジネットちゃんの料理は美味しいので、楽しみなのじゃ!」
いつからジネットちゃんになったんだ?
昨日か? 今朝か?
「ヤシロさんには、特別精の付くものをお出ししますね」
今日はウィシャートの館へ行く日だ。
精々ジネットの手料理で英気を養うさ。
窓辺に歩み寄り、少し窓を開けて外を見る。
窓の外を白く染める霧が、吉と出るか凶と出るか。
とりあえず、遠出したくなくなる天気ではあるよな。と、ため息を吐いたらこれでもかと白い息が出た。
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