森の中は、むせかえるような獣の香りに包まれていた。
「かなり近いね……油断するんじゃないよ、あんたたち」
メドラ・ロッセルも、声を潜めるというスキルは持っているようだ。
「いいかい。スワームってのは、言ってみりゃ『蚊柱』みたいなもんさ。中心にいるメスを倒しちまえば自然と群れは霧散する。狙うはメスだよ」
とはいえ、そのメスを守るように手強い魔獣が周辺を守っているのだ。接近すら容易ではない。
もうすでに十数回の戦闘を繰り返している。マグダも、二度『赤いモヤモヤしたなんか光るヤツ』を使用している。お弁当も、残りあと一つ……
「オイ、いたぞ……!」
斥候が声を潜めて報告に戻ってくる。
「いた」というのは魔獣のことではなく、スワーム中央に君臨しているメスのことだ。
場の空気が張り詰める。
誰もが息を殺し、森の木陰に身を隠す。
そっと窺うと、森の奥に二十体近い魔獣が群れをなしていた。
その中央にひと際体の大きな魔獣が一体。アレがこのスワームの中心。メスだ。
メスは黒々とした甲殻に包まれたアリとカニを足したような魔獣で、体高が2メートルくらいある。横幅は3メートルに及ぶだろうか……大きくて、硬そうだ。
あんな魔獣は見たことがない。
「厄介だね……」
「……知っている魔獣?」
「あぁ。デカく、硬くて、そして速い」
メドラ・ロッセルが口の端を歪ませる。そんなに手強い相手なのか……
「あいつは『アリカニ』って魔獣さ」
「……まんまっ?」
あまりにもそのまんま過ぎる名前にドン引きだ。
ひねりという概念はないものか。
「やべぇ……ペルーダがいやがる……」
ウッセ・ダマレが青い顔をして言う。
ペルーダは蛇のような顔と尾を持つ四足の魔獣で、猛毒を持っている。
相対する時は、狩猟ギルド四十二区支部の中でも腕利きの狩人が四人掛かりで狩る必要がある危険度の高い魔獣だ。
そんなペルーダが二体もいる。
「ペルーダは私たちが引き受けましょう」
やたらと声の高いピラニア顔の大男が名乗りを上げる。たしかピラニア人族のグスターブとかいう、凄腕の狩人だ。
……しかし、相変わらず冗談みたいに高い声をしている。ふざけているのか。
「マフートもいるダな」
「ちぃ……厄介だゼ」
頭に二本の大きな角を生やしたスイギュウ人族のドリノ。そして、耳と鼻から下がホワイトタイガーのビャッコ人族のアルヴァロ。この二人も狩猟ギルドではよく知られた狩人だ。
どちらも特殊能力を持っているとか……
「グスターブとアルヴァロ。あんたらはペルーダ二体を抑えな」
「了解です、ママ」
「わかったゼ」
メドラ・ロッセルの指示はめちゃくちゃだ。
支部の腕利き四人でやっと仕留められるペルーダを、一人で狩れと指示を出しているのだ。
そして、グスターブとアルヴァロはそれをすんなりと了承している。
それが、出来るの?
「他の連中はドリノに従ってマフートと他の魔獣を頼むよ。アリカニはアタシが仕留める!」
「わかったダ」
ドリノ率いる本部の狩人が他の魔獣を仕留めるらしい。まぁ、それはいいとして……あの大きなアリカニを一人で仕留めると豪語するメドラ・ロッセルには驚きだ。
しかし、不思議と「メドラ・ロッセルならやってくれる」と思ってしまう。
「ウッセと支部の連中はアタシらの援護だ。ここまでで消耗してるだろうから、無茶はしなくていいが、いざという時は死に物狂いで援護しな」
「お、おぅ! 気合い入れていけよ、テメェら!」
「「「へいっ!」」」
ここまでの道のりは、ほとんどの魔獣を支部の狩人が仕留めてきていた。
スワームの中心には強力な魔獣がいると踏んで、本部の面々は力を温存していたのだが……見事に読みが当たっている。メドラ・ロッセル、さすがだ。
「それじゃ、行くよ!」
「「「「「へいっ!」」」」」
メドラ・ロッセルの合図で、狩猟ギルドの狩人たちが一斉に駆け出す。
魔獣がこちらに気付き、一斉に警戒音を発する。
威嚇に警戒音。激しい耳鳴りに襲われながらも、決してまぶたは閉じない。
魔獣の狩りは、一瞬の油断が死を招く。
獲物を仕留めるまで瞬きは出来ない。
「野郎ども、出るぞ!」
ウッセ・ダマレが怒号を飛ばす。
突撃した本部の狩人たちの頭上に、クモのような魔獣が無数降りかかっていた。
ヤツらは木の上に潜んでいたらしい。
本部の狩人を地上の狩りに専念させるために、マグダたち支部の狩人は頭上の魔獣を撃つ。
ウッセ・ダマレもなかなかいい判断をする。よく見ていた。おかげで援護が間に合いそうだ。
ふむ……呼び捨てくらいは許可してもいい気がしてきた。
と、その時……
――ゾクリ。
一瞬、空気が変わった気がした。
クモの魔獣は、数が多いだけで一体一体は大したことがない。
ペルーダもグスターブとアルヴァロによって完全に制圧されている。
最も脅威となるであろうアリカニも、人類の最終兵器メドラ・ロッセルが抑え込んでいる。
他の魔獣も同様だ……では、今の寒気は……
「マグダ! ボーっとすんな! 魔獣はまだまだ……っ!?」
マグダに注意をしようとしたウッセ・ダマレの声が途切れる。
ウッセ・ダマレの目が大きく見開かれる。
その先に現れたのは……
「……ボナコンッ」
燃え盛る巨大な牛、ボナコンがこちらに向かって突進してくる。それは、マグダが知るボナコンより何倍も大きく、角も凶暴に伸び、尖っている。初めて見るような凶暴な姿のボナコンで、一瞬、足がすくんだ。
「ブモォォォォォォォオオオオッ!」
絶叫のような咆哮を上げ、ボナコンが突進してくる。……目標はマグダ……ではなく、メドラ・ロッセル。
このボナコンはアリカニを守ろうとしているようだ。
「……させないっ」
ほんの一瞬出遅れた。
やはり、一瞬の油断が命取りになる。
メドラ・ロッセルはアリカニを相手にしているため、背後から迫るボナコンには構っていられない。
マグダが止めなければ……!
ボナコンの眼前に体を滑り込ませる。
鋭い角に頬を切りつけられる。頬に赤い筋が走り、焼けるような熱さと共にじわりと血が滲む。けれど、これくらい、平気。
マグダが睨みつけると、ボナコンは一瞬怯んだ。それで、十分だった。
「……はぁぁ…………」
ボナコンが怯んだ隙に、マグダは『赤いモヤモヤしたなんか光るヤツ』を全身に纏う。
マサカリを下段に構え、一気に振り上げる。
「ブモォッ!?」
少し間抜けな断末魔を上げ、ボナコンが地面へと倒れる。
「上出来だ、虎っ娘!」
背後からメドラ・ロッセルの声が聞こえる。
マグダは、メドラとアリカニが戦う場所のすぐ手前まで迫っていた。
本当に間一髪だった。
「じゃあ、アタシも…………フンッ!」
――ゴッ!
重たい衝突音が森に響く。
拳で、硬いアリカニの腹を殴りつける。
「ハァァアアアッ!」
咆哮を上げ、乱打を打ち込む。
ズガガガガッ! スガガガガッ! と、鉄板に鉄杭を打ち込むような音が響き、徐々に……アリカニの外殻がひび割れ……壊れていく。
「とどめだよっ!」
大きく振りかぶった右の拳を、ひび割れ薄くなった外殻へと叩き込む。
「ピィギャァァァアアアアアアッ!?」
甲高い声を上げ、アリカニはその巨体を土へと埋もれさせた。
地面へと沈み、アリカニは動かなくなった。
「……本当に、一人で仕留めてしまった」
「なかなか大したもんだったよ、虎っ娘! あんた、もっと強くなれるな!」
これだけの力の差を見せつけておいて、よく言う。……もぐもぐ。
「って。よくこの中でのんきに弁当なんか広げられるね、ったく」
『赤いモヤモヤしたなんか光るヤツ』を使った反動で、飢餓感が半端ではない。
お弁当を食べて胃を落ち着かせないと。
お弁当を掻き込むマグダを、メドラ・ロッセルは温かい目で見つめていた。
…………そんな目で見てもあげない。
その意思表示として、メドラ・ロッセルに背中を向ける。
「別に取りゃしないよ、バカだねぇ。ゆっくりお食べ」
大きな手が頭にドンと置かれる。……頼もしい、大きな手。頼れる父親みたいだ。
それから数分後、メスのアリカニが狩られたことでスワームは統率を失い、烏合の衆へと化し……完全に鎮静化されていた。
魔獣のスワーム討伐、完了。
「んじゃ、帰るよ、あんたたち!」
「「「「へいっ! ママッ!」」」」
メドラ・ロッセルの号令でマグダたちは帰路へとつく。
なんとなく、流れでマグダはメドラ・ロッセルの隣にいた。メドラ・ロッセルがずっとマグダの頭を撫でているからだ。
「なんだか、撫でやすい頭だね」
「……国宝級と言われている」
「はっはっはっ! そりゃいいや! じゃあ、もうちょっと撫でさせてもらおうかね!」
豪快に笑い、メドラ・ロッセルはマグダの頭を撫でる。
ヤシロとは違う、荒々しい撫で方…………ただ、あまり不快ではない。
そして、門を通り、馬車に揺られ、マグダは陽だまり亭に帰ってきた。
「ダーリン! スワームを退治してきたよ!」
……メドラ・ロッセルと共に。
なんか、頭を撫でながらついてきた。……どうしようか、これ?
「ダーリン、見とくれよぉ! アタシ、怪我しちまったんだよぉ!」
指の先が少し切れて血が滲んでいた。
どうもアリカニの外殻を破壊した時に切ったらしいのだが……あの魔獣を素手で倒して、怪我がそれだけというのがすごい。というか、メドラ・ロッセルに怪我を負わせたアリカニが逆にすごい。
「舐めておくれよ~! 唾つけときゃ治るからさぁ!」
「薬があるんだから、薬をつけろ!」
「消毒だよぉ~!」
「消毒もあるから!」
「ダ~リ~ン!」
「わぁ、ちょっ、こら…………もごっ!?」
抵抗するヤシロを押し切り、切れた人差し指をヤシロの口へと突っ込むメドラ・ロッセル。
それと同時に顔を赤く染めるメドラ・ロッセルと、顔を真っ青に染めるヤシロ。
「あぁ…………温かい」
このままでは、ヤシロが明日の朝くらいに冷たくなっていそうな雰囲気だ。
注意を…………と、思ったのだが……
「……頭が、涼しい」
散々撫でられたせいか、頭がスースーしている。毛根が壊滅的なダメージを受けたというわけではない。
メドラ・ロッセルのあの大きな手がずっと撫でていたから……なんというか、……物足りない?
「……まぁ、今回だけは」
メドラ・ロッセルも頑張った。
それくらいのご褒美があってもしかるべき。
「あぁ……ドキドキし過ぎて死んじゃいそうだよ、アタシ……」
「いや、明らかに俺の方が死にそうだろ、この場面……」
可愛く身悶えるメドラ・ロッセル。
そんな彼女をヤシロは冷めた目で見つめている。
だが、なんだかんだ言いながら絶対的な拒絶はしない。
やはり、ヤシロは巨乳で押しの強い女に弱い…………本命は、メドラ・ロッセル?
探りを入れるために、ジッとヤシロの顔を観察する。
ジィ~~~~……
「じゃあ、アタシは帰るね! 一人になって指先をたっぷり堪能……もとい、本部で仕事があるからね!」
「恐ろしいこと言ってないで、さっさと帰れ! 仕事しろよ仕事! あと指はすぐ洗え! 洗えよ!」
メドラ・ロッセルを元気に見送り、ヤシロが戻ってくる。
「……ったく。ん?」
ジィ~……
「マグダも怪我したのか。ほっぺた、ちょっと切れてるな」
ジィ~……
「待ってろよ、すぐに薬を……」
ジィ~……
「……なんだよ、お前もかよ…………まぁ、今日は頑張ったみたいだからな……」
ジィ~っと、ヤシロを観察していると……
「ったく……特別だぞ?」
何を勘違いしたのか……
「……え、ヤシロ?」
「動くな」
ヤシロはマグダの前に膝をついて、マグダの顔にそっと手を添え、押さえる。
そして……
ペロッ。
……と、マグダのほっぺたを、舐めた。
「これでいいのか? さすがに俺も、マグダのおねだりはもう理解して…………ん? どした?」
「……ほ、ほっ」
ほっぺたに…………ち…………ちゅ…………ちゅ………………
「マグダ?」
「……もう寝る」
そんな言い訳をした瞬間、顔面が爆発した。
まさか……そんな勘違いをするとは、さすがに思わなかった。
メドラ・ロッセルが強要したことを、マグダも強要していると、そう勘違いしたのだろう。
うむうむ。理解できる流れではある。そういうふうに取れなくもない流れではあった。
けど…………ほっぺたにチューは、ちょっといきなり過ぎて…………無理。
「……あぁ、つかれたなー」
精一杯の演技をして、自室へと向かう。早く逃げ込みたい。……体が思うように動かない。まるで錆びついているように、ぎくしゃくとおかしな動き方をする。
……まったく、ヤシロは…………ここぞというところで天然を発揮する。
マグダが、そんなはしたないおねだりをするはずが…………もう、もう、もう……
ただ一言…………
「……ごちそうさまでした」
「マグダ!? おい、どうした、マグダ!?」
戸惑うヤシロを残し、マグダは自室へ戻る。
ベッドに潜り込み、布団を頭から被る。
不意打ちは、卑怯だと思うの…………思うのっ……
「…………むぁぁああっ!」
久々に悶えて、その日は終わった。
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