しばらく外の風に吹かれて、のぼせた脳みそを冷やしておいた。
中に入ればすべての時間が勝負時となる。
息づかい、目線、呼吸。そのすべてを意識してコントロールして、求める物を手に入れる。
そういう戦場なのだ、この扉の向こう――牢屋は。
「……よし。切り替え完了」
ジネットに会うと、詐欺師としてのスイッチが強制的にオフにされる時がある。どうにもやりにくい。あいつのお人好しオーラがそうさせるのだろうな。
肺の中の空気を入れ換え、脳細胞を一つ一つ叩き起こしていく。
懐に忍ばせた鍵の束を取り出す。
現在、エステラの権限によりこの地下牢を見張る看守はいなくなっている。
そのため、四つある扉はすべて頑丈に施錠されている。
牢屋から出るには、牢屋の鍵と、その四つの扉を破る必要があり、まぁ容易ではない。一応、重要な被疑者を投獄しておく牢屋だけあって堅牢な守りというわけだ。
だからこそ、看守を外して俺に任せてくれたわけだけども。
今回の作戦には、俺以外の人間すべてが邪魔になる。
ヤツが口を割るまで、俺以外の人間の出入りを禁じさせた。
けどまぁ、俺の見立てではそこまでの長期戦にはならないだろう。素直なヤツっぽいからな、あのサル女は。
鍵を開け、中に入って施錠する。
それを三度繰り返し、俺は地下へ続く階段を降りた。
その際に、これ見よがしな小言を吐いて。
「ったく……なんで俺がこんなこと…………いいように使いやがって」
足音荒く、ぶつくさと文句を垂れ流しながら、階段を降りきった先にある最後の扉を開ける。
「……んだよ。分かってるよ。……なんか言えよ。おい!」
などと言いながら、ドアに施錠する。
そして、舌打ち。
振り返ると、目の前に看守用の机が置かれている。
牢屋からは見えないがこちらからは牢屋が見張れる。そんな位置だ。
牢屋から出口が見えると、囚人は脱走欲をかき立てられるものだからな。いい位置取りだと思う。
机の上に鍵束を置き、上で渡されたサル女用の昼飯が載ったトレイを持って牢屋へ向かう。
牢屋の中のサル女は、相変わらず壁に背をつけて蹲っていた。
「おい、飯だってよ」
声をかけるが、サル女は反応を見せない。
しかし、俺の声は聞こえているはずだ。「飯『だってよ』」と。
「飯『だぞ』」よりも主体性がなく、やらされている感満載のこの言い回しは、さっきドアの前でやった小芝居と合わせて、いかにも俺が『誰かに見張り役を押しつけられている』と相手に思わせてくれる。
あとは、折に触れつたなさとやる気のなさをにおわせてやれば、サル女は必ず食いつく。
同じ穴の狢になら、話せることもあるからな。
「つか、コレどっから入れんだよ?」
牢屋には、食事のトレイを入れるための細長い扉が設けられているのだが、あえてそれに気付かない風を装おう。
「牢屋開けるしかないか……」
そんな言葉に、サル女が微かに反応を示す。
そりゃそうだ。
職務に意欲的でない無知で愚鈍な男が牢屋の鍵を開けるとなれば、脱獄のチャンスだ。
けど、怪我はしたくないのであらかじめ言っておく。
「念のために言っておくと、俺を殺しても意味ねぇぞ」
両手を開いて全身がよく見えるように立つ。
「扉の鍵、ここにはねぇから」
――あっちの机に置いてあるからな。なんてことを知らないサル女に、腰周りをぽんぽんと叩いてみせる。
手ぶらアピールだ。
ここでさっきの小芝居が生きてくる。
俺は無理やりここの見張りを押しつけられ、さらにあからさまにやる気のない俺がヘマをしてもいいように、鍵なんて大切な物は持たせてもらえていない。……という風に、サル女の脳内で勝手なストーリーが組み立てられる。
その証拠に、無反応を貫いていたサル女が小さく舌打ちを鳴らした。
興味を失ったのか、サル女は壁に背を預け、顔を背けた。
牢屋を開け、中に食事を入れる。
もう少し煽ってもいいんだが……ま、焦りは禁物だ。
早々に牢屋を閉める。
「よし、仕事終わり。飯食おっと」
誰に言うでもなく、一人ごちてその場に座る。
ジネット特製の弁当を広げて、普通に飯を食う。
「おぉ……ゴリだ」
ジネットが言っていた川魚の唐揚げが、まさかのゴリで素直に感激してしまった。
俺の好物なのだ、ゴリという小さな川魚は。デリアが持ってきてくれたのか。ありがたい。
そういえば、夜釣りの約束をしていたんだよな。いろいろ片付いたらお供しようじゃないか。
「美味い……めっちゃ美味い……っ!」
懐かしい味がして、いろんなことが思い起こされる。
……あ、ヤバい。泣きそうだ。
このゴリの唐揚げは親方の好物でもあったからな。……よく奪い合ったものだ。
「はぁ……帰りたい」
一瞬、素で陽だまり亭に帰りたいと思ってしまった。
なんとなく、きちんと「美味かったぞ」と伝えたくなった。
なんでだろうな……ゴリの唐揚げを食べたからか……もしくは、夜までは帰れないという制約があるからなのか。
いつでも帰れる状況よりも、何かしらの理由で帰れない状況の方が帰宅願望がより顕著に表れる。
うん。やっぱアレだな。
ジネットは俺の中の詐欺師要素を薄めるんだな。
「帰りたい」とか、本心で出ちまった。
ま、それもプラスに働くだろうけどな。
なにせ、今ここにいるのは俺とサル女だけで、その二人は今、同じ事を考えているのだから。
「帰りたい」――と。
そこからは一言も発さず、もくもくと弁当を平らげた。
美味かった。
こんなじめっとした場所でなければ、もっと美味かったかもしれない。そう思うとちょっと残念な気持ちになったが。
飯の後、俺は床に寝転がる。
ごつごつとした石が敷き詰められた床は冷たくて硬い。
こんなところじゃゆっくり眠ることも出来そうにない。
牢屋の中には、藁を敷き詰めた簡易ベッドと毛布があるようだが……熟睡は無理だろうな。
「なぁ、毛布貸してくんねぇか?」
数度寝返りを打った後、上半身を起こしてサル女に問いかける。
「冷たいんだよ、床。まだ寝ないだろ?」
投げかけるも、当然のように無視される。
しばらくじっと見つめた後、「……ったく」と、ため息混じりに漏らして、硬い床の上に寝転がる。
サル女に背を向けるようにして、俺は少し眠った。
今俺が行っているのは某大国が実際に行った、スパイの口を割らせるための心理戦――その改良版だ。
内容はとても単純なもので、頑なに口を閉ざした者のそばにいる。それだけだ。
捕らえられた者は警戒心をむき出しにして殻に閉じこもる。それを外側からこじ開けようと刺激すれば、その分だけ殻は厚く頑丈になってしまう。
警戒心にまみれた者への対処は、好きにさせてやる。それ以外にないのだ。拷問という手段を排除するのであれば。
これは、心を閉ざした子供のカウンセリングにも利用されることなのだが、無理に話しかけず、ただそばにいて、何もしない。そこに存在しているだけ。それでいて、危険が迫れば守るし、常に見守っている。その上で、必要以上の干渉をしない。
心を閉ざした者に相対する時は、自分を『味方』だと思わせる必要はない。ただ『敵ではない』と思わせる、それだけでいい。
舞台装置でも背景でもなんでもいい。『害を与えるものではない』と認識させることが出来れば、自ずと変化は現れる。
ホテルなど、初めて入った部屋の中では多少なりとも緊張するものだが、数時間もそこにいればいつの間にかリラックスしているものだ。
自分に危害を加える者がいない空間であると認識できれば、人は警戒心を解く。
警戒心が薄れれば、人はさらなる行動を起こす。
人とは、快適な住処を無意識に求めてしまう生き物だからな。
そして――
人は拠り所を求めずにはいられない生き物なのだ。
人見知りの子供ほど、打ち解けた後の別れをぐずるものだ。
最初の警戒心が高いほど、心を許した後の依存は大きくなる。
同じ空間にいれば、人は少なからず親近感を覚える。自身に危害を加えない者に対しては、特に。
その親近感が、「この人なら味方になってくれそうだ」という可愛らしいものか、「こいつなら仲間に引き込めそうだ」という策略めいたものかは別として。
「おい……おいって!」
どれくらい眠っていただろうか。
熟睡はしていないがある程度まどろんでいたから時間の感覚が分からない。
けれど、待ちに待ったその声に、俺の意識は一瞬で覚醒する。
ったく、遅ぇよ。
硬い床で寝たせいで体がバキバキになっちまったじゃねぇか。
「おい、起きろ……!」
食事として提供された硬いパンを投げつけ、小声で俺を呼ぶハスキーな声。
食い物を投げるな。あとでちゃんと食えよ。
気怠さを装って体を起こすと、牢屋の柵を握りしめてこちらを睨みつけているサル女が視界に入ってきた。
「アーシと、取り引きしないか?」
まんまと食いついた獲物を前に、俺は思わず漏れ出そうになる笑みを必死に噛み殺し……想像よりもずっと早い釣果に、心の中で拳を握りしめた。
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