「お、お待たせ、いたしました……コーヒーになります」
カートにカップを載せてネネがやって来る。
トレーシーの表情が一瞬強張るが、今回は怒声を飲み込んだようだ。
もしかしたら、「コーヒーに『なります』とはなんだ!?」って、店員の接客態度に厳しい系男子的な指摘をしようとしたのかもしれない。
怒声こそ飛ばなかったが、それでも、トレーシーの鋭い視線を感じているのだろう。ネネはガチガチに緊張しているようだ。
カチカチとカップとソーサーがぶつかる音を立てながら、コーヒーが俺たちの前へと配られる。もうちょい、落ち着け。
さて……と、配られたコーヒーに目をやる。
立ち上る香りはいいし、色もきれいだ。今回は期待できそうだな。
「さぁ、皆様。どうぞお召し上がりください」
『コーヒーは食後と相場が決まっている』と言った口で、俺たちに食前のコーヒーを勧めてくる。
どうにも、こいつの人格には不自然なまでの歪さを感じる。
エステラと目配せをして、同時にカップを取る。
どうせナタリアは俺たちが飲んだ後でないと手を付けないだろうから、俺とエステラが先にいただくことにする。
コーヒーを飲むようになったとはいえ、エステラはジネットのコーヒーしか知らない。
一人で先に飲ませて感想を求められでもしたら、言葉に窮する可能性がある。そのため、俺も同時に味を見ようというわけだ。
喫茶店での失敗があるから、今度は恐る恐る口を付ける。最悪、クソ不味くても吐き出したりしないように用心しなくては。
コーヒーを口に含むと、とても強い酸味を感じた。
隣でエステラの肩が跳ねる。……あぁ、そういえば、こいつは酸味の強いコーヒーは飲んだことなかったかもなぁ。
戸惑っているのが丸分かりな目で俺へ視線を寄越してくる。表情に出さないようにしているのだろうが、横目でチラチラこっち見てたら不審に思われるっつうの。
「癖は強いが、いい味だ。キレがあって印象深い味だな」
ジネットのコーヒーは、どちらかといえばコクが強くクセになるが、後味が爽やかなので食事を邪魔しないような味わいだ。
一方こちらは、コーヒーを楽しむためのコーヒーといった味わいで、インパクトが非常に強い。通が好みそうな味わいを持っている。
それ故に、コーヒー初心者のエステラには、ちょっと良さが分からないかもしれない。そう思って助け船を出してやったのだが……
「そ……そう、ですか…………お、お口に合いましたのであれば、こ、光栄……です」
トレーシーが妙におどおどしはじめた。
エステラに対する照れとは明らかに違う、恐怖に似た反応……なんというか、男が苦手なのかと思わせるような怯え方だ。まぁ、女領主ってことは箱入り娘だろうから、男慣れしていないのかもしれないけどな。
「確かに、今まで飲んでいたコーヒーとは全然違う味だね」
「本当ですかっ? ……よかったぁ」
エステラの言葉を、「他とは一味違って美味しい」という意味合いで解釈したのだろう、トレーシーの表情がぱぁっと晴れやかになる。
エステラの本意は、「これボクの知ってるコーヒーじゃない……飲みにくい」って感じなんだろうけどな。
にしても……
トレーシーという人物は表情がころころとよく変わる。変わり過ぎると言ってもいいくらいだ。
エステラに向けるとろけるような表情と、俺に向ける恐怖を滲ませた表情、そして、ネネに向ける必要以上の憤怒の表情と……その後に覗かせる悲痛な表情。
どうにも噛み合わない。
俺の中でトレーシーという人物がうまく組み上がらない。
「あの、申し訳ありません。一つよろしいでしょうか」
ナタリアが姿勢よく挙手をしている。といっても、小学生のように腕をぴーんと伸ばしているのではなく、顔付近にそっと添えるような小さな挙手だ。
控えめな挙手をしながらエステラへと視線を向けている。
コーヒーに口を付けたようで、カップの縁が少し湿っていた。
発言の許可をエステラに求めるのは、ナタリアの発言の責任がエステラに向かうからだ。
エステラがトレーシーへ視線を向けると、トレーシーがこくりと頷く。
こういう回りくどいやり方で発言の許しを得た後、ナタリアはネネへと顔を向ける。
「ミルクと、可能であればお砂糖をいただけますか?」
「ミルクと、砂糖……ですか?」
「はい。四十二区では、コーヒーにミルクとお砂糖を入れていただいているのです。ですので、可能であればこちらでもそのようにさせていただきたいのですが、よろしいですか?」
あぁ、そうか。と、俺は今さら思い至る。
ナタリアはともかく、苦いのが苦手なエステラはいつもミルクをたっぷり入れてコーヒーを飲んでいるのだ。
俺はいつもブラックで飲んでいるから気にもしなかった。
エステラが恥をかかないよう、自分が欲しているという体で、エステラのためにミルクと砂糖を要求したのか。気遣いがこまやかだな、給仕長。
「四十二区では、コーヒーにミルクとお砂糖を入れるのですか?」
「え……」
ナタリアの言葉を聞いて、トレーシーがエステラに尋ねる。
ここら辺がややこしいのだが、貴族の中には他所の給仕とは口を利かないという者も少なくないそうだ。あくまで、自分と話す権利があるのは対等な地位にいる者だけだと。
トレーシーもそうなのかもしれない。
で、質問を向けられたエステラはというと……
「え、えぇ、まぁ。コーヒー本来の味わいを堪能するためには、ブラックが最適なのかもしれませんが、その…………そ、そう! 子供! 大人から子供まで、幅広い人たちにコーヒーの美味しさを楽しんでもらおうと、そのようにしたんです!」
「それは素晴らしい発想ですわ、エステラ様っ」
「コーヒー苦いから飲めな~い」という本音をうまく隠して、うまいこと取り繕っていた。
外交上手というか、口八丁というか……きっと今ごろ、心臓が悲鳴を上げているんだろうな。聞こえてきそうだよ、外壁が薄いから。
「ネネ。すぐにミルクとお砂糖を用意なさい。私も飲んでみたくなりました」
「は、はい……ですが、砂糖は、その……とても高価ですので、我が館にもあまり在庫が……」
「ネネッ!」
「は、はいっ!」
そうして、また、トレーシーの表情が変わる。
この豹変ぶりが『癇癪姫』などという呼び名を生み出したのだろう。
「お客様をもてなすのに、出資を渋るとは何事だっ!? 貴様は私に恥をかかせる気か!?」
「も、申し訳……」
「もう聞き飽きたわ、そのセリフは! 直ちに厨房へ行きミルクとお砂糖を持ってまいるのだ!」
「で、ですが、現在ランチの準備中ですので、砂糖を持ち出すのは……」
「足りぬのならば買ってまいれっ! お客様をお待たせするな! 走れ、ネネッ!」
「は、はい! 直ちに買ってまいりますっ!」
半泣きで頭を下げ、ネネが部屋を飛び出していく。
本当に買いに行くつもりらしい。
四十二区付近で出回っている砂糖は、一部貴族から『貧民砂糖』などと呼ばれている。なのでおそらく、今ネネが買いに行ったのはいわゆる『貴族砂糖』の方なのだろう。かなり高価で希少らしいが……果たして、手に入るのかな。
「………………っはぁ」
ドアが閉まり、足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなると、トレーシが苦しそうにため息を漏らした。
まるで、空気にトゲが付いていて、喉を引っかきながら吐き出されたかのような、苦しそうなため息だった。
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