さて、ジネットの包丁のたとえは、悪徳宗教にてよく使われる。
微かな違和感を与え続け、疑心暗鬼に追い込んで平常心を奪い去るのだ。
「それを複数でやられると、人は立ち直れないくらいに自己を崩壊させる」
正常な判断が出来なくなってしまうのだ。
とある会社で恐れられていたパワハラ上司が、結託した部下たちによって退職に追い込まれたという事例もある。
部下たちがやったことはとても単純で簡単。
毎朝、上司の椅子の高さを微妙に変える。それだけだ。
あとは知らぬ存ぜぬ目も合わせぬ口も利かぬを徹底する。
椅子の高さが変わるってのは、体に馴染んでいる物ほど酷い違和感を与えてくる。非常に気持ちが悪いのだ。
それが毎日続けば、やられた方はたまったもんじゃない。
犯人を捜そうとするが、部下たちは結託して互いが互いのアリバイ工作に加担する。
何をしても、どう足掻いても証拠を掴めない上司はやがて、「俺がおかしいのか?」と自分を疑うようになり、通院し、精神を病み、やがて会社を去った。
「かくして、みんなに嫌われていた鬼のような上司はいなくなったのでした。めでたしめでたし」
「めでたい……のかい、その話は?」
「立ち位置によるだろうが……まぁ、手段としてはえげつない部類に入るだろうな」
相手を追い出すだけでなく、再起不能にする手法だ。
おいそれと称賛は出来ない。
「で、ウーマロたちがやられたのが、その複数でのガスライティングだ」
「で、でもッスね、ヤシロさん。ノートン工務店が裏工作をした証拠は何も……」
「出てこなくて当然だ」
「当然……ッスか?」
証拠が出ないのは、そいつらが何も裏工作をしていないからだ。
裏工作をしてない連中を調べたところで、裏工作の証拠が出ないのは当然だ。
「またたとえ話で悪いが、ジネットがカンタルチカを潰そうと画策したとする」
「あり得ないね」
エステラがすぐさま否定の言葉を述べる。
「あぁ、あり得ない話だから真に受けずに聞いてくれ。カンタルチカを潰そうと画策したジネットは、カンタルチカの悪評を吹聴して回る。『あそこは美味しくない』『店員の態度が悪い』『衛生管理も杜撰だ』と。そうしたら、パウラは噂の出所を追求するため行動を起こす。まず目を付けられるのは競合他社の陽だまり亭だ」
そして、パウラが調査をすれば、ジネットがあらぬ噂を流していたことはすぐに突き止められるだろう。
「そうして、ジネットの悪事は白日の下にさらされ、カンタルチカに平和が戻ったのでした」
「やはり、他人を陥れるような行いには罰が下りますね。そうあるべきだと思います。陽だまり亭は、誰かの足を引っ張るのではなく、わたしたちらしく努力をしてお客さんに満足いただけるお店にしていきたいと思います」
悪が滅びたことを純粋に喜ぶジネット。
自分の名が使われたといえど、正しくない行動は罰せられるべきだという意見になるらしい。
俺なら、ちょっとムキになって擁護しちゃうかもしれんが……まぁ、それは今はどうでもいい。
「だが、もし黒幕がジネットではなく、陽だまり亭が大好きなエステラだったらどうだ?」
ジネットには何の相談もなく、自分の好きな陽だまり亭のライバルを潰そうと独自で行動を起こしていたとしたら。
「パウラが陽だまり亭を調査しても、裏工作の証拠なんか出てくるわけがない。ジネットは裏工作なんかしていないし、エステラに裏工作を依頼してもいない。エステラの行動に関して、ジネットはまったくの無関係だからだ」
「……つまり、ノートン工務店の事例は、そういう理由だったってわけッスか?」
ウーマロが眉間に深いしわを刻む。
まぁそういうことだ。
「トルベック工務店に攻撃を仕掛けてきたのは第三者だ。故に、証拠は残っていない」
さらに言うなら、その黒幕たる第三者の目的は『ノートン工務店をトップに押し上げること』ではなく『トルベック工務店を引きずり下ろすこと』だ。
これが、『ノートン工務店をトップに』という理由なら証拠は残りやすいのだ。
前年と比べると明らかに不自然な上昇率を叩き出していたり、グラフにしてみると異常な変動をしていたり。
だが、今回のようなトルベック工務店への妨害工作なら証拠は残りにくい。
人の目に付くのは、『誰かが利益を得たこと』と、『自身の損害』ばかりなのだ。
だからウーマロの目には、『トルベック工務店が損害を被った』という事実と、相対的に『ノートン工務店が利益を上げた』という事実のみが目に付いた。
それが目に付いてしまったせいで、『直接的な利益を得ていない黒幕たる第三者』に気が付けなかった。
「でも、本当にそんな第三者がいるのかい? 自分に利益がないのに、ただトルベック工務店を邪魔したいという理由で、そんなに大掛かりなことを仕出かすような人物がさ」
「いる。その根拠もいくつかある」
まず、ウーマロたちがノートン工務店へ接触した直後からノートン工務店の売り上げが落ちたこと。
これは、黒幕たる第三者が少々やり過ぎちまったことを自覚し、自重した結果だ。
ウーマロたちの調査が悪評となり依頼が減ったのではないという証拠に、ノートン工務店以外の工務店が同じような受注の仕方をしている。
急に受注を増やしたノートン工務店とまったく同じ現象が、ノートン工務店に疑いの目が向いた瞬間にノートン工務店以外の工務店で起こり始めるなんてあり得ない。それも、一社ではなく二社、三社同時にだ。
本来トルベック工務店に依頼するはずだった仕事が、なぜか急に他の工務店へ依頼された。そんな偶然が同時多発的に何度も続くか?
これは、同じ人間が『別のヤツを利用して』同じ手口を繰り返している証拠だ。
音楽や芸術関連ではたまに起こることだ。
もっとも目障りな者を潰すために、取るに足らない『別のヤツ』を持ち上げて目障りな者を埋もれさせる。
注目される機会を奪い、『凡庸』というイメージを植えつける。
あとは、旬が過ぎるのを待てば勝手に消えていってくれる。
その後、持ち上げた取るに足らない『別のヤツ』は、放置すればいい。取るに足らないヤツは、取るに足らない結果しか残せずいなくなる。
自分の手駒を悪評にさらさずにライバルを潰す戦法は、どんなジャンルであれ行われている。
「それから、トルベック工務店の悪評の広がる速度が速過ぎることも根拠の一つだ」
連中は手ぐすねを引いて待っていたのだ。トルベック工務店が我慢の限界を迎えるのを。
トルベック工務店とノートン工務店が衝突したのは、ウーマロの話から区民運動会の後だと分かる。
ハロウィンか、遅くともミスコンの頃だろう。
で、統括裁判所に訴えられたのが猛暑期の最終日。
そこでウーマロは示談を選択した。
言うなれば、ここで初めてトルベック工務店は正式に自分たちの非を認めたのだ。
噂が爆発的に広がるなら、これ以降でなければおかしい。
以前よりトルベック工務店を快く思っていない連中がいたのだとすれば、ノートン工務店の拠点を家探しして何も見つけられなかった時点で悪評を立て始めるかもしれない。
だが遠い区の、直接的な関わりの薄い連中が一方の言い分を鵜呑みにして悪評の流布に加担するとは考えにくい。
もし、間違った方に肩入れしてしまえば、真実が明るみになった時に手痛いしっぺ返しを食らうことになる。
少なからず、そんな連中は今後拡大していくであろう下水関連には携わらせない。信用が置けないからな。
これから、中央区へ向かって広がるであろう一大事業から爪弾きにされるリスクを背負ってまで、自分たちと関係の薄い工務店の悪口を『進んで流布する』ことはしないだろう。
せいぜい聞き流すか、腹の底に秘めておくに留めるはずだ。
まして、時期は豪雪期だぞ?
わざわざ外に出て足の引っ張り合いの先鋒を担いたがるヤツはいないだろう。
「にもかかわらず、豪雪期が明けてすぐルシアが俺に情報を寄越してきた。三十五区の大工たちが『トルベック工務店と組んで大丈夫なのか』と不安がっている、とな」
どこのどいつが三十五区までその情報を持っていったんだよ。
腰まで埋まる積雪の中。
「トルベック工務店はこんなイヤな連中なんだって~。サイテーだよね~。一緒に仕事するのやめた方がいいよ~」なんて。
「四十二区の港の建設に三十五区の大工を使うと言ったのはルシアだ。トルベック工務店との協力に難色を示すなんてのは、自区の領主の決定にケチをつけるようなものだろう」
そんな大それたことを、噂話程度の情報を根拠に行うか?
三十五区の大工は自分たちの不信感を領主にまで上げたんだぞ?
「連中が得た情報は、信頼に足る場所からもたらされたと考えるのが普通だ」
では、遠く離れた区の、特に接点もなかった大工の悪評なんてゴシップ臭い情報を無条件で信用できてしまう発信元とはどこか――
「それは、もう一つ別の者からもたらされた証言から容易に推測が出来る」
こうなることを予測してか、豪雪期だってのにわざわざ陽だまり亭まで出向いて情報をくれたのだ。マーゥルが。
「マーゥルの家の氷室の修繕をトルベック工務店に依頼したところ、組合からノートン工務店を勧められたんだそうだ」
「組合から……ッスか」
そう。
ほぼすべての区の土木ギルドが加盟している土木ギルド組合。
その中の、貴族に直接話を持ち掛けられるレベルの偉いさんがその話を流布しているのだ。
豪雪期の只中に、最も遠い三十五区にまで広がるような活発さでな。
「なんで、組合がオイラたちを……ちゃんと、会費も払ってるッスし、情報提供もかなりしてるッスのに」
「お前らに対して恨みがあるか、もしくは……うま味があるんじゃないか?」
恨みとうま味で、人は愚かな選択をしてしまいがちだ。
恨みによって常軌を逸した復讐に走るバカも、うま味に釣られて誰かの言いなりになるバカも数え切れないくらいに存在する。
「どこかのバカ貴族にでも、目を付けられるようなことをしたんじゃないのか?」
「貴族に目を……って、まさか?」
ウーマロの目が見開かれる。
こいつは最近、とある領主からの勧誘を蹴ったことがある。
その領主は、随分とねちっこい性格だとルシアやマーゥルが証言しているような腐れ野郎だ。
「……三十区の、領主様……ッスか?」
「さぁな。疑わしいだけで確証はない」
ここまで話したことはすべて状況証拠だ。
決定的な証拠がない。物証がない。証言者もいない。
法に則りゃ、確実に逃げ切られるだろうな。
「だが、確実なのは――組合の偉いさんか、その偉いさんを操れるもっと偉いさんが裏から手を回してトルベック工務店を潰そうとしている」
極めて怪しい人物がいるが、確証はないので言及は避けておく。
「以上のことから、俺が一つだけ断言できることは――」
まだなんにも解決しちゃいないが、これだけは言える。
「――トルベック工務店の技術と信用は、どこの工務店にも引けを取らない、負けるはずがない、圧勝だってことだ」
「…………」
ぽかんと口を開けて、ウーマロが俺を見ている。
大きく開かれた口にマシュマロをぎゅうぎゅうに詰め込めばきっと面白いのだろうが、今は口にマシュマロではなく、空っぽになっている頭にこんな言葉を叩き込むに留めておく。
「お前らは今まで通り、自分たちに誇りを持って仕事をしていればいい」
受注が減ろうが、依頼を掻っ攫われようが、それは狡賢いヤツが裏から手を回したせいだ。
トルベック工務店に問題があるわけじゃない。
なら、何も思い悩む必要はない。
そんなことを伝えると、ウーマロは顔をくしゃくしゃにして、全力で洟を啜った。
「はいッス! オイラたちは、明日からも全力で仕事に励むッス!」
ウーマロに元気が戻った。
きっと俺のおかげだ。そうに違いない。
ってわけで、今度は何を作ってもらおうかなぁ~……なんてな。
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