「あ、ここ……」
川を渡り、湿地帯の前まで来た時、俺の脳裏にふと過去の記憶が蘇る。
「ん? どうかしたのかい?」
「ん、あぁ、いや」
ここは以前、ジネットと二人で来たことがある場所だ。
俺が魔草に寄生され、記憶を失いかけていた時に。
「前に来たことがあってな」
湿地帯に落ちた俺が逃げるように駆け抜けたルートとは異なり、きちんと川を渡る橋がある道だ。
ここは、ジネットと訪れたあの時にしか来ていない。
「そういえば、ジネットちゃんが昔この辺りによく来ていたっけ」
エステラが昔を思い出したように呟く。
そうか、こいつも知っているのか。
「なんでも、ここから湿地帯を見つめると落ち着くんだそうだ」
「ボクも聞いたことがあるな。ここから自分の人生が始まった気がするとか……でも、たぶんだけど――」
そこまで言って、少しだけ声を落とすエステラ。
「――思い出していたんじゃないかな。ジネットちゃんがここに来ると、いつもお祖父さんが迎えに来ていたようだからね」
ここで待っていれば、祖父さんがひょっこりと迎えに来てくれるんじゃないか。
そんな気持ちになっていたのかもしれない。
そういえば、ケンカして家出した時も祖父さんが迎えに来てくれたんだっけ?
「最近、ジネットちゃんがここを訪れなくなったのは、迎えに来てくれる人が出来たからなのかもね」
「寂しがり屋だからなぁ、マグダとロレッタは。いっつもジネットに引っ付いてるよ。な、マグダ?」
「ふふ……まったく、君ってヤツは」
何か言いたげに俺の肩を叩くエステラ。
んだよ。
言いたいことがあるならな、……口には出さずに心にしまっておけ。聞きたくもない。
「はい、1タッチ追加です」
「何をメモしてるのさ、ナタリア!?」
「スコア表です」
「なんのスコアさ!?」
「エステラ様は、少し遠出すると途端にイチャイチャし始めますので」
「してないじゃないか!? いぃい今のだって、ただの制裁だよ、こんな風に!」
と、さっき叩いたところを強めに殴り直すエステラ。
……てめぇ。
「ん? なんなん、この『襟足くるくる』って?」
「エステラ様が自分を可愛く見せようとする時のクセです。最近、微妙に髪を伸ばし始めておられますので」
「ほほぅ。領主はんも、『オンナ』の部分を強調したいお年頃なんやねぇ」
「ちっ、違うよ!? たまたま、髪を整える時間が取れてないだけだから! 最近いろいろと忙しいし!」
と、なぜか俺を睨むエステラ。
……なんで俺だ。
「ほんで、この『乳首こねこね』ってのはなんなん?」
「エステラ様が自分を可愛く見せようとする時のクセです」
「したことないよ、そんなこと!?」
「エステラさん、あなた……」
「なんでそんな目でボクを見るのさ、イメルダ!? 今の一連全部見てたよね!? え、バカなのかい、君は!? いや、君も!」
あぁ、やっぱりナタリアとレジーナが揃うとカオスになるなぁ。
おまけに今回はイメルダまでいるし……
「しまった。ノーマを連れてくるべきだった」
「本当にね」
「ぁの、ね……ノーマさん、責任感強いから、きっと疲れちゃう……ょ?」
ナタリアとレジーナとイメルダの相手を押しつけたらノーマが倒れると、ミリィが心配している。
お前ら、ミリィにまで『そーゆー人枠』だと思われてるぞ。自重しろ。
「ぁのね、ぁのねっ」
姦しい連中を尻目に、ミリィがキラキラした目を俺に向けている。
何か話を聞いてほしいようだ。
だが、その前に。
「『尻目』って、よく考えたらエロくね?」
「くだらないこと言ってないで、ミリィの話を聞いてあげなよ」
「でもさ、『尻をガン見する』と書いて『尻目』って――」
「どうしたんだい、ミリィ。あ、こっちの変な男のことは無視していいからね」
「ぅ、ぅん……」
ミリィが気遣わしげな視線を俺に向ける。
エステラの失敬な物言いに対し「そんなことないよ! てんとうむしさんは変じゃないよ! むしろジェントルマンだよ!」とでも言いたいのだろう。きっとそうに違いない。うん、ミリィはいい子だ。見習え、エステラ。
「ぁのね、みりぃがね、初めてじねっとさんと出会ったのも、この場所なんだょ」
「へぇ、そうなんだ?」
「ぅん」
エステラの問いに、嬉しそうに頷くミリィ。
後に大の仲良しとなるジネットとの出会いを思い出し、楽しい気分になっているのだろう。
けど……ミリィもこの場所に来てたってことは……
やっぱ、両親が亡くなったことを引き摺っていたんだろうな。
どんな思いで湿地帯を見に来ていたんだろうか。
「大丈夫、だょ、てんとうむしさん」
少し見つめてしまっていたらしい。
ミリィが少し照れた様子で俺の服を摘まむ。
「確かにね、あの時、みりぃは寂しくて……ここに来たら、お父さんとお母さんが戻ってきてくれるんじゃないかなって、そんな思いだったの」
両親を奪った湿地帯。
だから、湿地帯に行けば両親を取り返せるかもしれない。
ミリィがそんな思考になるって、かなり追い詰められていた証拠なんじゃないだろうか。
ミリィは、よくも悪くも大人しい娘なのだ。
ミリィが物事に抗おうとする時、そこにはいつも強い意志とそうせざるを得ない状況が存在した。
かなり追い詰められてたんだな。
「お父さんとお母さんは……当然、ぃなかった、けど……でもね、じねっとさんがいたの」
孤独の中で寂しさに押しつぶされそうになっていた時、自分が目指した場所に少し年上の女の子がいた。
人見知りだったミリィがどうやってジネットと知り合い、仲良くなったのか疑問だったが、そんな出会いがあったのか。
「最初は、みりぃ、人見知りしちゃったんだけどね、じねっとさん、優しいから、みりぃに合わせて、ぉ話ししてくれて、ね。帰り道でね、『またね』って」
たった一言の、何気ない言葉。
でも、その一言がミリィに未来を見るきっかけを与えた。
『またね』は、未来への約束だ。
約束は、それを果たすという目標を生み出す。
目標があれば、人は今日を生きられる。
「ぃっぱい、ぉしゃべりしたの。ここで」
あぜ道の脇を見て、ミリィは微笑む。
ここに、幼い二人が座っておしゃべりをしている風景を想像してみる。
うん。普通に想像できるな。
「最初はね、何を話していいか分からなかったんだけど……」
くすくすと笑って、ミリィが口元を隠す。
何か楽しい思い出があるようだ。
「ヌメリ虫がね」
ヌメリ虫!?
俺が『ムカデレベルMAX』と呼んでいる、見た目が凶悪な虫だ。
「草むらから出てきたの」
「潰しますわね、ワタクシなら」
「ヌメリ虫は衣服にシミを付けるので、困った害虫ですね」
と、イメルダとナタリアが反応し、レジーナが共感するようにうんうんと頷く。
「キッチンはともかく、寝室に出られるとさすがに困るわなぁ」
「掃除なさいまし!?」
「ヌメリ虫はヌメリのある場所を好む虫ですが……寝室で何をヌメらせているんですか、レジーナさんは」
……残念だったな、レジーナ。
お前が二人に共感しても、二人はお前に共感できないそうだ。
つか、掃除しろ。
「……ネフェリーが言っていた。『レジーナの部屋は、酷い』と」
ネフェリー、レジーナの部屋見たことあるのか。
面倒見がいいネフェリーなら、レジーナの汚部屋を見たら率先して掃除とか手伝ってやりそうだよなぁ。
気を付けろ、ネフェリー。
依存されるぞ。
「ぅん。やっぱり、ちょっと気持ち悪いって、みんな思う、ょね?」
「レジーナか?」
「ち、ちち、違うょ!? ヌメリ虫」
あぁ、そっちか。
てっきり、ミリィが完全にレジーナに見切りを付けたのかと。
確かに、ヌメリ虫は見た目がグロいのであんまり好かれる虫ではないだろう。
眉を困ったように下げて、ミリィは「仕方ないんだけどね」と呟く。
ヌメリ虫が嫌われているのは変えようがない事実だ。
アレを重宝がるのは生花ギルドの連中くらいだろうし。
「でもね、じねっとさんはね、『大きいヌメリ虫さんですね』って」
まぁ、ジネットならな。
あいつは虫を怖がるどころか毛嫌いもしないし、なんなら若干可愛いと思っている節すらある。
「『きっと、この辺りにいいごはんが豊富なんでしょうね。もしかしたら、美味しいヌメリ虫さんの食堂があるのかもしれませんよ』って」
発想が陽だまり亭ナイズされてるな。
デカい虫を見て「いい食堂があるのかも」なんて発想はなかなか出てこない。
ジネットらしいエピソードだ。
「それで笑っちゃってね、……そしたら、ね」
じわぁ~っと、ミリィの頬に朱が広がっていく。
「『ミリィさんは笑顔がとっても可愛いですね』って、言ってくれて、ね……だからね、みりぃ、その日から、なるべく笑おうって、思ったの」
よほど嬉しかったのだろう。
そうか。ミリィの笑顔を取り戻したのはジネットだったのか。
「だから、みりぃもてんとうむしさんと一緒」
一緒?
なんの話だ?
「じねっとさんと出会えてよかったなぁ~って、思ってる、ょ」
……いや、俺そんなこと一言も言ってないんだけど?
まぁ、言ってないだけで思ってないわけではないんだけど……そんな無垢な瞳で一緒とか言わないでくれるか。なんか照れる。
「さ。さっさと湿地帯に入るか」
「あ、逃げたね」
「逃げましたね」
「逃げたなぁ」
「逃げましたわね」
「……逃げた」
背中に飛んでくる声をまるっと無視して、湿地帯へと踏み込んでいく。
やかましいやかましい。
湿地帯の中の空気はひんやりと冷たく、少し熱くなった頬に当たる風が妙に冷たく感じた。
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