陽だまり亭パーティーの後、ベルティーナを送っていった。
明るくなったとはいえ、夜道をか弱いシスター一人で歩かせるわけにはいかない。
「うふふ。ミリィさんがおっしゃっていましたよ。『てんとうむしさんは優しい』って」
「おしゃべりが好きだな、女子は」
以前ミリィを送っていった時の話だろう。
そんなことをわざわざベルティーナに言いに行かなくてもいいだろうに。
「おしゃべりとおめかしは、女性の嗜みなんですよ」
「つまみ食いは?」
「それは、家族の絆です」
「……怒られてるじゃん」
「それは、度が過ぎた時だけです」
度が過ぎないように注意しとけよ、常に。
「それじゃあ、嗜みついでに『送り狼』って言葉をミリィに教えておいてやってくれ」
どうにも、四十二区の女子連中は危機感というものが足りていない。
迂闊に家まで送らせるなと言いたい。
まぁ、ミリィが途中で「ここまでで大丈夫だょ」とか言っても、家まで送っていくけども。危ないし。「ヌメリ虫~」とか言いながら草むらに入っていきかねないし、ミリィなら。
「ふふ……」
何が可笑しいのか、口元を覆って笑い、ベルティーナは危機感を円盤投げのごとく遠くへと放り投げるような発言をした。
「ヤシロさんなら、安心ですね」
襲っちゃうぞ、このやろう。
隠れ巨乳を隠せなくしちゃうんだぞ。
がるるぅ。
「こりゃあ、一度手当たり次第にパイタッチして回らないといけないようだな。みんなのために! 危機感の足りないみんなのためにっ!」
「では、行脚の前に懺悔室へお越しくださいね。たっぷりお話を聞かせて差し上げますよ」
人助けだというのに。
油断しまくっている四十二区の女子たちを引き締めるために。
何かあってからでは遅いのだから!
「そういうお顔をされている時は、本当に安心します」
俺の横顔を見て、ベルティーナは静かに笑う。
こんなエロいことを考えている横顔を見て安心するとか、いよいよ四十二区の危機管理能力は消滅の危機だな。
……ま、見透かされてるんだろうけどな。
今日、俺がこうしてベルティーナを送っている意味なんかも、すっかりと。
「……聞かないのか?」
「はい。聞きません」
俺が、日中どこで何をしてきたのか。
俺の様子がおかしいと感じていたこいつらは、今日俺が何かをしてきたことを知っている。
でも、その内容を誰も聞いてこない。
それは信頼によるものなのか、はたまた、触らぬ神にというヤツなのか。
「ヤシロさんが話したくなった時には、いくらでも伺います。ですが、私から問い質すことはありません」
すっと背筋を伸ばして、立ち止まったベルティーナが俺を見る。
「それほどに、私はヤシロさんを信用していますから」
俺が悪事を行うはずがないって?
それは買いかぶりだぞ、ベルティーナ。
俺は今日、一人の人間をカエルに変えたのだ。
人権を強奪し、尊厳を踏みにじった。
俺は今日、人を殺したに等しいのだ。
それを誰かに責められたいというわけではない。
責められて、罪が軽くなった錯覚に溺れたいわけではない。
だが……
「なぁ」
隠し事をしているようなこの後ろめたさは、正直もう勘弁だ。
「誰かをカエルに変えることは、悪いことか?」
人一人の、人間としての価値を奪い去る行為。
人一人の人生をぶち壊す行為。
許されざる悪行。
そう思っていた。
だが――
「いいえ」
ベルティーナはきっぱりとそれを否定した。
「誰かが誰かをカエルへ変えるのは、そうするに至った理由があるはずです。それは、決して浮ついた軽いものではないでしょう? 双方に重大な決意と決心があって、そのような結末へ向かってしまう――その事実は悲しいことではありますが、それを『悪いこと』だと、私は思いません」
そうなるには、そうなるだけの理由があった。
だから、人をカエルに変えたって悪くはない。
……本当か?
そりゃ、それだけの理由があれば、やんごとない事情ってのがあれば加害者にだって同情の余地はあるかもしれない。
どうしようにもないほどの、切羽詰まった理由があるならば。
だが、それだけじゃないだろう?
俺や、取り立て屋のゴッフレードみたいな、取り立てて重要でもない理由で、――たとえばおのれの力を示すためだとか、相手を屈服させるためだとか、そういう利己的な思惑で人をカエルに変えちまうヤツだっている。
俺だってそうだ。
今日の俺は、ヘドロのような憎しみに駆られて……
「他人を陥れようとしてカエルに変えちまうヤツだっているだろう。それすら罪はないってのか?」
「ヤシロさん」
自分自身に向いた苛立ちが口調に出てしまっていた。
ベルティーナがなんでも受け止めてくれることをいいことに、拗ねたガキみたいに八つ当たりをしていた。
そんな俺を叱るでもなく、ベルティーナは優しい笑みを向けてくれる。
「それは、『誰かを陥れようとすること』が罪なのであって、『誰かをカエルにすること』が罪なのではありませんよ」
そう言われて、目から鱗が落ちたような気分になった。
裁かれるのは起こした行動ではなく、その行動を起こそうとする動機の方か。
確かに、ジネットを守るために誰かをカエルにするのと、金儲けのために誰かをカエルにするのでは、同じ行動でもその意味合いは大きく変わる。
……本当にそうか?
そんなもん、加害者側が自分の罪を軽くしたいがために労した詭弁なんじゃないのか。
「ヤシロさんは、たくさん悩みました。これからも、きっと悩むでしょう。ヤシロさんは優しい人ですから。……でも、その悩みの一つ一つがヤシロさんを成長させ、また誰かを救う優しさに変換され、そして世界へ還元されるのです」
シスターの声でそう言った後、母親のような温かい笑顔を浮かべる。
「それは、とても素敵なことでしょ?」
俺の悩みが『優しさ』とやらに変換されるのは、かなり長い時間がかかりそうだけどな。
ユーカリを無毒化して消化吸収するコアラよりも時間がかかりそうだ。
「それにヤシロさんは、ちゃんと救済の道を残したではありませんか」
「……エステラに何か聞いたのか?」
「いいえ」
まるで見てきたかのように断言するベルティーナには、少しの迷いも見えず、何かしらの情報を得ているとしか思えなかった。
だが、そうではないと首を振る。
「それくらい、ヤシロさんを見ていれば分かります」
数多くのガキどもを引き取り、時に厳しく、それ以外のほとんどの時間を甘やかして育ててきた『みんなのお母さん』が両腕を広げ、胸を張って言う。
「私は、ヤシロさんのことが大好きですからね」
様々な理由で、教会で暮らすことになったガキたち全員の心を救った聖母の微笑みがそこにあった。
固く心を閉ざしていたジネットも、この笑顔に心を解され、何度も救われたのだろう。
俺みたいな跳ねっ返りにも、その慈愛は平等に与えられるらしい。
「……まったく」
ジネットは確実に母親似だ。
「無防備にそんなことを言うなってのに。俺が勘違いして襲いかかっていったらどうするんだよ」
両腕を広げて、隠れ巨乳を無防備に晒して。
「いただきま~す」と俺が駆け出せば、ベルティーナの反応速度では守りきれないだろう。
「子供を信頼するのは、母の務めです」
「じゃあ、お言葉に甘えて。いただきま~す」
「子供の悪ふざけを律するのも、母の務めです、よ」
「イタタタタッ!?」
手の甲をぎゅっとつねられた。
見かけによらず力は強いんだよな、このシスター。
俺が何をしても包み込んでくれる。
俺が間違えば叱ってくれる。
そんな貴重な存在、そうそういないだろう。
自分の仕出かした悪事の告白は、女将さん相手でも躊躇っただろう。
けど、ベルティーナなら……
「今日、例の暴漢をカエルにしてやった」
「そうですか」
あっさりと。
小さな頷き一つで受け止めてくれる。
「どうでしたか?」
「最悪の気分だったよ」
「そうなのですね。私は経験がありませんので、経験談は新鮮です」
ベルティーナは誰かをカエルにしたことはないらしい。
まぁ、ないか。
「それで、その後はどうされたのですか?」
「人間に戻した」
「最初から、そのつもりでしたものね」
……知った風な口を。
「実験をしたかったんだ。本当にカエルになった人間は元に戻れるのか」
「そうですか。それは、貴重な経験でしたね」
「軽蔑しないのか?」
「それが、利己的で独善的な理由からなのでしたら。でも、そうではないような気がします」
「俺は――」
「正解はどうでもいいのです。私がそう思った。それが、私の中にある唯一の真実ですから」
俺は、随分と独善的な理由で実験に挑んだんだけどな。
「まぁ、誤算が一つあってな」
「誤算、ですか?」
「ムカつくバカヤロウをカエルにしてやったらさ……そのカエルが思いの外可愛い顔をしててな。目なんかくりっくりでさ。……まんまと毒気を抜かれちまったんだよ」
そうでなきゃ、あんな野郎どうなったって気にしなかったものを。
「うふふ……」
口元を隠し、ベルティーナが笑う。
笑い止んだと思ったら、俺の顔を見て再び笑い出す。
何度か持ち直しかけて、それでもやっぱり笑い出す。
……なんだよ。笑い過ぎだ。
「すみません……、でも、……うふふ、可笑しくて」
ひとしきり笑って、呼吸を整えた後で、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、ベルティーナがこんな昔話を教えてくれた。
「ジネットも昔、カエルを見て、今のヤシロさんと似たようなことを言っていたんですよ。『お目々が可愛いね』って」
「ジネットが?」
「はい。……ふふ。やはり、ひとつ屋根の下で暮らすと似てくるものなのでしょうか」
俺がジネット級のお人好しに?
冗談にしても笑えない。
ベルティーナが言うと、本当にそうなりそうで怖い。
なので、本当に冗談にしてやる。
両手を広げて自分の胸を鷲掴みにする。
「一番特徴的なところがまったく似てないから、それはないだろう」
「ふふ……、帰る前に懺悔室へ寄っていってくださいね」
明るく照らされた夜道を、笑うベルティーナと歩く。
それだけで、なんだか日常が戻ってきたような気がして、妙に落ち着いた。
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