「何度かね、ここを出ようかと試みたことがあるの……けど、ダメだったわ」
そうして、いつしかシラハは諦めてしまった……いや、妥協してしまったのだ。
逃げようと、抗おうと、そうする度に、周りからの干渉と拘束は厳重になるからな。
「三年頑張って……領主様にも相談したりもしたけれど……結局、私たちは離れ離れで暮らすことを選んだの」
「……力になれず、申し訳なかった」
「あら。あなたのお祖父さんの時代の話よ、ルシアちゃん」
「それでも…………私は……っ」
「やめてちょうだい」
眉根を寄せるルシアの髪を撫で、シラハは子に向けるような優しい笑みを浮かべる。
「あなたのおかげで、今でもあの人とお手紙のやり取りが出来ているんだもの。私は、それだけで幸せよ」
「文通を、されているんですか?」
微かに見えた希望。
それにジネットが反応を示した。
「えぇ。月に一度」
「そう……なんですか…………よかった」
本当に些細なことだが……シラハは心の底から幸せそうな顔をしている。
おそらくそれが、今のシラハの生きる力になっているのだろう。
抗い続けた三年間で互いに疲弊してしまった二人は、このままでは本当に引き離されてしまうと考え抵抗をやめることにしたのだそうだ。
離れて暮らし、領主経由で手紙のやり取りをする。
そうして、お互いが元気に生きている――そう思うことで心を慰め続けてきた。
「人間である私が下手に介入してしまえば、アゲハチョウ人族をはじめ、虫人族にあらぬ誤解を与えかねない。『領主はやはり人間を庇うのか』とな。双方の軋轢を、私は望まない……故に、今に至るまで決定打を打てずいるのだ」
己の力不足を嘆き、ルシアが深く頭を下げる。
「シラハ……申し訳ない。心の底から詫びさせてほしい」
「あらあら。やめてってば。いいのよ、もう。私は今でも十分幸せだわ」
「しかし、そなたたちの時間は……」
「時間はね、過ぎれば二度と戻らないものよ。後悔している間に過ぎてしまった時間もそう。なら、今を楽しく生きなきゃ、この先ずっと後悔を後悔し続けることになるわ。ね? さぁ、もう頭を上げて」
後悔をするために時間を浪費すれば、その浪費をいつかは後悔することになる。
どうしようにもないことはどうしようにもないと割り切って、今を楽しく生きるべき……か。
それは一見前向きな考えに見えて……その実、とても悲しい考え方だ。
「あの子たちもね、本当によくしてくれているのよ。みんな、私のことを思って、私のために、毎日毎日頑張ってくれているの。これで不満なんて言ったら、あの子たちを悪く言うのと同じだわ。私は、今の生活で幸せよ」
シラハの言葉に耳を貸さないアゲハチョウ人族たち。
だが、それはどこまでも純粋な善意から来るもので、シラハはそれを悪しざまに非難することは出来ないのだ。
度が過ぎるお節介。善意の押しつけ。
だが、それがすべて自分のためにと向けられたものなら……拒絶することは難しいだろう。
人間と亜種との確執。刷り込まれた感情。
そして、シラハが触角を失った時から始まった『シラハは人間に傷付けられた』という噂話。
それらが合わさって『ほら見ろ、やっぱり人間は酷いんだ』という風潮が出来上がってしまったのだ。
ニッカやカールみたいな若い連中は、それを疑うことすらないのだろう。
ある種の諦めか……シラハも、もう今さらそれをどうこう言うつもりはないらしい。
「けれど、……そうね。もし、生まれ変わることがあるのなら……その時は、一緒になれれば、嬉しいわねぇ」
「……ぐすっ」
ミリィが鼻を鳴らす。
慌てた様子でジネットがミリィの背中を撫で落ち着かせる。
結ばれない二人……
仕方のないこと…………
……だが。
「おい、ババア」
俺は、この三流悲劇を悲劇のままにしておくわけにはいかねぇんだ。
「なに勝手に諦めてくれてんだよ?」
テメェが怪我をしたせいで、ウェンディの両親は意固地なまでに人間を疑い、ウェンディの結婚に猛反対してんだぞ。
「散々手を尽くして、もう為す術なしだみたいな顔しやがってよ……」
この結婚が、どれだけの利益を生み出すか知ってんのか?
定着すれば、想像をはるかに超える莫大な利益を生むんだぞ?
「歳さえ食ってりゃ見識が広がると思ったら大間違いだぞ」
このまま、波風立てずに、誰も傷付けずに、平穏無事に過ごせたらいいだなんて、そんな生温い考えを持っているんなら残念だったな。気の毒だが、お前はもうすでに巻き込まれちまったんだよ。俺の、儲け話にな。
「シラハ。お前は今の生活で十分幸せだと言ったな? ……そいつは本心か?」
確かに、今のお前は優しい仲間に囲まれて、誰からも気遣われて、手紙だけとはいえ最愛の者の安否も確認できる。
そこそこ幸せな生活を送っているのだろう。
だがな。
そこそこで満足してんじゃねぇよ。
「世間にはな、まだまだお前の知らないものがたくさんあるんだぞ。そいつを見たいと思わねぇのか? 本当に最高の景色がそこにあるのに、それを知らないまま、与えられただけの安易な幸せで満足して目を逸らして……お前はそれでいいのか?」
「ヤシロ……」
黙っていろ、エステラ。
視線を向けることで、俺はエステラの言葉を封殺する。
礼も無礼もねぇんだよ。そういうことじゃないんだ。
長い時間、いろんなヤツに担ぎ上げられ続けちまったこいつを引き摺り下ろすにゃ、これくらいでなきゃダメなんだよ。
「お前には協力してもらうぞ。気の毒だが拒否権はない」
俺は立ち上がり、シラハの目の前まで歩み寄る。
俺を見上げてくる瞳は、すっかり枯れた風を装いながらも、驚きと期待を潜ませていた。
その細い目でしっかり見ておきやがれ。
これが、お前の枯れきったしわしわの心を引っ掻き回す男の顔だ。
だいたいな。
これから結婚して幸せになろうってヤツに、辛気臭い話聞かせてんじゃねぇよ。結婚に対して不安を抱いちまったらどうするんだよ。
あまつさえ、それが原因でウェンディが結婚式をやめたいなんて言い出したら、俺はテメェに損害賠償を請求するぞ。
なぁ、シラハよ。お前も本当は気が付いてるんだろ?
波風を立てず、誰も傷付かないことを優先させている。そんな顔してよ……何よりテメェがずっと傷付き続けてんじゃねぇかよ。
ウェンディはな、セロンといる時は本当に幸せそうな顔をするんだ。
お前だって、きっとそうなんだろ?
「賭けをしようぜ、シラハ」
「……賭け?」
「あぁ、そうだ」
「あんまり難しいのはイヤよ?」
「なぁに、簡単なことだ」
人生の酸いも甘いも噛み分けた、そんな顔をしているお前に分からせてやるよ。
お前は、まだまだ無知だってな。
「お前はいろんな美味いものを食ってきたよな?」
「そうねぇ。みんながたくさん持ってきてくれるからねぇ。この辺りで手に入るものは、だいたい食べたかしらねぇ」
「『この辺りで手に入るものはだいたい』……か」
それが、無知だっつうの。
「なら、俺がこれから、この辺りで取れる、お前らがよく知った物ですげぇ美味い物を作ってやる。おそらく、お前の口にしたこともないような物をな」
「あらあら。そんなもの、あるのかしら?」
「もしあったら……俺に協力しろ。ニッカや仲間が何を言ったとしても、全面的にだ」
「うふふ……面白い子ねぇ。あなた、お名前は?」
「ヤシロだ」
「うんうん。ヤシロちゃんね。いいわ。その賭け、乗ってあげる」
よし。
なら、さっさとこの賭けに勝っちまおう。
「ジネット。それからミリィ」
「は、はい」
「ぇ…………くすん…………なに?」
いまだ赤い目をしているミリィと、それを慰めているジネット。
この二人にも、笑顔を取り戻してやんなきゃな。
「手伝ってくれ。この婆さんを、心から笑顔にするための作戦をな」
柄ではないのだが……ウィンクなんかを飛ばしてみたところ、効果は覿面だったようだ。
ジネットとミリィは一瞬言葉を失い、顔を見合わせた後、揃って弾けるような笑みを浮かべた。
「はいっ!」
「ぅん!」
俺は二人に指示を出し、ちょっとしたおつかいを頼んだ。
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