朝、目が覚めたら酷い筋肉痛で、ベッドから起き上がれなかった。
厨房からいい匂いが漂ってきていて、「あいつ、もう働いてんのか」なんて、感心八割呆れ二割な気持ちで呟いた。
ジネットが働いている以上、いつまでも寝ているわけにはいかない。
這うようにして部屋を出て、気力だけで廊下を進み、下り階段を目の前にうんざりした気分になった時、ジネットの部屋のドアが開いた。
「お、おはよう、ございます……」
いつもより髪がもはっとしたジネットが、死にそうな顔で部屋から這い出してきた。
「か、体中が痛くて……立っているのがやっとという状況で……いたたた」
どうやら、筋肉痛で身支度すらまともに出来なかったらしい。
分かる。分かるぞ。
玉入れなんて、そうそう張り切ってやるもんじゃないよな。腕がぱんぱんで上がりゃしねぇ。もしかしたら台風の目のせいか? いや、騎馬戦かもしれん。
たぶんだが、今俺の肩には六人くらい子泣き爺が乗っているに違いない。それくらいに重い。
「髪、なんとかならないか? すげぇもはもはだぞ」
無防備で、見ている分には微笑ましいのだが、それで人前に出るのはマズいだろう。飲食店の経営者として、店員として。やっぱ清潔感というか、きちっとしていないとな。だらしない印象は店にとってマイナスだ。
「あの……頑張ってみたんですが、いつものように腕が動かなくて……」
ぷるぷる震える腕を懸命に持ち上げようとしているらしいが、目の高さより上に上がってこない。アレが限界のようだ。
「……あとでやってやるよ」
「本当ですか!?」
急に大きな声を出したかと思えば、軋むはずの体で素早く口元を押さえる。
思わず喜びが零れてしまった出所を塞ぐかのように。
髪を梳かしてもらうという、ともすれば子供っぽいことで喜んでしまった自分を恥ずかしく思っている様子でジネットが視線をわざとらしく逸らす。
誤魔化したいけれど誤魔化しきれていない空気を察したのか、ジネットは照れ笑いを浮かべながら言い訳めいた言葉を口にする。
「実は、あの……マグダさんがたまに髪を梳かしてもらっているのを見て、……いいなぁ、って……思っていまして」
ジネットは普段からきちっとしているから、俺が髪を梳かしてやる必要などなく、必要もないのに女子の髪の毛を弄るようなチャラい趣味など俺は持ち合わせておらず、結果として俺はジネットの髪を梳かしたことなどなかった。
いや、乱れ毛を直してやったりはあったかもしれんが、きちんとしたブラッシングとなると記憶にはない。
そんな喜ばれるようなことでもないと思うんだが……
「じゃあ、ブラシがあれば持ってきてくれ。マグダと同じヤツでよければ、それでもいいけど」
マグダはしょっちゅう寝ぼけた状態でフロアに出てくるから、マグダ用のブラシが厨房の棚にしまってあるのだ。開店前にブラッシングをするために。
「えっと、あの、持ってきます! あ、でもマグダさんと同じのが嫌というわけではなくて……」
「分かってるから、早く持ってこい」
「はい!」
嬉しそうに自室へと戻るジネット。
ブラシを共有するってのは意外と気を遣うものだ。出来れば避ける方が望ましい。ブラッシングで頭皮が傷付くこともあるし、感染症の恐れも、まぁ滅多にないことだがあり得ないとは言い切れない。
何より、髪が絡みついてしまえば取るのは容易ではなく、他人のブラシを使うというのは非常に気を遣う。
ヘアブラシは可能な限り自分専用にしておいた方がいいだろう。
で、そんなジネットのヘアブラシ事情なんだが。
「あっ、髪の毛が!?」なんて声が扉の向こうから聞こえてきて、それから沈黙の時間が流れた。
ブラシに絡まった髪の毛でも掃除しているのだろう。
経験があるかもしれないが、ブラシの清掃は結構大変なんだ。長く使っているものであればなおさら。
髪の毛を除去したら、今度は根元の埃が気になったりして。
部屋の前で待っているとプレッシャーになるか。
「ジネット。先に下へ降りてるぞ」
『あ、は~い!』
扉越しに会話をして、軋む体で地獄のような下り階段を降りていく。
ウーマロ、屋根を付けてくれるついでにエスカレーターでも設置してくんねぇかな?
あり得ない想像をして現実から目を背けつつ、なんとか一階へ降りる。
辺りはまだ真っ暗で、太陽が昇る気配もまだまだ感じられない。鼻の粘膜を刺激する澄んだ空気は少し冷たい。
今日は洗濯物も干されていない。ジネットが寝坊をしたからだ。起きていたのかもしれんが、動くことは出来なかった。
本格始動は明日からだろうな。
そんなことを考えながら、いい匂いに釣られるように厨房へ向かう。
……ん?
ジネットがまだ部屋にいるってことは……誰が料理をしてるんだ?
少しの間だけ痛みを我慢して速度を上げる。
ジネット以外の誰が陽だまり亭の厨房で料理をするってんだ。
考えられるのはマグダだが、マグダが作れるのはポップコーンやお好み焼きといった一部の商品のみ。
今香っているような、出汁の利いた料理はまだ教わっていないはず。
まして、ベルティーナや教会のガキどもに食わせる寄付の飯だ。味の保証が出来ない物をジネットが黙って見過ごすはずがない。
なら一体……
厨房へ続くドアを開け、中へと飛び込む。
そこにいたのは。
「おはようございます、コメツキ様」
「お早いお目覚めですね」
イネスとデボラだった。
「……何、やってんだ?」
「朝食の下ごしらえです」
「そのように依頼を受けましたので」
依頼?
ジネットがこいつらに?
いやあり得ない。筋肉痛で身動きが取れなかったジネットが、どうやって他の区の給仕長に依頼できるってんだ? 『とどけ~る1号』にすらたどり着けないようなズタボロ具合だったぞ、ジネットのヤツ。
「たまたまお店の前でお見かけしましたので、お手伝いをお願いしたのですよ、ヤシロ様」
「私もしている、手伝いを、朝食の仕込みの」
フロアからひょっこり顔を覗かせたのはナタリアとギルベルタだった。
イネスとデボラに手伝いを依頼したのってナタリアだったのか……で、だからさ、なんでいるんだよ、お前らが。こんな時間に、こんなところに。
「エステラ様が、『きっとジネットちゃん、今日は筋肉痛でつらいだろうから、仕込みの手伝いに行ってあげてくれるか~い?』とおっしゃいまして」
「お前のエステラの真似、似てないとか以前に悪意を感じるな……」
「似ていませんか?『すっかすっかり~ん』」
「それは似てる!」
「記憶していない、私は、微笑みの領主様が発言したのを、その言葉を」
言ったことがあるかどうかじゃないんだよ、モノマネは。
言いそうだなぁ~ってところを攻めていくのが面白いんだよ。
「で、ナタリアはまぁ分かるとして、ギルベルタはなんでここにいるんだ?」
「帰ることが出来なかった、昨夜、ルシア様は、疲労困憊で」
丸一日運動会ではしゃぎ回ったんだ。あの時間から馬車で三十五区まで帰るのはしんどかったのだろう。
「そして動けない、現在、ルシア様は、激しい筋肉痛のために」
「ほう、翌日にきたのか。よかったな、まだ若い部類で」
俺も日本で経験があるが、三十を超えると筋肉痛は二日後に来る。
「あれ? 全然平気だ。俺まだまだ若いなぁ~」からの「……くっそ、二日目に来るのかよ……!」という落胆を、きっとすべての人間が味わうことだろう。
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