更衣室のドアを閉め、そのドアに背を預けます。
「はぁ……」
なんとか、約束を果たすことが出来ました。
正直、無理なのではないかと不安になりました。
でも……
「よかったです。勝てて」
元来、誰かと競うということが苦手で、よくも悪くもマイペースで。
駆け引きや策略といったものはとんと不得手で。
「きっと、みなさんをハラハラさせてしまいましたね」
でも、勝ちましたよ。ヤシロさん。
不安な時に私を頼ってくれた。
泣きそうな顔をしていたあなたを、私は救えたでしょうか。
それでも、心配をかけてしまいましたね。
聡い子、ですからね、ヤシロさんは。
そして、優しい人ですから。
「どうか、自分を責めないでくださいね」
私が無理をしたのは、私がそうしたかったからですよ。
私が、私の意志で――
「あなたの役に立ちたいと、そう思ったから、ですからね」
まぶたを閉じれば、ヤシロさんの顔が思い浮かびます。
声を上げ応援してくれたこと。嬉しかったです。
私が負けそうになると、必死な顔をして声を張り上げて……ふふ、まるで教会の子供たちと同じような顔で。
あぁ、やっぱり私は……
「ヤシロさんの母でありたい」
無茶をして、頑張り過ぎて、一人でこっそり傷付いて、そんなつらさを誰にも見せようとしない。
そんなあなたを、ちゃんと見守っていてあげられる母で、私はあり続けたい。
「それで、たまに甘えさせてもらえれば、私は幸せです」
息を吸えば、お腹が重く、酷い圧迫感を覚えます。
少し横になりたい。でも、そういうわけにもいきませんね、こんな場所では。
「座るよりも、立っていた方が楽でしょうか……」
少しだけ、無理をしてしまいました。
また以前のように寝込んでみなさんに迷惑をかけるようなことがないようにしなければ……
胃が重く、胸が焼けます。
この苦しさにどう抗えばいいのか分からず困っていると、更衣室のドアがノックされました。
まさか、ヤシロさん……?
「シスターはん。ちょっと開けてんか~」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、レジーナさんの声でした。
少し驚き、少しホッとしました。
そっとドアを開けると、黒くつばの広い帽子の下で、にこりと優し気な笑顔が私を見ていました。
「シスターはんのごっくん生着替え覗きに来たで」
それはなんとも困った冗談で、少し、ヤシロさんの顔が脳裏に浮かびました。
「女性がそのようなことを口にしてはいけませんよ」
「ほんなら男子呼んでこよか?」
「もっといけません」
にこにこと、冗談を楽しむレジーナさんを更衣室へと招き入れます。
おそらく、ヤシロさんがレジーナさんを寄越してくださったのでしょうから。
「おっぱい魔神はんが言ぅとったで」
おっぱい魔神はんって……
なんて呼び名で呼んでいるのですか、もう。
「『べルティーナは隠れ巨乳! チアガールに着替えてくれたらご飯三杯はイケる!』って」
「冗談ですよね?」
「あはは、バレてもた? ホンマは五杯」
「そこではないはずです、訂正箇所は」
まったくもう。
レジーナさんはとても可愛らしい女の子ですのに、どうしてこう、言動がヤシロさんに似ているのでしょうか。……困ったものです。
いえ、別にヤシロさんが困った人というわけでは……いやまぁ、困った人ではあるのですけれども。
「ほい。このお薬飲んだら、お腹重いの、す~っぐ良ぅなるさかい」
そう言いながら、小さく折りたたまれた紙を差し出してきます。
それは、大雨の時に子供たちに処方してくれたお薬が包まれていた紙と同じもので、この薬はきっとよく効くのだろうなと信頼できました。
「ありがとうございます」
「気にせんとって。飲む時はぬるま湯がえぇんやけど、今はないさかいにこの水か、めっちゃエロいこと考えて生唾ごっくんするついでに薬を流し込んでんか」
「レジーナさん」
「い、イヤやなぁ、シスターはん。じょーだんやん、じょーだん。怖い顔したらアカンで」
もぅ。
レジーナさんといい、ヤシロさんといい。
どうして怒られると分かっていてそういうことを言うのでしょうか。
……それに、そこまで怖い顔をしているつもりはないのですが。そんなに怖いでしょうか?
「あぁ、ホンマやなぁ」
レジーナさんが、私の顔を見ながら呟きました。
目が合うと、「あ、しもた」と言って口を押さえます。失言、だったのでしょうか?
「何が本当だったのですか?」
「あぁ……いやまぁ……」
ぽりぽりと頬をかいて、レジーナさんは困り顔で思考し……
「まぁ、えぇか。しゃべっても、困るんはおっぱい魔神はんやし」
そんなことを呟いて、少しだけ意地の悪そうな笑みを浮かべました。
「実はな、前におっぱい魔神はんに聞いたんや。『なんで怒られんの分かってんのに、シスターはんにエロいことばっか言うんや』って」
それは、是非私も伺いたいことですね。
「そしたらな、『怒られたいんだよ』やて」
「まぁ」
「自分はダメ人間やさかい、定期的に叱ってもらわなアカンのやと」
そんなことを考えていたんですか、ヤシロさんは。
だからって、わざと叱られるようなことをしなくても……
「それにな――」
そこで言葉を止め、レジーナさんはにやりと口元に笑みを浮かべました。
「『叱ってる時のべルティーナの顔は、とびっきり美人だからたまに見たくなるんだよ』」
「――っ!?」
「……やて」
冗談っぽく、からかうように発せられた「やて」がなんだか気恥ずかしくて、思わず顔を逸らしてしまいました。
「シスターはんに甘えとるんやなぁ。母親や思ぅとるんちゃうやろか」
それは、とても嬉しいことなのですが……そんなことを言われては、こちらが母でい続けられないじゃないですか。
とびっきりの美人だなんて……
「あぁ、あと、『照れたべルティーナはご飯八杯はイケる』やそうや」
「どうして人の顔を見てご飯を食べるんですか、もう!」
からかわれています。
全然母だとは思ってないじゃないですか。
母に対する敬意を感じられません。もう、もう!
「大切にされとるんやね。シスターはんも」
その声には羨望が滲んで聞こえ、私はレジーナさんに向き合います。
「あなたは、信頼されているでしょう」
羨む必要などないのですよ。
ヤシロさんは、きちんとあなたのことも見ていてくれますから。
それだけ思ってくれる人がいることを、誇りに思えばいいのですよ。
「信頼か……なんや、こそばゆいわ」
頬を染め、照れ笑いを浮かべるレジーナさんはとても可愛らしく、そんな笑顔を独占した私は少しだけ得をした気分になったのでした。
「むずがゆくて、お尻かぃ~いなったわ。シスターはん、かきっこせぇへん?」
「ダメですよ。女の子がそんなことを言っては」
普段はここで言葉を止めるのですが、レジーナさんですので、もう少しだけ。
「そんなことを言っていると、ヤシロさんが『まぜて』って来てしまいますよ」
「あはは! ほなアカンなぁ。シスターはんのお尻は触らせられへんしな」
くつくつと、楽しそうに笑うレジーナさん。
なんだか、笑い方もヤシロさんに似ていますね。
「では、お薬をいただきますね」
紙包みを開けると、キレイなライムグリーンの粉薬が入っていました。
微かにさわやかな柑橘系の香りがします。
とても飲みやすそうです。
お水は、レジーナさんの水筒の中にあるようですので、そちらをいただこうと手を差し出します。
聡いレジーナさんはそれを察してこくりと頷いた後、胸とお尻を強調させるようにS字に『しな』を作って親指を噛み、「あっはぁ~ん」と切なげなため息を漏らしました。
「私、お薬はお水で服用したいのですが?」
「あぁ、そっちやった? 堪忍堪忍、生唾の方やと思ぅてもたわ」
いいえ、あなたはお水だと分かった上でふざけたはずです。
もう。後日改めてお説教しなければいけませんね。
「ほなこれ。なるべくゆっくり流し込んでや」
水の入ったコップを私に握らせる時、レジーナさんは私の手にご自身の手を添え、そっとまぶたを閉じました。
まるで、「良くなりますように」と祈りを捧げるように。
この思いやりがあるから、あなたのお薬はよく効くのですね。
言われたとおりに、口に含んだ粉薬をゆっくり、ゆっくりと水で流し込んでいきました。
すると、服用直後に胃がスーッとして、重苦しい圧迫感が消え去ってしまいました。
お腹の重さはまだ残るものの、気持ち悪さや胸やけはすっかりなくなりました。
すごい効き目です。
これなら、この後の試合を全力で応援できそうです。
「だいぶ楽になりました」
「さよか。ほならよかったわ」
にこにこと笑いながら、水筒を片付けるレジーナさん。
「せや、どうせこの後も無茶する人多いやろうし、ここに薬置いといたろ」
そんな気を回し、お薬と水筒をテーブルに置き、そして置き手紙をしたため始めました。
背を丸め、筆を走らせるその背中は、苦しむ誰かを救うことだけを考えている優しい薬剤師の背中で、私はそれをとても誇らしく思いました。
この街には、本当に素晴らしい人が多いです。
レジーナさんの背後から近付き、つばの広い三角帽子をそっと脱がせます。
「ぅへい!? な、なに? なんなん、シスターはん?」
「こうしないと、触れられませんでしたので」
そんな言い訳をして、こちらを振り返ったレジーナさんの髪を撫でました。
艶のある、綺麗な緑色の髪。
お手入れは、少々さぼり気味のようですが、しなやかでハリのある綺麗な髪。
撫で心地は申し分ありません。
「えっと……あの……これ、なんなんやろか?」
「優しい我が子を褒めるのは、母として当然のことですよ」
「我が子て……ウチみたいなんにまで、そんな気ぃ遣わんでも……」
気を遣っているのではありませんよ。これは、私の願いなのです。
「あなたのように、優しい娘の母になれて、私は嬉しいですよ」
「はは……さ、さよか」
俯いてしまったその顔は、なんだかゆるゆると緩んでいて、耳の先が真っ赤に染まっていました。
よかったです。
拒絶されるのではなく、戸惑いながらも受け入れてくれて。
「レジーナさんも、いつでも甘えに来てかまいませんからね」
「……ん」
何かを言おうとして、それをやめ、胸を押さえて、前髪をいじって、「むぁぁ」っと声を漏らして、「も、もうえぇやろ」と私の手から逃れるように逃げていってしまいました。
残念です。もっと撫でていたかったのに。
「あぁ、もう。撫でられ慣れてへんから、ハゲるか思たわ」
そんな照れ隠しの冗談を言って、そして――
「母親やったら、おっぱいの一つでも吸わせてもらいたいもんやな」
――そんな、誰かとそっくりなことを言うのでした。
「レジーナさん?」
「い、いや、ちゃうやん! これは、不可抗力やん!」
青い顔で言い訳するレジーナさんを、ほんの少しだけ、叱っておきました。
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