「おっはよー! ジネット起きてるー?」
微妙な空気を断ち切るように、正面玄関の方からパウラの声が聞こえてくる。
ドーナツを一番に教えてほしいと言っていたが、本当に朝一番でやって来るとは。
「何を手伝わせてやろうか?」
「ドーナツの作り方を覚えてもらって、実演を手伝っていただけばどうでしょうか?」
「ヤシロさんは、ドーナツの他にも何かを作るつもりなんですよね?」と、ジネットは期待するような笑みをこちらに向けている。
……ほっ。ようやくいつものジネットに戻った。
やっぱ、もう一人誰かいた方がいいな。今日はたぶんあれだ。二人きりは無理だ。
「じゃあ、教えてやるかドーナツ」
「はい。わたしは仕込みを続けますね」
水瓶から水を汲んで手を洗うジネット。髪とかいろいろ触ったしな。
そんなジネットを残し、パウラを迎えにフロアへと向かう。
「ドーナツ!」
「分かってるから、少し声のトーンを落としてくれ。朝からそのトーンはつらい」
「なんでよ~。もう、ヤシロ、ウチの父ちゃんみたい」
「そう言うお前は、早朝のロレッタみたいだぞ」
「ひっどぉ~い! 言い過ぎじゃない!?」
うん。お前も大概酷いぞ。
「おっはよーございま~すです、店長さん! 今日はあたしもばっしばし仕込みを手伝うですよ!」
厨房から弾むような大声が聞こえてくる。
やっぱ朝から元気だな、ロレッタは。
「な? 似たようなテンションだろ?」
「う…………あ、あたしは、ドーナツっていう特別感のあるテンションだもん。ロレッタは天然であれなの! ……一緒にしないで」
俺の指摘が的のど真ん中を射抜いていてちょっと恥ずかしくなったのであろう、パウラが垂れた耳を掴んで顔を隠す。
そんな特技あったんだ。もっと早く教えてくれよ。それ、めっちゃ可愛い。
「あっ! お兄ちゃん、パウラさん! おはよーです! あたし、今日はぱちーっと目が覚めたですよ! 今日はちょっと早起きです!」
「ロレッタ、うるさい。起きてるのは見たら分かるから声のボリュームもっと下げて。朝からそのボリュームはつらい」
ロレッタと対面した途端俺と同じことを言い出したパウラ。
自分に置き換えると分かりやすいよな、テンションの違う相手の対応する面倒くささ。
パウラが盛大なため息を漏らしてロレッタの隣を素通りして厨房へ入っていく。
「ジネット、おはよ~」という声を聞きながら、フロアの掃除を始めようとしているロレッタに尋ねる。
「モリーはまだ寝てるのか?」
「知らないです」
「ん? 一緒に寝てたんじゃないのか?」
「それがですね」
ロレッタが言うには、最初は一緒のベッドで寝ていたのだが、夜中トイレに立った後しばらく戻ってこなかったモリーが、戻ってきてからベッドの上で身悶えていたらしい。
「なんか、『んきゅんきゅ』言いながらごろごろ寝返り打ってたので、あたしマグダっちょのベッドへ避難したです」
「モリー……」
なんとなく空気に乗せられて俺に好きなヤツの情報とか漏らしたからな。
冷静に思い返した途端恥ずかしさが込み上げてきたんだろう。……なんでしゃべっちゃうかねぇ。
怖いよな、夜中のテンションと、恋する盲目感。自分に酔えちゃう感じとか。「ヒントだけなら」とか言っちゃってたし。結構テンション上がってたんだろうな、あの時。
所謂『やらかした』状態だな、うん。
「モリーは、もう少し寝かせておいてやろうか」
「そうですね。教会へ行く前に起こしてあげるです」
「だ、大丈夫です!」
振り返ると、モリーが若干赤い顔をして立っていた。
髪がもはもはしていて、目が赤い。相当寝返りを繰り返したらしいな。
「あ、あの……おはよう、ございます。それで、あのヤシロさん……」
モリーが縋るような目で見てくる。
分かってるから蒸し返すな。それもロレッタの前で。
昨晩のことはお互いのために他言しない方がいいのだ。
俺は自分の口を針と糸で縫いつけるジェスチャーをしてみせる。チャックがないので縫いつけることになったのだが、なんとか意図は伝わったらしい。モリーも同じように上唇と下唇を縫いつけて……コの字まつり縫い!?
なるほど。モリーは裁縫が出来る娘なんだな。
とりあえず、自分の秘密が露呈することはないと安心したのか、モリーの表情から焦りが消えた。
「ロレッタ。モリーを井戸のところに連れて行って、洗顔道具の場所を教えてやれ」
「はいです! モリリっちょ、顔を洗って髪も整えるです」
「あ、はい」
「終わったら、ロレッタはフロアの掃除。モリーはジネットの補助を頼む」
「任せてです!」
「分かりました」
そして、俺はパウラにドーナツを教えるか。
「そんなわけで、厨房を半分借りるぞ」
「はい。頑張ってくださいね、お二人とも」
「ふふん! 今日中にマスターしてやるんだから!」
揚げるだけならロレッタでも一日で事足りた。
問題は生地の発酵と、中身の味付けだ。
あんこやカレーは、こんな短時間でマスター出来るものじゃない。
一般公開するのはシンプルで簡単なレシピにするつもりなのだが、飲食店関係者にはもう少し凝ったものを覚えてもらう予定だ。あと、アレンジの仕方も。
店によって微妙に味が違う。そんな感じの切磋琢磨が出来ればいいなと思う。
「あんこやカレーはこれから各自で勉強して味を追求していってくれ。今日は陽だまり亭の味付けで作る」
生地の発酵がまだ終わっていないので、先にあんことカレーの作り方を教えていく。
ジネットが小豆の渋切りまで終わらせてくれていたので、こちらはあと少しで出来るだろう。
小豆のいい匂いがする。
「先にカレーを作るぞ」
「あたし、カレーライスなら作れるよ」
「カレーライスとはちょっと違うんだ」
ドーナツの中に入れるカレーと、ライスにかけるカレーは違う。
どのように違うのか、なぜ違うのかを説明しながら、香辛料を量っていく。薬研で粉にして、熱して、ルーを作っていく。
「うはぁ、いい匂ぉ~い」
パウラが鼻をひくひくさせている。
「そういえば、ロレッタが前に『ジネットはカレーの匂いがする』って言ってたらしいぞ」
「へぅ!? そ、それは、なんだか恥ずかしくて、イヤです……」
ヒジの付近をすんすん嗅いで、困った顔でこちらを見てくる。
たぶん、髪についていたんじゃないか? 髪の匂いって残るし。
「すんっすんっ……う~ん、カレーっていうより小麦粉の匂いがする」
「あ、あのっ、嗅がないでください、パウラさん……」
逃げるようにそそそとパウラから距離を取るジネット。
小麦の匂いは風呂上がりに食糧庫に隠れたせいだな。……よし、触れないでおこう。
「むはぁ、いい匂いです! けどっ、あたしはここに留まりたい気持ちを振り切ってテーブルを拭いてくるです!」
中庭から先に戻ってきたロレッタが、後ろ髪を引かれつつフロアへと向かう。
そのすぐ後に洗顔を終えたモリーも戻ってくる。
髪の毛も綺麗に梳かされている。
「店長さん、ヤシロさん。何かお手伝い出来ることはありますか?」
「では、こちらの野菜の下処理を。モリーさん包丁は使えますか?」
「ナイフなら……包丁は初めてです」
この街の一般家庭はナイフで料理をする。
包丁はプロの道具だ。
「包丁の方が切りやすいんですよ。少し練習してみましょうか」
「はい。教えてください」
「喜んで」
隣に並んで楽しそうに会話をするジネットとモリー。包丁の握り方から丁寧に教えている。
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