「おぉ、思ったより明るいな」
「人の頭皮を見ながら言わないようにね、オオバ君」
室内は想像以上に明るかった。
デミリーのおかげで。
……ふん。妙な言いがかりを付けてきた罰だ。
急ぎで作った簡素な平屋だが、内緒話が丸聞こえになるようなことはない。
よほどの大声でも出さない限り、外に会話が漏れることはないだろう。
「こういう面白い建物も、四十二区っぽいよね」
にこにこと、室内の壁を叩くデミリー。
欲しそうな顔をしながらも、「いや、これを作ってもねぇ」みたいな反応だ。
こういう秘密基地みたいなのは、そこに集まる者がいてこそ楽しいものだからな。
デミリーなら、気心の知れた者と密会する時は自分の館を使うだろう。
無用の長物だな。
「『無用の長物』と『無乳のチューブトップ』って似て――」
「前に聞いた、そのくだらない話」
そうか。
もう周知の事実だったのか。
そうか。
「それにしても、随分と慎重を期するんだな」
軽い口調で言って、エステラへ視線を向ける。
「そんなに、重い話なのか?」
「……うん。まぁね」
真剣な眼差しを向けると、エステラが困ったような弱々しい笑みを浮かべる。
「実はね、昨日エステラに手紙をもらってね。『オオバ君にアノ件を話そうと思う』って。まぁ、エステラだけじゃ話しにくい部分もあるだろうからって、お節介を焼いて出張ってきたんだよ」
「そんな、オジ様……正直、オジ様の顔を見てほっとしました」
結構ヘビーな話のようだ。
四十二区の西側、陽だまり亭の周りに人が住んでいない理由。
そこには、エステラが憂慮するような理由が隠されている。
それは、遠く離れた四十区の領主の耳にまで届き、『アノ件』として認識されているような出来事だった。
何があったんだ。
「湿地帯やスラムが関係してるのか?」
もしそうなら、ロレッタがいたあの場でエステラが俺の言葉を遮った理由が分かる。
スラムのそばになんて住んでいられないと、領民が引っ越していってしまったとなれば、ロレッタは気に病むだろう。少なくとも落ち込むよな。
「いや、……関係なくもないんだけれど、君が思っているような内容じゃないと思うよ」
言いにくそうに、エステラが視線を逃がし、だが意を決したように深呼吸をして俺を見つめる。
そして、はっきりとした声で、静かに告げる。
「今から数年前、この付近一帯に恐ろしい病魔が蔓延したことがあるんだよ」
病魔……、流行り病か。
「まず、川漁ギルドの者が発症し、酷い喘息の症状に苦しんでいたんだ。次に川向こうの林で果実を育てていた農業ギルドの者が、そして林業を生業としていた者たちが立て続けに同じ症状の病に倒れた」
それから瞬く間に、その病は蔓延していった。
看病をしていた家族に伝染し、近所に住む者に広がり、この西側一帯へ広がっていった。
「……多くの者が亡くなったよ。当時は、薬すら買えずに……治療を受けられる者も限られていて…………っ」
エステラが唇を噛み締める。
泣きそうなのを我慢したように、俺には思えた。
「それで、当時の領主――ボクの父はその原因の調査を始めたんだ。最初の患者が川やその向こうの林で仕事をしていた者だったから、その付近に原因があるのだろうって。……でも、結局原因は突き止められなかった」
ただし、大凡の推論を立てるには至った。
つまり――
「病原菌は、湿地帯からやって来たのだろうと、当時の調査団は結論づけた」
「私たちはそれを『湿地帯の大病』と呼んだ。――心ない者たちの中には、精霊神様の怒りに触れたせいだと言う者もいた。だが、それは根も葉もないデマカセだ。耳を貸す必要はない」
デミリーがエステラの髪を撫でる。
これが、エステラが言いにくかったこと、か。
つまり、被害に遭っていない他所の区の連中は、四十二区に流行り病が蔓延したのは、四十二区が精霊神に何かしたせいだと、そんなことを言っていたわけだ。
精霊神に嫌われた区だから、そんな目に遭ったのだと。
……なるほどね。
四十二区というだけでやたらと蔑まれていたのは、そういう側面もあるのか。
精霊神に見放された――精霊神の怒りに触れた領民。それが四十二区の者たちなのだと。
「その年は、猛暑期でもないのに気温が高い日が多くてね、おそらくその気温のせいで湿地帯に病原菌が発生してしまったのだろうというのが一般的な見方なんだよ。冷静に考察しなければ明日は我が身だからね。異常気象はいつ起こるか分からない。対策を立てるためにも調査は入念に行われた。だから、おそらくそれが正解だ。くだらない陰口は一顧だにする必要はない」
わざわざそう言うってことは、相当広い範囲でそんな陰口が叩かれているのだろう。
いや、貴族連中の間では常識になっている可能性もあり得る。
ただそれを表立って口にすれば、万が一にも自区で同じ病が発生した時に「お前のところも?」と言われかねないから表立って言わないだけだ。
異常気象で流行り病……マラリアのように、蚊にでも媒介するウィルスなのかもしれない。
それは、調査をしても原因を突き止めるのは難しいだろうな。
蚊がウィルスを媒介しているって知識がなけりゃ、「蚊に刺されて発症した」なんて信じられないだろうし。
「結局、流行り病の拡大を食い止める方法は一つしかなかったんだ」
「隔離と封鎖、か」
「……うん。発症した人たちを一ヶ所に集めて、近隣の家は立ち入りを禁止した。収容所があったのは、ちょうどこの付近だったかな?」
西側の外壁側。
人が滅多に寄りつかない場所。
そこへ多くの者を隔離して、病の終息を待った。
……領民を救えなかったのは、心苦しかったろうな。
「あぁ……だから、ベルティーナは」
「そうだね。水害の時、子供たちが次々倒れた時に取り乱したんだと思うよ」
教会の井戸が汚染され、ガキどもが一斉に倒れた時、ベルティーナはらしくもなく取り乱し憔悴していた。
過去に同じ場所で流行り病が発生し、多くの者が亡くなったというのなら、アノ取り乱しようも頷ける。
「病が終息した後も、しばらく西側には人は寄りつかなかったんだ。野菜も、売れなかった。川魚もね」
それで、どんどんと値段が落ちていったのだろうな。
俺がここに来た時の野菜や川魚の値段は、やっぱり安過ぎたんだな。
これ幸いと、さらに買い叩いてしまったわけだけれども……うん、ちゃんと還元してやろう。
陽だまり亭で盛大に宣伝してやるよ。美味くて栄養満点だって――と、そんなことを考えて、ふと思った。
「もしかして、ジネットの祖父さんって、その流行り病で?」
「ううん。ジネットちゃんのお祖父さんが亡くなったのはその少し前だね」
「……そうか」
なんとなく、安心した。
結局亡くなってはいるんだが、抗えない自然界の猛威ってのは心にしこりを残すからな。
「それ以降、西側に住もうという人は激減してね。川漁ギルドと農業ギルド、それから教会と陽だまり亭だけが残ったんだ」
それで、人が住まない廃墟が並んでいるのは治安の悪化と崩落の危険があるからと一斉に取り壊し作業が敢行された。
そして、今のあの寂しい西側になったのか。
「その時、ジネットはどうしてたんだ?」
「陽だまり亭にいたよ」
「はぁ!?」
驚く俺を見て、エステラがくすりと笑う。
「だよね、驚くよね」と言いたげに。
「隔離されている人たちに食事を届けるんだって、毎日収容所へ通っていたよ」
「なんちゅう恐れ知らずな……」
「ボクも止めるべきだったんだろうけど、ジネットちゃん、お祖父さんを亡くした直後で不安定だったから……何か、生き甲斐がないと消えてなくなってしまいそうでさ……」
生き甲斐は人を生かす。
危険と知りつつも、「生きよう」とする心をジネットに持たせることを優先したのか。
「それに、その病魔は子供には感染しなかったから」
「え……? そうなのか?」
「うん。発病したのはどれも働き盛りの大人ばかりだった。二十代から五十代の世代ばかりが発症していたんだ。亡くなった人たちも、みんなその世代だった」
そうか……
だから、教会のガキどもやベルティーナは無事でいられたんだ。
…………いや、ベルティーナは五十代よりもっと上だもんなぁ~とか、そういう話ではなく……もないんだが、この話題には触れないでおこう。
「それでね、ボクがこの前この話題を避けたのは――」
その後に続いた言葉は、ある意味で俺の度肝を抜き、その反面妙な納得をもたらせた。
「デリアの両親が、その病で亡くなったからなんだ」
若いデリアがギルド長を務め、その職務に深いこだわりを抱いている理由は、そういうところにあったんだな、ってな。
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