「俺が大切に思っている女性はな……」
三人の視線が俺へと集まってくる。
フィルマンは涙目で、ナタリアはガラにもなく真剣な表情で、エステラは――少しだけ緊張したような面持ちで。
まぁいい。聞かせてやるさ。
俺の心の中に、いつも存在している、特別な女性の話を。
「……料理がうまくて、優しくて、温かい人なんだ」
「……あ」と、エステラが小さな声を漏らす。
視線は向けず、俺は続ける。
「家に戻ると、夕飯のいい香りがしてな。玄関を開ければ、いつも優しい笑顔で迎えてくれるんだ。どんなに帰りが遅くなっても、いつだって俺を受け入れてくれる……」
思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。
俺らしくもないこんな話を、目の前の三人は一言の茶々を入れることなく静かに聞いている。
「顔を見ると、『あぁ、帰ってきたんだな』って安心できる、そんな女性だ」
さすがに少し恥ずかしくなって、やや早口でさっさと切り上げる。
俺の話を聞いて、その場には、妙な空気が漂っていた。
……誰か、なんかしゃべれや。
「温かい……ですね」
フィルマンの顔に、笑みが浮かぶ。
「ヤシロさんの思いが……気持ちが……僕の心に突き刺さりましたっ!」
「そ、そうか……何を勝手に刺さってくれてんだって気もしないではないが……まぁ、それで勇気が出たならよかったよ」
「はい! 勇気が湧いてきました!」
すっくと立ち上がり、フィルマンは希望に満ちた瞳で叫ぶ。
「僕も頑張ります! いつの日か、ヤシロさんみたいに『おかえりのちゅー』をされるためにっ!」
「されてねぇわ!」
捏造しないでくれるかな!?
そんな話、一個も出て来てないよね!?
「やります! 折角みなさんがくださったチャンスですから、僕、勇気を出して話しかけてみます!」
スイッチが入ったように、ぐんぐんと熱量を上げていくフィルマン。……正直、暑苦しい。
揺れ動き過ぎだろ、思春期の恋心。
映画とか見て影響されやすいタイプなんだろうな。
あぁ……そういやこいつも『BU』の若者か。
「じゃあ、気が変わらないうちに呼び出してくるわ。行くぞ、エステラ」
「………………うん」
「むはー!」と奇声を漏らすフィルマンをその場に残し、エステラと二人で麹工場へと向かう。
本日二度目だ。
バーサに取り次いでもらえば、話しくらいはさせてもらえるだろう。
「…………ねぇ」
俺よりも、ほんの少し後方を歩くエステラから声をかけられる。
なんだか儚げで、今にも消えてしまいそうな声音だ。
「どした?」
振り返ると、まるで泣き出す直前みたいな真剣な表情をしたエステラが俺を睨んでいた。
…………なんだよ?
「…………さっきの、話ってさ……」
それを蒸し返すのかよ……
「…………あれって、さ…………やっぱり、…………あの人のこと……だよね?」
言い終わる前に、エステラの視線が逃げる。
何をそんな深刻な声を出しているんだか……
「あぁ、そうだよ」
こいつも知っている、俺にとって大切で特別な人物……
「…………そっか。やっぱり……ね」
その人とは――
「女将さんのことだ」
「……………………へ?」
フィルマンは「恋バナ」にこだわっていたようだが、俺はあくまで「俺が大切に思っている女性」の話をしただけだ。実際、そう言って話し始めたしな。
それに恋愛を絡めたのは、フィルマンの勝手な勘違いだ。わざわざ訂正はしてやらないけれど。
「いや、でも……料理が上手で、帰りを待っていてくれてって……え?」
「女将さんの料理は最高だったぞ。あれを超える料理は……まぁ、片手で数えられるくらいしかないな」
「そう、なんだっけ?」
「あぁ。部活で――えっと、運動とかするグループの活動な――帰りが遅くなるとな、夕暮れの空の下に漂ってくるわけだよ、女将さんの料理の匂いが。これがまた、堪らなくてな」
薄暗い道を歩き、家が見えてくると、台所からいい香りが漂ってくる。
そんな帰り道が、俺は大好きだった。
「運動して、泥まみれの汗だくで帰ってきても嫌な顔一つしないで、『おかえり。もうすぐご飯だから手を洗っておいで』って…………」
あ、ヤバい…………泣きそうになってきた。
「…………女将さんの煮魚、美味かったなぁ……」
…………ってぇ! 泣くから! ちょっと黙れ、俺の口!
「大切な、女性…………だったの?」
「あぁ、そうだよ」
洟をすするのを誤魔化しつつ、言葉を吐き出す。
「女将さんは俺の母親代わり……いや、母親だからな。女性で間違いない」
親不孝を散々やらかした俺だが……大切に思っていた。それだけは真実だと言い切れる。
「だが、マザコンじゃないからな? むしろ、自分の親を大切に思えないようなヤツの方こそどうかしてんじゃないかと、俺は思うね」
あれだけの恩を受けて、大切じゃないなどとは、口が裂けても言えない。
親方も然りだ。
「ま、フィルマンは勝手に恋バナだと勘違いしちまったようだがな」
そう思い込ませるように仕向けたのは俺だが、ここはしれっとシラを切っておく。
勇気が出たなら結果オーライじゃないか。
「そっか…………うん、そうなんだ」
強張っていた声が、ほんの少し丸みを帯びた……ような気がした。
エステラの声音が変わり、なんだと振り返ろうとすると――
「紛らわしいよ」
「いてっ」
肩甲骨を殴られた。
おまっ……骨はやめろ、骨は。
「はぁ…………疲れた」
そんな、訳の分からん不満を漏らして、あまつさえその責任を俺に押しつけるような非難がましい目を向けて、……最後にエステラは笑った。
「さ、行こうか」
今度は俺を置いて先に歩いていってしまう。
気のせいかもしれんが、弾むような足取りで。
…………まぁ、今回はそういうことにしといてくれよ。
先を行く背中に向かって念を飛ばしておく。
お前の不機嫌の理由は、分からなかった――ってことに、しておいてやるからさ。
他人の色恋に首を突っ込むと、まぁ高確率でこっちの精神がすり減らされることになる。
だから、なるべくなら関わりたくないものだ。
今回は、仕方なしだ。
やることをやってさっさとケリを付けたいものだな。
これ以上、俺に手痛いしっぺ返しがやってこないうちに。
先行するエステラが、門番に声をかけている。
朝訪れたこともあり、友好的な雰囲気だ。
二~三言言葉を交わすと、門番は軽く礼をして工場の中へと入っていった。
門のそばに立つ詰所から別の者が出てきて、奥へと駆けていく。
伝言を届けてくれるのだろう。
「会ってくれるって」
普段以上ににっこりした表情のエステラが俺のもとへと戻ってくる。
なんだかやけに嬉しそうなエステラの顔を見ると、……意味もなく恥ずかしくなってきた。意味なんか全然、なんにもないのだけれど。
なので、俺は門に背を預けてもたれかかる。
そうしたら、エステラが俺の真似をして隣で同じように門にもたれかかった。
……青春映画のワンシーンかっての。
とりあえず、会話でもして待つか。
「なんて言ったんだ?」
「別に。ただ、話がしたいって」
「それだけか?」
「あとは、ボクとヤシロが来てるって」
アッスントがいないことを伝えておかなければ、また商談かと思われる。
もっと気楽なものであると、エステラは伝えておいてくれたようだ。
「お待たせいたしました、クレアモナ様――」
物の数分で、門の向こうから声がかけられる。
体を起こし振り返ると、バーサがいた。
「――そして、ヤシロ様……ぽっ」
際どい超ミニのスカートを穿いて。
「アウトー!」
その出で立ちにレッドカードを突きつけるが、暴走を始めたバーサの耳には届かない。
「ヤシロ様が『私に』会いに来られたと聞きましたので、私、生まれて初めて、『有給休暇』を取得いたしましたっ! ……今日は、夜までOKです」
「聞けぃ、人の話! そして勝手に手を握るな! ……って、地味に力強ぇなババア!」
この後、エステラと二人で事情を説明し、バーサの暴走を必死に抑え込む。
リベカを呼んできてもらうために要した時間は、三十分ほどだった。
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