「あ、あの。それで……その『陽だまり亭』というお店のお手伝いをすれば、私の悪癖は治るのでしょうか?」
「治るかどうかは断言できないが、まぁ、改善はするだろう」
「そう……ですか。……よかった」
これまでトレーシーは、一瞬でも甘い顔を見せればネネの甘えや優柔不断さ、弱さが抜けないと思い込んでいたらしく、今のような不安をネネに見せることはしてこなかったのだそうだ。
特に、悪癖を治したいと思っているなんてことは、ネネには一言も言っていなかったらしい。
その辺のことはランチの席で俺がネネにバラしたし、今さら隠す必要はないと教えてやると、なんだか憑き物が落ちたかのような表情をしていた。
もう無理して隠さなくていいと、安堵したのだろう。
そのまま、「もう怒らなくていいんだ」と脳みそが学習してくれれば事は簡単だったのだが……
「ネネッ! 皆様がこうして尽力くださっているのだぞ! なぜ礼の一つも口に出来ないのだ!?」
「も、申し訳ありませんっ! 心より感謝しております!」
「言葉が軽ぅぅううーい!」
「申し訳ございませんっ!」
……悪癖はなかなか取れないから厄介なものだよな。体に染みついてやがる。
トレーシーの中では――
「ネネの行動が気になる」→「怒り」→「怒鳴る」
――というプロセスが思考より早く作動してしまうようだ。
なので、そのプロセスを阻害する仕掛けが必要になってくる。
その秘策が……
「トレーシー。今日以降、ネネを『さん付け』で呼ぶんだ」
「『さん付け』……ですか?」
そう。「さん付け」だ。
これは、一般企業のパワハラ対策としても取り入れられている手法で、無自覚に人を罵倒してしまう上司に対し行われることがある。
目上の者は絶対的存在で、目下の者にはどんな態度を取っても許されると思い込んでいる上司は割と多く、必要のないところでも部下を怒鳴ったり、パワハラに当たる暴言を吐いたりすることがある。
そういった人物に「さん付け」と「敬語」を義務付けるのだ。
もちろん、「さん付け」に「敬語」で相手を叱責する者もいる。
だが、瞬間湯沸かし器のように他人を叱責するような人間は、言葉を理論的に組み立てて相手を追い詰めようという思考は持ち合わせていない。
大きな声と迫力で相手を黙らせてやろう――そういう思考の人物にはこの「さん付け」が効果を発揮する。
そういった人物というのはメンツやプライドといったものを何より大切にしている場合がほとんどで、他人に対するアピールとして怒鳴っている側面がある。
要するに、「他人を叱責できる強い自分」をカッコいいと思い込んでいる節があるのだ。
それに加え、横柄で他人を平気で怒鳴りつけるような人物は、その多くが相手を呼び捨てにしていることが多い。
「さん付け」は、同等以上の人物にするものだという認識が体に刻み込まれているのだ。
だから、目下の者を呼び捨てにする。
だが、呼び捨てはその次に繋がる暴言を誘発しやすい。
「吉村、テメェ、コノヤロウ!」と言うヤツはいても、「吉村さん、テメェ、コノヤロウ!」と言うヤツはそうそういない。滑稽だからな。
他人より上にいる自分。そんなものに酔いしれる人間にとって、目下の者に「さん付け」をするというのはハードルが高く、屈辱的と思うことすらある。
だが、会社や社会が「そんなことすら出来ない人間なのか」というマイナス評価をするとなれば、メンツを重んじるその上司は「さん付け」を受け入れざるを得ない。
たったそれだけのことを……ということが受け入れられない者はあまりに多い。
だからこそ、昨今ではパワハラ防止の講習なんかを受講させる企業が増えているわけだ。
しかし、トレーシーは違う。
こいつは自分を上に見せたくてネネを怒鳴っているのではない。
ならば、「さん付け」するだけで随分と悪癖を抑えられるだろう。
「さん付け」はある種、他人を敬う言葉でもある。
敬いと叱責が同時に起ころうとすれば、脳が一瞬戸惑いを覚える。
その一瞬が、瞬間湯沸かし器のような脳をクールダウンさせてくれるはずだ。
「ネネも、トレーシーを『さん付け』で呼ぶように」
「え、えっ!? 私が、トレーシー様をですか!?」
狼狽しつつ、トレーシーを窺い見るネネ。
仕える主を「さん付け」にする。
立場が違えばその意味合いはまるで変わる。
「さん付け」は、相手を敬うという側面もあるが、ネネ視点で言えば、トレーシーの地位を下げることでもある。
「様」が「さん」にランクダウンするのだ。戸惑いは隠せないだろう。
しかし、ネネがトレーシーの顔色を窺い過ぎるのは、トレーシーを領主としてしか見ておらず、さらに自分を必要以上に低く評価しているからだ。
自分の意見はすべて間違いで、領主であるトレーシーの意見はすべてが正しい。そんな歪んだ思考回路では、ネネの悪癖は矯正できない。
一度、同じ地位に立ってみればいい。
陽だまり亭の新人バイトという同じ立ち位置に立つのだ。
二人が幼く、どちらにもまだ肩書きが付いていなかった頃、そうであったように。
「さん付け」はお互いの間にある不要な落差を取り払ってくれる、コミュニケーションの基本みたいなもんだ。
資産の差も、権力の差も、技術の差も、一度ある程度取り払い、同じ高さに並べてくれる。
初対面の者が最初「さん付け」で接するのは、人間関係を築き上げる前段階だからだ。そこから仲が発展すれば「さん付け」はなくなり、各々のコミュニティを形成していく。
もっとも、ジネットのように誰に対しても「さん付け」をする者も少なくない数存在するため、一概に「さん付けの間は仲が発展していない」とは言えず、性格によるとしか言えないが……トレーシーとネネの場合は、これでうまくいくだろう。
お互いを「さん付け」で呼び合う対等の立ち位置に、一度こいつらを引き戻してやるのだ。
おかしな方向へ向かって形成されてしまっていた主従関係を一度無しにして、もう一度構築し直すために。
「ほい、じゃあ練習な。まずはトレーシー」
「え……、あの……」
突然振られて、目を丸くするトレーシー。
だが、少し照れくさそうにしながらも――
「ネ……ネネ、さん」
――こちらの要求にしっかりと応えてみせた。
本気で悪癖を治したいと、そう強く思っているのだろう。
一方のネネは――
「ト、トレーシー……さん」
――と、床に土下座しながら呟いた。
って、こら。
「おもてを上げ~いっ!」
「で、ですがっ、トレーシー様をさん付けになど……っ!」
「ネネッ! 皆様の言うことを素直に聞くことすら出来んのか貴様はっ!? ……さん!」
「どこに付けてんだ『さん』!? 取って付けたにもほどがあるわ!」
陽だまり亭に着くまでの間に、何がなんでも「さん付け」で呼び合うようにしてやる。
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