「ちょっと、いいかな?」
群がる子供たちを引き剥がして、ヤシロさんが私の前にやって来ました。
そして、いつもの静かな視線を私に向けます。
どんな時も、明け方の空のように物静かな雰囲気と、夕暮れの空のように物悲しい色が混在している、ヤシロさん独特の目……
ヤシロさんは、いつも心の中に誰にも話さない思いを秘めている。……私にはそう思えるのです。
その心の奥底を垣間見てみたい……そんな、はしたない思いが、ないとは……言えません。
ですが、ヤシロさんの心はヤシロさんのもの。
私は、そばにいてそっと見守るしか出来ません。
ですので、質問の答えはいつも決まっています。
「はい。構いませんよ」
私に出来ることは、なんだってします。
してあげたいのです。
子供たちから距離を取り、二人だけで話せる場所へ移動する――その間の無言も、今は妙に落ち着きます。
不思議な方ですね。
そこにいてくれるだけで安心できてしまうなんて。
「実を言うと……」
歩きながら、ヤシロさんは話し始めました。
面と向かって話し始めるより、その方がスムーズだと考えたのでしょう。
私は、流れるように、さり気なく視線を向けます。
「しばらくの間、――具体的にはこの種が開花するまでの間、どこかに身を隠しておこうかとも考えたんだ」
一瞬、世界が暗転しました。
それはほんの一瞬でしたが、鈍器で後頭部を殴られたような、そんな気分でした。
ほんの一瞬の、私の微かな動揺を、ヤシロさんは敏感に察知したのでしょう。不意に口調が優しいものに変わりました。
「俺なら、きっとうまくやれると思ったんだ。全部を忘れた後で『忘れていないフリ』をして、もう一度最初からやり直すことが。俺は、嘘吐きだから」
おそらく、ヤシロさんならそのくらいのことはやってのけるのでしょう。
私やジネットにすら気付かせることなく……ですが、それは…………
「つらくは、ありませんか?」
ずっと、人を騙し続けるというのは、おそらくですが……人間の心の許容量を超える負荷を背負うことになるのではないでしょうか。
ヤシロさんにそのような業を背負わせるのは…………私は、嫌です。
「私は、ヤシロさんが思うように行動することを望みます。ですがただ一つだけ……」
それは、わがままな願いかもしれません。
そうと分かりつつも、言わずにはいられませんでした。
「もし、私のことを忘れてしまったら……正直に、そう言ってください。そこから、もう一度、二人の思い出を作っていきたいですから」
そうとは知らずに、ヤシロさんを苦しめ続けるなんて、私はしたくありません。
私の負うはずだった苦しみや寂しさを、ヤシロさんに肩代わりさせるなど……
「たぶん、みんな同じような気持ちなんだろうなぁ」
不意に、ヤシロさんがそのようなことを言いました。
思いもかけずに漏れてしまった……本音のような気がして……
「そうだと思いますよ」
私はそう答えました。
これは私の予想でしかないのですが、きっとみなさん、同じ気持ちだと思うのです。
「だって……みなさん、ヤシロさんのことが大好きですから。……もちろん、私も含めて」
ヤシロさんが一人で苦しむようなことは、もう二度とあってはいけない。
あの大食い大会の日に、私はそう思ったのです。
「うん。俺もそう思うんだよなぁ……みんな、同じことを考えてるんじゃないかって…………だからさ」
「……ぁ」
その時見せたヤシロさんの瞳が、なんだかとても寂しそうで…………
「……俺との思い出って、なくなっても別にいいもんだったんじゃないかって思うんだよな。もう一回最初からやればいい……やり直しの利く程度のさ」
……激しく、後悔しました。
そんなこと……
「そんなこと、ないですっ!」
柄にもなく、そして、子供たちを導く保護者としては落第点をもらいそうな程、私は感情に任せて声を荒らげてしまいました。
この焦燥感は、自分に対する苛立ちです。
私は、なんと迂闊だったのでしょうか。
「やり直せばいい」などと考え、あまつさえそれを思わせるような言葉を口にするなど……周りの者がしていいことでは、ありませんでした。
「……すみません。声を、荒らげてしまいました…………申し訳ありません」
二度目の謝罪は、迂闊な身を恥じてです。
「くくっ…………」
「……ぇ?」
おのれの非礼を、無神経な言動を、どうお詫びすればよいかと悩んでいると、突然ヤシロさんが肩を震わせて笑い始めたではありませんか。
私は何がなんだか分からずに、ぽか~んと口を開けるしかありませんでした。
「……悪い…………冗談だよ」
「じょう…………だん?」
冗談とは、一体、なんのことでしょう?
「そんなこと、思ってねぇよ。記憶が混乱してるっつっても、思い出せないのは名前だけなんだ。これまで過ごしてきた時間を忘れちまったわけじゃない。だから……」
「――ひゅむっ!?」
いきなり耳を摘ままれて、自分でもよく分からない声が漏れてしまいました。
なんなのでしょう『ひゅむっ』って…………長く生きて随分と落ち着きを得たと思っていたのですが…………ヤシロさんといると、自分も知らないような自分を発見させられてしまいます。
「あ、あの……みだりに女性の耳をぷにぷにするのは…………その……」
恥ずかしいのでやめていただきたいのですが…………でも、少しだけ、嬉しいような気も……あぁ、でも、こんなところを誰かに見られでもしたら…………
「おかしいな。俺の記憶では耳をもふもふしてやると『むふー』って喜んでたはずなんだが……」
「それは、マグ……別の方の記憶なのではないですか?」
ヤシロさんは今、私たちの名前を思い出せずにいて、無理やり思い出させようとすると苦痛を味わうと、レジーナさんがおっしゃっていました。
他の方であっても、名前を出すのは控えましょう。
「う~ん……そうだったかなぁ~」
「ふふ……また、冗談ですね。ヤシロさん、分かっていてやっているでしょう?」
「バレたか?」
「分かります。……バレるようにやっていることも、分かりますよ」
きっとヤシロさんは、私たち全員を騙しきることが出来るのでしょう。
それだけの頭脳と度胸と、そして優しさを、この人は持っています。
私たちのために、私たちを騙しきれる……それだけの力を。
だからこそ、こんな見え透いた冗談は、わざと見え透いた風にしているのでしょう。
ヤシロさんが好むおふざけです。
概ね……
「実は一回ぷにぷにしてみたかったんだよな。この尖った耳」
……そんなことだろうと思いました。
「ダメですよ。女性の肌に触れたいなどという欲求を持ち、あまつさえ、それを無断で実行するなんて」
「精霊神様ごめんちゃ~い」
「……それは、懺悔のつもりですか?」
「ん? これで十分だろ?」
まったく……あなたという人は。
そんな無邪気な顔で言われたら……怒れないじゃないですか。
「さぁ、もう手を離してください。……耳が取れてしまいます」
ヤシロさん相手になら、こんな『嘘』とも取れる冗談が言えます。
貴重な存在です。
……本当は、照れで熱くなった耳を触られるのが、恥ずかしいだけなんですけれど。
「ヤシロさん。とんでもないわがままを言ってもいいでしょうか?」
「ウェディングケーキを独り占めしたいのか?」
「それも魅力的ですが、もっと別のことです」
「小脇に抱えてグルグル回ってほしいとか?」
「それはたしか、大人は別料金……でしたっけ? うふふ。今ならお支払いできるかもしれませんね。臨時収入がありましたので」
結婚式前後のあれやこれやで、領主様より対価をいただいたのです。
結婚式に伴う行為のすべては奉仕の心で行うため、お金は必要ないと申し出たのですが、ヤシロさんが「線引きは必要で、それがないと今後結婚式自体が破綻するから」と、「そう思うなら使わずに貯めて、子供たちへのご褒美にでも使ってやれ」と、おっしゃってくださったのです。
それで私は、僭越ながら対価をいただきました。
そして、ヤシロさんは最後にもう一言。
「そうはいっても、これはお前の金だから、好きなように使うのが正しい使い方だ」とも。
なんともくすぐったいですね、「私のお金」などというものは。
自由に使っていいと言われると、何に使っていいのか悩んでしまいます。
そうなんですね。こういう時に使わせていただくのもいいかもしれませんね。
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