その日、まかない用のタコスを一般販売するという情報がロレッタさんによってもたらされ、陽だまり亭は俄かに慌ただしくなりました。
追加のサルサソースとトルティーヤを作り、妹さんたちに託し、わたしたちは陽だまり亭でその後の報告を心待ちにしていました。
結果として、タコスは大盛況だったそうで、報告をしてくれた妹さんたちはとても興奮されていました。
大きな身振り手振りで語られるその時の様子は、聞いているこちらが嬉しくなるくらいに活き活きと伝わり、その場にいたみんなが笑顔になりました。
ただ一つ気になったのが……
「ヤシロさん、遅いですね」
妹さんたちは先に戻ってきているのに、ヤシロさんがまだ戻っていません。
もしかして何かトラブルがあったのでは……
そんな心配をして間もなく、ヤシロさんが一人で陽だまり亭へと戻ってきました。
よかった、無事でしたか。
けれど、ヤシロさんの表情がなんだか険しく見えます。
難しい顔をして、腕を組んで、帰宅の挨拶もそこそこに口を噤んでしまいました。
あぁ、また一人で何かを抱え込んでいるのではないでしょうか。
わたしたちのために、この街の人のために、自分一人で重荷を背負いこもうとされているのでは……
ヤシロさんは、いつも一人で考え、一人で悩み、一人で努力をして、結果が出た後でわたしたちに話して聞かせてくださいます。
もしくは、明るい未来が確約されてから。
先が見通せないことに関しては、決して口を開かれません。
期待を裏切らないため、がっかりさせないための配慮、なのでしょうか……
たとえ、ヤシロさんが思い描いた通りの未来が訪れなくとも、物事がうまくいかなくとも、それでヤシロさんを責めるようなことはありませんのに。
誰が責められるでしょう。こんなにも、誰かのために走り回っているヤシロさんを。
むしろ、少しくらいご自分を甘やかしてもいいと思います。
時には怠けたって、投げ出したって、泣いて、怒って、喚き散らして、八つ当たりなどをしてしまったっていいと、わたしは思います。
ヤシロさんは、誰よりもご自身に厳しい方なのですから。
わたしたちには甘くしてくださるのに、ご自分にだけは一切の妥協を認めない。そんなストイックさが、今のヤシロさんを形成しているのかもしれませんが、それでも――
もっとご自分を甘やかしてあげてくださいね。
誰よりも頑張り屋なヤシロさんなんですから。
誰よりも褒めてあげてください、ご自身を。
いつものように、苦しそうなお顔をされませんように。
ヤシロさんは、人助けをする直前、とても苦しそうな表情を見せることがあります。
手を差し伸べたいのに、何かが枷のようにヤシロさんの心を堰き止めている、そんな風に感じる時があるんです。
ヤップロックさんの時もそうでした。
モーマットさんの時もそうでした。
ヤシロさんは、手を差し伸べる直前にとても苦しそうなお顔をされたんです。
わたしは、その枷を取り外してあげたくて、……ヤシロさんに、そんなつらそうな顔をしてほしくなくて……
ヤシロさんに語りかけたいと思ったんです。
『ヤシロさん……、どうか、ご自分を抑え込む枷を自分自身に嵌めないでください』
『あなたの思う通りに行動してください』
『何があろうと、わたしはあなたの味方です』と。
けれど、わたしがそのようなことを言えば、きっとヤシロさんはご自身が望まないことまで無理をして実行してしまいそうな気がして、言葉に出来ませんでした。
だからせめて、あなたを見守っている人間がここに一人いますよと伝えたくて、わたしは名前を呼ぶのです。
『ヤシロさん……』
どうか、それ以上ご自分でご自分を苦しめるようなことはやめてください。
あなたが望むものを、信じることを、あなたがいいと思うことを選択してください。
誰に遠慮することなどなく。
あなたの、心の思うままに。
それからしばらく腕を組んで考え込んでいたヤシロさんが、不意にわたしを見ました。
……あ。
「ジネット。ちょっといいか?」
アノ顔です。
困った人がいる時に、もうどうしていいのか分からなくなった時に、ヤシロさんが見せる、『俺に任せておけ』って言ってくださっているような、力強くて優しい、アノ顔をされています。
「はい」
何かをしようとされている時、わたしに話してくださるのがとても嬉しく、思わず笑みが零れました。
お店と屋台の後片付けをマグダさんとロレッタさん、それから妹さんたちにお願いして、わたしとヤシロさんは二階へと向かいました。
ヤシロさんのお部屋でお話があるようです。
……ヤシロさんのお部屋で、二人きり…………少し、緊張します。
真面目なお話なので、そんなことを考えている場合ではないのですが……
なんとも気恥ずかしくて、わたしはさっさと長持へと腰を下ろしました。……ベッドに座るように言われると、さすがに恥ずかしさが耐え切れませんから。
ヤシロさんがベッドに腰を下ろし、わたしと向かい合わせになりました。
「実はな……」
そこで語られたのは、今現在四十二区を取り巻く食糧不足の実態。
貧困故に苦しむ街のみなさんの現状。
そして、それを見たヤシロさんの素直な感想。
その話は、最初から最後まで驚きの連続でした。
街のみなさんが金銭的に苦労されていることは、なんとなく肌で感じていましたが、まさかそこまで被害が大きくなっていたなんて。
大通りの飲食店では三倍近くの値上げを余儀なくされ、パンに至っては十倍だとか。
陽だまり亭は、ヤシロさんのおかげで今もなお通常通り営業が出来ています。
ヤシロさんのおかげで、毎日楽しくお仕事が出来ています。
けれど、一歩外へ出れば、みなさんがそんなに苦しんでいたんですね……
わたしは、あまり表へは出かけませんので知りませんでした。
少し、自分の無知を恥じ、そして大いに「何かが出来れば」と思いました。
「それで、だな……相談があるんだが」
少し言いにくそうに、ヤシロさんが口にされました。
顔を背け、視線だけをこちらに向けて。
それはわたしや陽だまり亭に迷惑がかかるかもしれないことだと前置きし、これからヤシロさんがやろうとしていること、わたしやみなさんに協力を仰ぎたいと思っていること、その先の展望、そのすべてを語って聞かせてくださいました。
ヤシロさんは、その目で四十二区の惨状を見て、こう思われたのですね。
『救いたい』
――と。
あぁ、やっぱりヤシロさんはすごいです。
こんなに大掛かりなことをやろうとして、そして実際にやってのけるのでしょう。
一見すれば、不可能なことだと思ってしまうかもしれませんが、ヤシロさんが口にすれば不思議と実現しそうな気がします。
とてつもなく高い壁に阻まれたまだ見ぬ土地であっても、ヤシロさんなら「ここに扉があるんだぜ」と、難なくその場所へ連れて行ってくれそうな気がします。
「…………と、いうわけなんだ」
長い話を終え、ヤシロさんは陽だまり亭のレモン水を一気に飲み干しました。
こんな大それた計画に自分が参加するなんて、現実味が湧きません。
うまくやれるとも、とても思えません。
きっと、普通なら不安に押し潰されて「わたしには無理です」とお断りするようなことなのでしょうね。
けれど……
「ヤシロさんが正しいと思うことを、わたしは応援したいと思っています」
わたしは嬉しかったんです。
ヤシロさんが話してくださったことが。
気遣ってくださったことが。
何より、頼ってくださったことが。
「お前に迷惑をかけることになるかもしれんぞ」
そうなのかもしれません。
けれど、そんなことは些末なことのように思えました。
だって、ヤシロさんが――
いつも、誰かを救う直前にはほんの一瞬苦しそうな表情を見せるヤシロさんが――
今回ばかりは一度も苦痛な表情を見せませんでした。
一分の迷いもなく、一切の葛藤もなく、ヤシロさんがご自分のやりたいことを正直にやってみたいと思っている、そんな風に感じられたんです。
だからわたしは、なんの心配もしていません。
ヤシロさんがやりたいと思うことを、ヤシロさんが見たいと望む未来を、そして何よりもヤシロさん自身を、わたしは信じます。信じています。
だから、ヤシロさん。
「平気です。もし、物凄い迷惑を被ることになったとしても……」
一緒に、笑ってください。
「ヤシロさんがいますから、きっとその迷惑も、ヤシロさんがなんとかしてくださいます」
そんな冗談を口にすると、ヤシロさんはきょとんとした顔をされた後、呆れたようにため息を吐かれました。
そのお顔が可笑しくて、わたしはくすくすと肩を揺らすのでした。
ヤシロさん。
一緒に笑ってくださいね。
すべてが終わった後で、もう一度この場所で、わたしと一緒に、笑ってくださいね。
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