それから数時間……
「くそ……なんでか眠れねぇ」
ここ最近、どうも寝つきが悪い。
体は疲れ、意識もまどろみ、眠れそうな気はするのだが……いざ寝ようとすると、余計なことが脳内にグルグルと駆け巡り、脳みその回転がいつまでたっても止まらない。
そうして寝返りを打つうちに目覚めの鐘が鳴る……なんて日もあったくらいだ。
今日も、そうなりそうな気がする。
疲れてるのに、眠れない。
「あぁくそ……」
俺は体を起こしコーヒーでも飲もうと部屋を出た。
今日はもう寝ない。
たぶん、この後どんなに頑張っても眠れないだろうしな。
今何時くらいなのかなぁ……なんてことを考えて中庭に降りると……
「あれ?」
「あっ、おはようございます。ヤシロさん」
「おや、お早いですね。おはようございます、ヤシロさん」
裏口にジネットとアッスントがいた。
「……アッスントがいると言って譲らない架空の嫁に報告しなければ」
「待ってください、ヤシロさん。ジネットさんとはそういう関係ではありませんし、嫁は実在します。で、架空だと思い込んでいるのでしたら報告の必要はなく…………あの、一度のセリフにいくつもぶっこんでくるのやめていただけませんかね?」
律儀に全部のボケにツッコミを入れてくれるアッスント。
早朝から几帳面なヤツだ。
「今日は入荷の日じゃないだろう?」
陽だまり亭の食材は、基本的に月初めと中頃にまとめて購入している。とはいえ、それ以降は臨機応変というか、状況に応じてアッスントに発注をかけて買い足しをするのだが、どちらにしても事前にジネットから報告があるものなのだ。
「明日、アッスントさんがいらっしゃます」と。
そう言われた日は、俺もなるべく早起きをするように心がけている。
心がけているだけで早起きした日は限りなく少ないが。
だが、今日アッスントが来るとは聞いていない。
だからこそ……
「やっぱり脳内嫁に……」
「ヤシロさん。いますから、嫁」
だってお前、見せてくれないじゃん!
「あの、ヤシロさん。今日は、わたしの個人的な注文ですのでお知らせしなかったんですよ」
「個人的な?」
……ジネットがアッスントに?
「俺らに内緒で美味いものを独り占めしようと……」
なんてことだ。ジネットがそこまで食い意地の張った娘だったなんて……
「えっと…………な、なんでやねん」
「「えっ!?」」
ジネットが……コテコテのツッコミを!?
「あ、あの、アッスントさんの真似を…………すみません、ガラにもないことを……」
「あの、私は一体どういう目で見られているんでしょうか?」
アッスントが複雑な表情を見せる。
だが、そんなことよりもだ!
「ジネットはおっぱいとパンツのことにしか突っ込まないんだと思ってた」
「そんなことないですよっ!?」
あ、こういうのはすんなり出てくるんだな。
やっぱ、ツッコミって狙ってやるとダメだよなぁ。自然体でいかないと。
…………なんの話だよ。
「あ、あの。実はですね」
ジネットがやや慌てた感じで話題の転換を試みる。
弄られるのがちょっと恥ずかしいんだろうな。
「コーヒー豆を、持ってきていただいたんです」
「コーヒー豆?」
コーヒー豆なら、まだまだ大量に倉庫に残っている。
たしか、需要が少ないから大口購入しか出来ないと言っていたはずだ。だから毎年使い切ることなくダメにしてしまうと。
それを、なんでこのタイミングで?
「その……今日は、お祖父さんの命日なんです」
「あ……」
今日……なんだ。
「それで、毎年この日は新しいコーヒー豆を買って、それでお祖父さんと一緒に、一番最初のコーヒーを飲もうって決めているんです」
ふわっとしたジネットの笑顔は、なんだか、これまでに見たことがない表情のような感じがして、俺は何も言えなかった。
俺の知らない時間の話だから、かな?
当然だが、ジネットには俺と出会う前の過去がある。俺の知らない時間を生きてきた思い出がある。
そこは、誰も侵せないジネットだけの領域で、俺が踏み込んでいい場所ではない。
ない…………なのに。
「もし、よかったら。ヤシロさんも、一緒に飲んでいただけませんか?」
ジネットはこうして、俺をその領域へと招き入れてくれる。
「今の陽だまり亭があるのはヤシロさんのおかげですし、お祖父さんにきちんと紹介しておきたくて……あ、いえ、そんな深い意味はなくてですね……その…………もし、よろしければ」
「……ん。分かった。いただくよ」
「ホントですかっ! では、早速準備してきますね!」
手と手を合わせ、嬉しそうに破顔する。
「あ、アッスントさん。どうもありがとうございました」
「いえいえ、毎度ありがとうございます」
ぺこりと礼を交わし、ジネットは大きなコーヒー豆の袋を抱えて厨房へと入っていく。
それくらい手伝おうかとも思ったのだが……なんだか、この最初のコーヒーを淹れるための行為は、どこか侵しがたい神聖な儀式のような、ジネットにとってとても大切なことのような気がして……手を出すことが躊躇われた。
「あんなに楽しそうな顔をされていたのは初めてですね」
聞いてもいない情報を、アッスントが寄越してくる。
なんだか、含みのある言い方だ。
「お前のことが嫌いだったんじゃないか、去年までは」
「ほほほ……その可能性は否めませんね」
心底おかしそうに笑って、でも、やはりどこか含みのある言い方でこんなことを言う。
「けれど、もっと違う理由があると、私は思いますけどね」
「……ふん」
お前の言わんとするところを言外で理解しようとすればきっと出来るだろうが、悪いな、今は徹夜明けで頭を使いたくないんだ。察してなんかやらないからな。
「ふふ……酷い顔ですね」
逸らした俺の横顔を見つめ、アッスントが言う。
「……うるせ。生まれつきだ」
「おや、そうなのですか? 普段はもう少し整ったお顔をされていると思っていたのですが……これは認識を変える必要があるかもしれませんね」
「ふん」
うるせ……言外に意味を含ませんなっつの。
お前との会話は頭使って面倒くさいんだよ。……ったく。お節介焼きが。
『ジネットさんは去年よりずっと明るくなりましたね。この一年で心境が変わるようなことが何かあったのでしょうね。さぁ、それはなんでしょう?』とでも言いたいんだろう。
そして……『だというのに、あなたはどうしてそんな酷い顔をしているんですか』と。
…………うるせ。
「さて、ではそろそろお暇させていただきましょう」
「人気のない暗い道には気を付けろよ。俺に刺されないように」
「ほほほ……そうですね。最近出来た親しい友人との楽しいおしゃべりを、もう少し長く楽しんでいたいですからね。気が合うのですよ、彼とは。昔は大の苦手でしたのに……不思議ですね」
くすりと笑い、荷車を押して裏口から外へと出ていく。
扉を閉める直前、アッスントはこんな言葉を残していった。
「この世に変わらないものなんて、おそらく存在しないのでしょね。けれど……それに対し『変わらないでほしい』と願う心は……きっと変わることはないのだと思います。では、よい一日を」
言いたいことを言って帰っていく。
なんなんだよ、ったく。
変わらないものはない……確かにそうなんだろうな。
けどよ……
「……変われないヤツってのは、いんだろうがよ」
たとえば、……ここに一人な。
裏庭のドアに施錠をし、俺は厨房へと入る。
厨房の中には、香ばしいコーヒー豆の香りが立ち込めていた。
それから、俺は食堂へ行き、椅子に座ってコーヒーが出来るのを待った。
誰もいない、静かなフロアで一人……俺は俺の知らない陽だまり亭に思いを馳せる。
祖父さんがいて、幼いジネットがいて……その頃の常連客がここでコーヒーなんかを飲んでて……
そんなことを考えながら、俺はゆったりとした時間に身を委ねていた。
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