「あー! おにーちゃーん!」
脇目も振らず滝へと直行した俺を出迎えたのは、バスタオル一枚だけを体に巻きつけた、妹だった。
「おねーちゃーん! おにーちゃん呼んできたー!」
「えらいー! ほめてつかわすー!」
「妹じゃねぇか!?」
「ん? ウチのおねーちゃんやー」
「ウチのおとうとやー!」
「いや、ハム摩呂から見たらお姉ちゃんなのかもしれねぇけどさっ!」
お前らが「おねーちゃん」って言うと、ロレッタかと思うだろうが、普通!?
「おねーちゃん、はしたない格好やー」
「お嫁に行けなくなった、瞬間やー!」
「行け行け! お子様の裸なんか物の数に入るか!」
しかもバスタオル巻いてるしな! ノーカンだノーカン!
こんなもんで喜ぶのはハビエルくらいのもんだ!
「…………疲れた」
大量分泌されていたアドレナリンが一瞬で蒸発して体内から消失した気分だ。
疲労感がどっと体内から押し寄せてきた。……あ、心臓ヤバイ。破裂する。……吐く。
「おぃい! ヤシロぉ! あたいを置いていくなよなぁ…………って、どうしたんだ?」
「悲しい現実との、ご対面やー!」
「ん? あれ? 妹じゃねぇか。ロレッタは?」
「おねーちゃん、陽だまり亭ー!」
そうだよな!
だって、教会の飯から帰った直後にデリアが来てそれからいろいろしてたから、そろそろロレッタが陽だまり亭に出勤してくる時間だ。
ここにいるわけないんだよな!
ちょっと考えたら分かったことなのに、チキショウ!
「ぬゎぁああっ!?」
俺が、ちょっと立ち直れないくらいの脱力感に襲われて地面と睨めっこをしている横で、デリアが腹の底からの絶叫を上げる。オメロが聞けば、マンドラゴラの十倍の確率で魂を抜かれてしまいそうな絶叫だ。
「ヤ、ヤシ、ヤシロッ! あ、あれっ! あれ見ろ、あれぇ!」
乱暴に肩を掴まれ、揺すられ、体をぐわんぐわん揺さぶられながら、俺は重たい頭を持ち上げてデリアの指さす先に視線を向ける。
「…………えっ?」
そこには、ちょっとばかり信じがたい光景があった。
「……マジで、滝が、ない」
ハム摩呂の話は大袈裟でも誇張されたものでもなんでもなく、本当に、滝が消失していた。
言っても、水量が「落ちたなぁ」くらいの、細くなった滝があるのだろうと思っていたのだが……
滝は、完全に止まっていた。
「ヤシロ……これ、ど、どど、どう、なってんだ? あたいに分かるように説明してくれ」
そんなこと言われても、俺にも状況が分からないのだ。説明など出来るはずが……
「ヤシロォー!」
ニュータウンに、エステラの声が響き渡る。
切迫した、真剣な声が。
「エステラだぞ、ヤシロ。なんかあったのかな?」
「……だろうな」
こちらに向かって駆けてくるエステラの手には、高級そうな羊皮紙が握られている。
俺は立ち上がり、デリアも背筋を伸ばす。ただ事ではない空気を肌で感じたのだろう。
ハム摩呂と、バスタオル姿の妹が俺の腰に縋りついてくるほどに、エステラの表情は鬼気迫るものがあった。
「大変なことになったよ……っ!」
乱れる呼吸もそのままに、ほぼ瞬きもしないでエステラは言う。
握られた書簡には、見たこともないエンブレムが描かれていた。
「本当は、領主間のいざこざは、ヤシロに頼らずにボクだけで乗り切ろうと思っていたんだけど……」
そんな前置きと共に差し出された書簡に目を落とす。
デリアも覗き込んでくるが、目が滑るのかすぐに顔を上げて俺の横顔を見つめることに徹したようだ。
「…………なんだ、これ?」
どこに向けていいのか分からない、怒りにも呆れにも驚きにも似た感情がヘドロのように噴き出して喉に詰まる。
言葉が出てこない。
なんだこれ?
どういうことだ?
「な、なぁ! ヤシロ、エステラ! 何があったんだよ?」
デリアに急かされるも、俺自身この状況がのみ込めない。
ここに書かれている言葉がにわかには信じられず、すぐには説明が出来なかった。
「あのな、エステラ! 今ヤシロは、あたいとハム摩呂のお願いを聞いて、なくなった滝をなんとかしようってしてくれてるんだ! すごく重要で、すごく急ぎなんだよ! 面倒を持ち込むのは後にしてくれねぇかなぁ!?」
「その点だけは心配ないよ、デリア……」
今にも倒れそうな、覇気のない声でエステラが言う。
口元が微かに震え、乾いた笑みが浮かんでいる。
「ボクの持ち込んだ面倒ごとも、この滝のことだからさ……」
「へ? 滝がなくなったことと、関係あることなのか?」
「関係あるどころか……」
あまりにも意味不明で、解決の糸口が見えない時、人は笑みを漏らすことがある。
今はまさにそんな時だ。
「二十九区から通達が来たんだよ。まぁ、正確には、二十九区を含む領主たちの連名だけれどね……」
エステラの声が、歪に震える。
俺も、笑っちまいそうだ……だってよぉ――
「二十九区にある川を、水門で堰き止めたらしい」
「はぁっ!? なんでだよ!?」
その堰き止めた理由ってのがよぉ――
「『四十二区が異常気象を引き起こし、水不足を招いたから』……だ、そうだ」
――そんな、意味不明な理由なんだからよ。
「……ぇ、え? どういう、ことだ?」
デリアの視線がエステラからこちらに向けられる。
だから、俺はここに書かれている、『四十二区が異常気象を引き起こす原因となった愚行』とやらを読んで聞かせてやる。
「『四十二区が【打ち上げ花火】なる兵器を使用し、空への集中砲火を行ったため雲が消失し、此度の旱魃が引き起こされたものと認定し、これによる損害賠償を求める』……だそうだ」
「花火……って、あの、花火か?」
ウェンディたちの結婚式の時に俺たちが盛大に打ち上げた花火。
あれのせいで雲が焼き払われたと、こいつらは言うのだ。
その結果、この旱魃が引き起こされたと……
それを賠償しろと……
脅しではないと証明でもするためか、水門まで閉じて川を堰き止めたと……
「…………バカなんじゃねぇの、二十九区?」
それは、俺にしては珍しく、心から漏れ出した言葉だった。
素の感情を他人にさらすなんて、詐欺師にはあっちゃいけないことなんだが……
「明日の午後、二十九区まで話を聞きに来いって、向こうは言ってきているんだ」
「まぁ、言われなくても殴り込んでやりたいところだが……」
「ヤシロ……」
エステラが申し訳なさそうな表情を見せる。
どこか悔しそうでもあり、ほんの少し泣きそうだ。
「力を、貸してくれないかな。今回の相手は本当に厄介なんだ」
書簡には、七人の名前と共に『BU』というマークが刻印されていた。
『BU』?
さっきエステラは「二十九区を含む、領主たちの連名」だと言った。連名…………連盟?
「……また、ヤシロを巻き込んでしまうことになるけれど……花火のことは君の方が詳しいし……絶対に失敗できない交渉になりそうだから……だから……」
拳を握り、唇を噛みしめて、エステラが苦しそうに言葉を紡ぐ。
……アホめ。
「今さらだろ。水車の時なんか、完全に丸投げだったじゃねぇか」
「あれはっ、……だって、四十二区のみんなはヤシロのこと好きだし、いざとなればボクの力でいくらでもカバー出来ると思ったから……」
けれど、今回俺を巻き込もうとしている事案は、こちらを敵視したいやらしい連中であり、いざという時に手を打てない可能性の高い不透明な交渉だと、そういうわけか。
エステラは、領主の座に就いて以降、領主間の交渉に関して俺を頼ることはほとんどなかった。
領主になり、己の職務に真正面から向き合っていると、ナタリアから聞いたことがある。
俺に声をかける時は、本当にどうしようもなくなった時。
自分の意地なんかより、四十二区の領民を最優先に考えて、そうするのがベストだと判断した時だけだ。
もしかしたら、エステラは足漕ぎ水車くらいは思いついていたかもしれない。
ウーマロが、「二十九区には水車がある」と言っていたからな。エステラなら、それを見たことがあっても不思議ではない。
その上で、困った四十二区の連中を救うのに俺を担ぎ出した。
いつものように「さぁ、お手並み拝見」というスタンスで。
……こいつの魂胆なんか、俺にはお見通しなんだがな。
どうせお前はあれだろ?
四十二区の住民を俺が助ければ、俺の株が上がる。砕けた言い方をすれば、俺のことを好きになる。
俺が領民に好かれれば――もう勝手に俺が四十二区を出ていけなくなる。
ジネットたちだけじゃなく、もっと多くの者を大切に思うようになれば、俺の足はここから離れにくくなる……なんて、そんなことを考えてるんだろう。
そうやって人に気を遣って……俺に気を遣って……、限界まで一人で踏ん張って、いつもふらふらになってんだろ?
アホめ。
「手遅れになる前に助けを求めたことだけは評価に値する」
「う……なにさ、その言い草は……」
もっと気楽にやれっての。この新米領主。
最初からなんでもかんでもうまくいくと思うなよ。
うまくいくようになるまでは、多少の無茶は聞いてやるよ。
四十二区が脅かされると商売どころじゃなくなるし、俺の利益が減るからな。
それに……
まぁ、お前も、結構『大切なヤツ』だったり、するしな。
「この書簡を読んだだけで嫌ってほどに感じたんだが……」
手にした書簡をぴらぴらと揺らし、警告は発しておく。
「こいつら、俺らから搾取するつもりだぞ。ありとあらゆる脅しをかけて」
「……うん。だと思う」
なら、エステラ一人では不安だ。
こいつは、他の領主と違ってからめ手を不得手としている。
いつもまっすぐ、誠心誠意、実直に対応するしか出来ない甘ちゃんだ。
ジネットに負けず劣らず『カモい』んだよ、お前は。
「どんな連中かは知らんが……」
堰き止められた滝の、そのもっと向こうへと睨みを利かせる。
胸を張って、腕を伸ばして二十九区を指さして宣言する。
「買ってやるぜ、このケンカ。俺を敵に回したことを、後悔させてやるっ!」
久しぶりに……しゃぶりつくしてやろうじゃねぇか、カモ共を、骨の髄までな。
「……ヤシロ、顔が悪の親玉みたいだよ」
「失敬だな」
「事実を述べたまでだよ。……けど」
まだ硬さの残る笑みが俺に向けられる。
「そんな顔を見てホッとしてしまう、ボクも大概だけどね」
肩をすくめて笑うエステラ。
少しは、不安が晴れたようだな。
さて……どうしたもんかな。この案件。
「なぁ、ヤシロ……あたい、今の話さっぱり分かんなかった。けど、気を引き締めなきゃいけないことが起こったってことだけは分かった」
「あぁ……あとでお前にも分かるように噛み砕いて話してやるよ」
デリアの表情が引き締まる。
川のこととなれば、デリアは他人事ではない。
今のデリアの表情からは、鬼気迫るものを感じる。
にもかかわらず、俺の腰回りからは緊張感のない声が聞こえていたりする。
「おにーちゃん、あたしまだすっぽんぽんー!」
「服着ろ、風邪引くから」
「着てるー! お気にの、服やー!」
「うん、お前のことじゃないんだ、ハム摩呂」
「はむまろ?」
「……ところで、ヤシロ。このカオスなメンバーは、何チョイスなんだい?」
俺がチョイスしたんじゃねぇわ。
とりあえず、妹はハム摩呂と一緒に家に戻らせて、エステラとデリアを引き連れて陽だまり亭に戻ることにした。
ちょっと飯でも食って、一度状況を整理したい気分だ。
堰き止められた滝をもう一度見て、俺たちはニュータウンを後にした。
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