「やほ~☆ ヤシロく~ん、店長さ~ん! 来ちゃった☆」
「マーシャなら大歓迎!」
よかった!
心底よかった!
アッチじゃなくて!
「こら、マーシャ。尾ひれをバタバタさせんなよ。水が飛ぶだろう? あたいが床を拭いたんだぞ。汚すなよなぁ」
「だぁ~ってぇ、みんなに会えて嬉しいんだもん☆」
マーシャの水槽を押していたのはデリアだった。
跳ねた水が床を濡らすのを嫌そうに見ている。
デリアもそういうことを気にするようになったか。一応成長しているようだな。
「それはそうと、ヤシロ君」
マーシャが水槽の縁に腕を掛けて俺の顔を覗き込んでくる。
からかうように瞳がゆるっと弧を描く
「もう一人、お客さんがいるみたいだよ~☆」
「まさか、今度こそ!?」
一度油断させておいて真打ち登場――みたいなパターンか!?
と思ったら、デリアの後ろから店に入ってきたのはベルティーナだった。
「今回、ハズレなし!」
思わず精霊神に感謝を捧げてしまった。
こういう日もあるんだね!
ようやく気付いた? 俺の日頃の行いに!
俺、割と日頃の行いがいい系男子なんだよ!
が、その場の空気はそんなお気楽な雰囲気ではなかった。
ベルティーナは少し深刻そうな顔でずいっと進み出て、無言でジネットの前に立つ。
そして、静かに腕を上げてジネットの頬に手を添える。
「……え? あの、シスター?」
「…………よかった。顔色はそれほど悪くないようですね」
ほっと息を漏らしたベルティーナに、ジネットははっと息を飲む。
「すみません。ご心配をおかけしましたか?」
そういえば、ジネットは理由を付けてドーナツ祭りへの参加を見送ったのだった。
ガキどもを納得させるためにでっち上げた理由だったが、ベルティーナにはその不自然さが堪らなく不安に感じられたのだろう。
こうしてジネットの様子を見に足を運んでしまうくらいに。
「あの、シスター……実は」
罪悪感に苛まれ、ジネットが正直に告げる。
不参加の理由。
そして、心配をかけてしまった謝罪を。
「もう……そんなことで心配をかけないでください」
「申し訳ありませんでした……」
「けれど、取り越し苦労でよかったです。あなたはいつも無理をしますから」
「そんなことは…………ありがとうございます、心配してくれて」
うふふと、静かに笑いを交わす母娘。
反省と許しがあったので、わだかまりは残らないだろう。
「ですが、ジネットもそういうことを気にするようになったのですね」
「気には、……以前からしていましたよ。これでも、女の子ですから」
「あなたにいい変化をもたらしてくれるよき友人に、恵まれたのですね。感謝を忘れてはいけませんよ」
「はい。素敵な方に、恵まれています。たくさん」
そうして、この場にいる全員の顔をゆっくりと見回すジネット。
この場にいない者の顔も思い浮かべているのだろう。ドアの向こうにしばらく視線を向けていた。
「私も、少し興味が湧いてきました。デリアさんの体操教室に」
「シスターが、ですか?」
驚いて目を丸くするジネット。
デリアはくっと唇を持ち上げてベルティーナに向かって手を広げる。
「じゃあ、シスターも一緒にやろうぜ。ヤシロが考えたヤツだから、シスターでも一緒に出来るよ。なぁ、ヤシロ?」
「まぁ、そうだが……その格好じゃ無理だぞ?」
ベルティーナは今日もシスター服を身に纏っている。
それで運動は無理だ。
「大丈夫です。運動会の時の服がありますから」
ブルマだぁー!
「長袖と長ズボンもいただきましたし」
俺が両腕を振り上げた直後に、そんな無慈悲な言葉が追加された。
……なぜ?
袖とか、裾とか、この街には必要ないんじゃないかなぁ?
「ヤシロさん。易しい運動にしてくださいね」
にっこりと笑うベルティーナの目は、運動の易しさだけでなく「おかしなことはしないでくださいね」というお願いも含まれていた。
決して逆らえない類いの『お願い』だ。……脅迫と言うと思います、そういうの。
「私もやる~☆」
「やるー!」
マーシャとハム摩呂が同じような顔で両腕を振り上げる。
え……精神年齢同級生? そういえば発想がちょっと似てる。
「ちょっと待つです、ハム摩呂」
「はむまろ?」
「あんた、何をやるか分かって言ってるですか?」
「分かんないー!」
「じゃあやめとくです。あんたはあたしと一緒にお店を手伝うですよ」
「そういうの得意ー!」
その場のノリで腕を振り上げたハム摩呂だったが、ロレッタに説得されて陽だまり亭に残ることになった。
体操教室の時間も営業中だからな、その方がいいか。ハム摩呂にダイエットが必要だとも思えないし。
マーシャにも必要はないだろうが、本人が参加したそうだから連れて行ってやるか。
あ、そうだ。その前にこいつにも聞いておこう。
「なぁ、マーシャ。海に伝わるオバケの話って何かないか?」
「おばけ?」
これまでの話とハロウィンに関して説明し、仮装に向きそうなオバケの情報を集めていることを伝えると、マーシャは両目をキラッキラに輝かせて身を乗り出してきた。
「人魚はどうかな!?」
「人魚はオバケじゃないだろう……」
「でもね、ずっと昔は人間にとってオバケみたいなものだったんだよ、人魚って」
「そうですね。海で人魚に遭遇すると船と沈められる――そんなお話を聞いたことがあります」
マーシャの話を肯定したのはベルティーナだった。
すごく昔にそういう話を聞いたことがあるらしい。
人魚と人間が和解したのって、相当昔の話だったと思うんだけど……どれくらい前に聞いたんだろうな、その話。
相~当~昔のはず……あ、ベルティーナの目が据わり始めた。考えるのやめよう。
「私ね、子供たちが人魚の仮装してくれると嬉しいかも☆」
「俺としては大人が仮装してくれた方が嬉しいかも☆」
「ヤシロさん……手つきが……」
素直な気持ちが腕に表れてしまったらしい。
モリーがちょっと引き気味な顔で指摘してくれた。
だって、ホタテをさ、こう、ぽぃ~んとしたところにペタってさ。
「あとは、海坊主とかセイレーンかなぁ? どっちも船乗りに怖がられている海のオバケだよ☆」
俺が、自分の知っている海坊主とセイレーンのイラストを描くと「わっ、かわいい~☆」とマーシャが嬉しそうに笑う。
似ているかどうかは分からないらしい。見たことがないからと。
獣人が当たり前にいるこの世界でも、海坊主やセイレーンは架空の生き物なのだそうだ。
ドラゴンはいるらしいのにな。
「あ、あと、幽霊船。骸骨船長とか、幽霊海賊とか」
「そういう話はこっちでもあるんだな」
「あるある。靄がかかった海の上で目撃したってお話がい~っぱい」
海上では靄や蜃気楼が出やすい。
そういう中で幽霊船の話が生み出されるのは至極当然のような気がした。
それらもイラストに描くと「こういうのは男の子が好みそうですね」とベルティーナが微笑む。
「ベルティーナ。教会には何かないか、オバケの話」
「そうですね……」
アゴに指を添えて数秒考えた後、何かを思いついたようにぱっと表情を輝かせる。
そして、笑みを抑えきれないような顔で話を聞かせてくれる。
「子供たちにとって、最も怖いオバケがいます」
「どんなオバケだ?」
俺が問うと、ベルティーナはチラッとジネットに視線を向けて、いたずらっ子のような笑みで教えてくれる。
「子供たちが寝ている間に、布団の上に地図を描くオバケです」
「地図……水で、か?」
「はい。起きたらお布団がべちゃべちゃで、子供たちはそのオバケに会うのを一番怖がっているんです」
そこまで言った後、「ね、ジネット?」と、ベルティーナが笑みを向けると、ジネットは「……知りません」とほっぺたを膨らませた。
ジネットも出会ったことがあるらしい。そのオバケに。
「そういえば、教会の厨房にはいつでもお湯が沸かせる準備がしてあったっけな」
「もう……知りませんもん」
ジネットが膨れて、ベルティーナがくすくすと笑う。
確かに、ガキどもにとっては怖いオバケだろうが、仮装するヤツはいそうにないな。
今のジネット同様、認めたくないだろうしな。
自分がそのオバケに出会ったってことを。きっと避けられるだろう、この仮装は。
「むぅ! シスターには、ヤシロさんから『もったいなぁ~いオバケ』のお話をしてもらいます! 怖がってください」
「いや、ジネット。たぶん、ベルティーナはそのオバケの仲間だ」
食べ物を残すなんてもったいないって発想は共通しているだろうしな。
ベルティーナに催促されて、もったいなぁ~いオバケの話をしたりしているうちに、窓の外はどんどんと赤みを増していき、気が付けばデリアの体操教室の時間になっていた。
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