会場に広がった不穏な空気は、あっという間に破裂して怨嗟の声となって押し寄せてきた。
激しい怒りの感情と、聞くに堪えない罵詈雑言が会場を埋め尽くす。
メドラさんの訴えにも、不満の声は収まらず、ボクはどうしていいのか分からずにただ立ち尽くしてしまった。
不安が膨れ上がり、思わずヤシロを見た。
ヤシロは、不気味なほど静かに佇んでいて、その顔は――無表情だった。
ダメだ。
ボクがなんとかしなければ。
不満はあるだろうけれど、きっと話せば分かってくれる。
そうさ。この大会は、事前に三区すべてが合意して開催されたものなんだ。
第五試合にしても、双方が納得した上で行なわれたもので、やましいところは一つもない。
だから、きちんと言葉で訴えれば――
リカルドを避けてこじれてしまった関係性も、きちんと腹を割って話し合えば修正できたんだ。
こんな大きな大会を開催できるまでに良好な関係を築けた、築き直せたんだ。
だからきっと、ちゃんと話をすれば分かり合えるはずだ。
「さっきの試合は、双方が納得した上で……」
しかし、懸命に訴えかけてもボクの声は届かなかった。
そればかりか、火に油を注ぐが如く怒号は勢いを増していく。
「黙れ卑怯者!」
「反則するような連中の話なんか聞けるか!」
聞く耳を、持ってもらえない。
「いい加減にしないかい! さっきの試合は、双方が納得して行い、正々堂々戦ったんだ! 誰に何を非難されるいわれもない! どっちもウチのギルドの人間だ! 不正なんかしてないと、責任者のアタシが保証してやるよ!」
轟雷と呼ばれるメドラさんの怒号にも、観客たちは怯まない。怒りは沈静化せず、むしろ燃え上がり、理解の及ばない方向へと逸れていく。
狩猟ギルドも負け?
だから、四十一区の領民が勝ち?
それは一体、どういう理論なんだい?
いつ、君たちが戦いの場に上がったのさ?
それなのに、結果を捻じ曲げて勝利を手にしたと主張するのは……理解が及ばない。
それでも、観衆は自分たちが正しいと信じて疑わない。
めちゃくちゃな理論であることは明白なのに、振りかざすのをやめない。
正論が暴論に塗りつぶされていく。飲み込まれていく。
そんな恐怖に、ボクは――
愚を犯す。
困り果てて、自分ではもうどうしようにもなくなってしまって……助けてほしくて……ボクは……ヤシロを見てしまった。
ヤシロと出会ってから、ずっとそうしてきたように。
さもそれが当たり前かのように。
ボクは、ヤシロを頼ってしまったんだ。
『お願いだよ、ヤシロ。この状況をなんとかしてほしい』
そんな甘えたことを、考えてしまったんだ。
「全員を下がらせろ。ここを広く開けてくれ」
その声は、とても落ち着いていて、確かな勝算があることを窺わせた。
いつものヤシロだ。
ボクが考えもつかないような方法で、どんな困難もひっくり返し、解決してきたいつもの頼もしいヤシロの声だった。
なのに、この時のボクは……
「…………」
そのヤシロの顔に不安を覚え、一言も、たったの一音も声を発することが出来なかった。
ヤシロが、まるでヤシロじゃないような……
ボクの知らない…………いや、違う。ボクはこの顔を知っている。
でも、どこで……
そんなことを考えているうちに、ヤシロは一人で矢面に立った。
隣にリカルドがいるけれど、敵意と憎悪はヤシロにのみ向けられている。
離れた場所で見ているだけで背筋が冷える。
あれだけの怨嗟を向けられて、どうして平然と立っていられるのか……
ヤシロは、どうして平気なんだろうか……
ヤシロが特別だから?
ボクが、弱過ぎるだけ、なのか?
ボクが、ヤシロみたいに強くなれたら……
けれど、そんな考えは頓珍漢で、てんで的外れで……
ボクは、心底自分の浅慮に嫌気が差した。吐き気がした。呪いすらした。
ヤシロは強い。
けれど、決して平気なわけじゃない。
なんだって出来るわけじゃない。
特別なわけじゃない。
ヤシロだって、一人の人間なんだ。
ただ、どうしようにもなく、優しくてお人好しなだけなんだ。
リカルドに土下座をさせ、虫けらを見るような目でそれを見下ろすヤシロを見て、ボクはようやくそこに思い至った。
あぁ、あの顔は……
ヤップロック一家を切り捨てようとした時に見せた表情だ。
ジネットちゃんをあの一家に関わらせないようにと、ワザと悪役を買って出て……あの時はボクも頭に血が上って反論をしたけれど、結局ヤシロがいなければヤップロック一家を救うことは出来なかった。
生活能力のない家族を無限に受け入れ、恒久的に援助するなんて不可能なことだ。
それを理解した上で、『見捨てる』という重荷をジネットちゃんや……ボクに背負わせないために見せた、彼らしくもないあくどい表情。
あれにそっくりだった。
「お前さぁ、若いっつってりゃなんでも許されると思ってんじゃねぇの? 領主になって何年だよ? 何か成果出したのか?」
ヤシロは、意味もなく他人の尊厳を傷付けるような真似はしない。
それは、ともすれば己に牙を剥く諸刃の剣だと知っているから。
ヤシロがそういう態度を取る時は、相手をへし折らざるを得ない時か、もしくは――牙を剥く刃を待っている時。
今なら分かる。
お人好しなヤシロは博愛主義者のように見えるけれど、決してそうではない。
利己的に見せて、誰も彼をも救っているようで、実はそうじゃないんだ。
ヤシロの中には、確固たる優先順位が存在する。
ありがたいことに、ジネットちゃんや陽だまり亭、そしてボクはその中でも順位が高いからそんな勘違いをしてしまったんだ。
『ヤシロはいい人』だなんて。
けれど、ヤシロは大切な者を守るためならどこまでも非情になれる。
優先順位の低い者を平気で切り捨てる潔さを持っている。
そして、その優先順位の中で、最も低いところに位置付けられているのが――ヤシロ、君自身なんだね。
ヤシロは、他のどんなものよりも、一番自分を大切に思っていない。
自分には、価値がないと思い込んでいる。信じ込んでいる。なぜか、そう確信しているんだ。
だから、こんなにつらい場面で、あんなことが出来るんだ。
数百人に及ぶ他人の敵意を一身に受けるなんて、それを増長させて憎悪を他に向けさせないように犠牲になるなんて……普通の人間には出来っこない。
ヤシロ……もう、いいよ。
もういいから……もう、やめてくれ。
これ以上君が傷付く姿を、ボクはもう見たくない。
それなのに、臆病者のボクは、たったの一言も発することが出来ない。
矢面に立つ彼のそばに駆け寄って寄り添うことも出来ない。
そんな意気地のないボクのせいで、ヤシロにあんな言葉を……言わせてしまった。
「テメェらバカ親子が何十年かかって出来なかったことを、この街に来て一年足らずの『他所者』のこの俺が、たった数週間で作らせたものだろうが! 違うのか!?」
全身をめぐる血液が凍りついた。
寒くて、寒くて……死にそうだ。
『他所者』
それはきっと、ボクたちとヤシロを分ける言葉。
誰もそんなことを思っていない。そう断言はできるのに、おそらく誰の心の中にもわずかに残っていた感情。
『ヤシロは、他所からやって来てあっという間に街を変えてくれた』
それが好意的なものであろうとも、こうして言葉にされると……後ろ暗い感情を指摘されたようで、背筋が凍る。
そんなこと思っていないと、自信を持って否定できなくなる。
そしておそらく、ヤシロが抱えていた孤独の原因も、そこにあるのだろう。
領民になっても、どれだけの修羅場を共に潜り抜けても、ヤシロはボクたちとの間に一線を引いていた。
どうあっても踏み込ませてくれない壁を作っていた。
最近はその壁が無色に見えて、なくなったのだと勘違いしていただけだ。
「治水は? 食料の自給率は? 経済の基盤は? お前がどれか一つでも解決させられたか? 俺がやったんだよ。『他所者』の俺が! この短期間に、全部な!」
それは、ボクたちに向けられた言葉でもあるのかもしれない。
ヤシロは怒ってはいない。
けれど、自覚をしろとは思っているかもしれない。
ボクたちが、どれほどヤシロに頼ってきたのか。
どれほど甘やかされてきたのか。
それを、当然のことだと、勘違いしてしまっていたのか。
凍りついていた血液が、今度はぐらぐらと沸騰し始める。
全身を引き裂かれるような痛みが走り、抗えない苦痛が全身を蝕み、瞳に涙が浮かぶ。
けれど、泣いていいのはボクじゃない。
本当に泣くべきは、ヤシロだ。
ボクは、この場所で泣く資格を有していない。
涙なんかで、自分の罪をほんの少しでも軽減していいわけがない。
彼が受けるはずだった痛みは、このボクが一身に背負うべきものだったのだから。
「あぁ、うるせぇ……お前らもうカエルになれや」
どうして、ヤシロが憎まれなければいけないのか。
「オオバヤシロォ!」
どうして、ヤシロが殴られなきゃいけないのか。
「おい、そこの悪魔野郎! 領主様になんかしてみろ!? 俺がテメェをぶっ殺してやるからな!?」
どうして、ヤシロがそんなことを言われなきゃいけないんだよ……
悪魔? それは、こんな状況にいてもなお、口を噤み保身に走っている腰抜けのボクのことじゃないか。
ボクは、卑怯で、弱くて……最低だ。
おのれ可愛さに、一番大切なものを傷付けてしまっているのだから
このまま終われば、ボクは君の隣に立つ資格すら失ってしまう。
もう手遅れかもしれないけれど、こんな情けないボクなんかのことはもう見限っているかもしれないけれど……
それでも、ここで諦めるなんて出来ない。
ここで終わっていいなんて、どうしたって思えない。
「精々、温情に期待するんだな、負け犬どもが」
ボクは、まだ君を失いたくはないんだ。
「ちょっと待ってほしい!」
みっともない顔をさらしている。
涙が止まらず、鼻もぐずぐずで、きっと見るに堪えない顔をしていることだろう。
でも、もう二度と顔を逸らしたくない。
俯きたくはない。
たった一人でボクたちを守る盾になってくれたヤシロには、どんな自分も包み隠さずさらけ出さなきゃ、……そうでなきゃ、信じてもらえるはずがない。
「……ボクは、情けない」
こんな単純なことに気が付くのに、こんなにも時間がかかってしまうなんて。
「こんな時にまで……姿を隠し…………君に…………こんな役を…………」
大切な者を守れなくて……
他人の背中に隠れて、守られるばかりで……
何が領主代行だ!
何が「街のみんなのために頑張る」だ!
ヤシロは!
ヤシロだって、四十二区の人間じゃないか!
ボクがそれを認めてあげなくてどうするんだ!
「もう…………決めたから」
ボクには覚悟がなかった。
いつでも逃げ出せる安全地帯に留まり続けていた。
そんな自分とは、今この瞬間に決別する。
ヤシロが背負ってくれた重い責任に比べれば、これくらい、どうということはない。
「……もう、君ばかりに背負わせないから」
これからは、ボクが君を守るよ。
頼りないかもしれないけれど、ヘタクソなりに懸命に足掻いてみるよ。
今度こそは、君を失望させないように。
だから、もう一度チャンスをくれないかい、ヤシロ。
ボクの決意を、見ていてほしい。
「ボクは…………エステラ・クレアモナだっ! 四十二区の領主代行をしている」
その日、ボクは領主代行を離任して、領主になった。
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