「おや、どうされました?」
「ひっ!?」
外に出た途端俺がいたので驚いたのだろう、ひょろ男が悲鳴を上げる。
「お支払いはお済みで?」
笑顔で尋ねると、ひょろ男は額に汗を浮かべて視線をさまよわせた。
「見たところ、店主は奥に引っ込んだまま出てきてないようですけど?」
さらに問い詰める。と、ひょろ男は眉を吊り上げ、厳つい表情でこちらを威嚇してくる。
「お、お前には関係ないだろう」
背は高いが、ひょろひょろなので怖くない。
まぁ、暴れられると厄介ではあるが。
「関係ですか……」
言いながら、俺は胸ポケットをそっと押さえる。
ひょろ男の視線がそちらへ向かい、そしてギョッと見開かれる。
俺の胸ポケットには、エンブレムの判を押した紙が顔を出していた。
「実は、関係者なんだよな、俺」
口調を変え、俺が優位な立場であると暗に知らせてやる。
ひょろ男の額に浮かんだ汗は、ダラダラと滝のように流れ始めていた。
「い、いや。そ、そう! トイレだ! トイレに行こうと思っただけなんだ」
「じゃあ、案内してやるよ」
「い、いいよ、トイレくらい! ガキじゃあるまいし!」
「お前のために言ってんじゃないことくらい分かるよな?」
一分の隙もない笑顔で言ってやる。と、さすがのひょろ男も観念したのか、がくりと肩を落とした。
言い逃れは無理だと悟ったのだろう。素直でよろしい。
まぁ、もっとも。言い逃れをすればするほど自分の首を絞めることになっていたけどな。
この段階で認めたのだから、代金の支払いで勘弁してやろう。
観念したひょろ男を連れ、再度食堂へと戻る。
食堂の一番奥、壁際の席に壁に向かって座らせ、俺はその隣に腰掛ける。
視界を遮られ、自分のパーソナルスペースを侵されると、人は弱気になるものなのだ。今のひょろ男のように、悪事がバレた直後なら尚のことこたえるだろう。
悪徳商法の連中がこの手をよく使う。一番奥の席で壁に向かって座らせられたら要注意だ。
その上、紹介者以外の『権威のある大物』などというヤツが現れるのがセオリーとなっている。紹介者や知り合いがその『自称大物』の話を「うんうん」と共感するように聞き始めると、カモは「この『大物』の言うことは正しいに違いない」と錯覚を起こし、視界の遮断、パーソナルスペースの侵略と併せてあっさりと陥落してしまうのだ。
このように、『圧迫』や『権威』を利用してカモを『委縮』させるのは詐欺の常套手段で、どれだけ時代が変わっても一定の成功率を収めている。
それの応用とでも言えばいいのかな。
俺が真正面の席に座らなかったのは、視線が横に逃げるのを防ぐためだ。
ひょろ男にとっては四面楚歌に追い込まれた気分だろう。
「食った分の代金はきっちり払ってくれるな?」
「は、はい。それはもちろん……だけど、今は、その……」
「持ち合わせがない、と?」
「ま、まぁ……平たく言えば……へへ」
最初から食い逃げするつもりで来ていたと、白状しやがった。
俺は胸ポケットに忍ばせたエンブレム入りの紙を出し、ひょろ男の前に置く。
これで、ひょろ男の視線の逃げ場がもう一つ減った。俯けばエンブレムが目に入る。それは相当な恐怖だろう。
「じゃあ、支払いは後日でいいから、一筆書いてくれ」
「い、一筆って……?」
「住所と名前、それと『陽だまり亭で飲食した分の代金を支払います』とな」
「そんな、わざわざ書かなくっても……」
「お前の家や職場に取りに行った時、お前が留守でも請求できるように保証が欲しいんだよ」
「い、家や、職場に…………来る、ん……ですか?」
「きちんと払ってくれれば、その手間が省けるんだけどな」
「い、今から帰って持ってきます! だから……職場だけは……」
「その言葉を信じるために、一筆書いといてくれよ。でないと、帰すわけにはいかないからよ」
「…………………………分かりました」
ひょろ男はいろいろと考えを巡らせたようだが、結局了承し、俺の言う通りの文言を紙に書いた。
「名前や住所に虚偽があった場合、どうなるか……分かってるよな?」
「わ、分かってるよ! ……大丈夫ですよ、嘘なんか書いてませんって」
ひょろ男の名前は、グーズーヤというらしい。変な名前。
「じゃ、じゃあ、取ってきますんで! そしたらその紙、処分してくださいよ!」
「支払いが済めばな」
「絶対ですからね!」
そう言って、グーズーヤは食堂を飛び出していった。
それと入れ替わるように、ジネットが厨房から顔を出す。
「ヤシロさん。今のお客さんは?」
「金を忘れたから取りに帰るって」
「そうですか。ふふ……おっちょこちょいさんですね」
おっちょこちょいはお前だ。
まんまと食い逃げされかけやがって。
「ジネット。お前はいつも厨房で何をやっているんだ?」
「クズ野菜の下ごしらえです」
「ずっとか?」
「えへへ……食べられる状態にするのが大変なものが多くて……」
無駄だ。
実に無駄な労力だ。
「今後は普通の野菜を使うようにして、なるべく厨房へは戻らないようにしておけ」
「そうですね。普通の野菜でしたら下ごしらえも簡単ですし。お客さんと楽しくお話できますね」
論点がずれているが……まぁ、いいか。
話していれば食い逃げも出来ないだろう。
「で、ジネット。今日はまだ客が二人しか来ていないんだが?」
「ムムお婆さんは毎日お茶を飲みに来てくださるんですよ。ありがたいですねぇ」
「日に五人は来るんじゃなかったっけ?」
「そ、それは……日によります」
こいつ……
これは、来客数ゼロって日もあるな、こりゃ。
「きっと、今日だってもう一人くらいは来てくださいますよ」
そんな根拠のない希望的観測を述べるジネット。
バッサリと否定してやろうかと思った矢先、食堂のドアが開かれ一人の客が顔を見せた。
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