「それで、セロンさん」
と、セロンの後ろからナタリアが現れる。
ナタリアは『今日の午後頃にやって来るであろう』ルシアたちの出迎えのための準備をしていたらしいのだが……残念。ルシアたち、早朝からここにいるんだ。
「ならさっさと呼びにこいや、テメェそれでも私の主かよ」みたいな鋭い視線を一瞬だけエステラに向け、ナタリアはセロンに向き直る。
……エステラ。お前、「あ、そういえばナタリアに言うの忘れてた」みたいな顔してんぞ。言いに行ってやれよ。夢中でドーナツ食ってないでさぁ。
「その貴族という方に関して、質問があるのですが……その前にドーナツをいただきたいですね、私『も』!」
「マグダー! 大至急ナタリアにドーナツを持ってきてあげて!」
エステラが本気フォローに入った。
相当怒ってるらしいなナタリアは。
そりゃ、準備してたことが全部無駄になったばかりか、その準備をしている間にエステラだけ美味いもん食ってたんだもんな。……今日はせいぜいご機嫌をとっておけよ、エステラ。
「お代は、エステラ様個人のお小遣いから出していただきますので!」
「えっ!? 経費で落ちないの!?」
「落ちません!」
経費とかあんの……それとも、これも俺に分かりやすいように『強制翻訳魔法』が翻訳してくれてるのか?
「……へい、お待ち」
寿司屋の大将もかくやという言葉と共に、ふっくらと美味そうなドーナツを運んでくるマグダ。
一致してねぇぞ、言葉と商品が。
運ばれてきたドーナッツを一口齧り、ナタリアの口角がキュッと持ち上がる。
「美味しいですね。好きな味です」
素直な感想を述べる。
ナタリアは、何気にこういう女の子受けする食べ物が好きだったりするのだ。
味もさることながら、そういうオシャレなスイーツを食べているという雰囲気を気に入っているように感じる。
「ピーナッツバターを塗ると、さらに美味しくなるよ」
ナタリアを放置していたことを反省してか、エステラがナタリアの前にピーナッツバターを差し出す。
主従が逆転してんぞ、お前ら。
「エステラ様……」
「あぁ、いいよ。礼なんて。一応反省してるから、お詫びの印に、ね?」
「ドーナツはプレーンで食べてこそ、その味を堪能できるのです。このほのかに甘いドーナツにあからさまに甘いものを塗って食べるなど邪道です。ドーナツの神髄を理解していないと言わざるを得ない愚行ですよ」
何を我が物顔で語ってんだよ、ドーナツ初心者。お前、今初めて食ったところだろう。まだ一口じゃねぇか。
「とはいえ、試さずに拒否するのもまた愚かなこと……使用させていただきましょう」
バターナイフを器用に使い、ドーナツにたっぷりとピーナッツバターを塗りつけるナタリア。
生地に練り込んだりコーティングしたりというのは、何度か試行錯誤をしなければいけないため、今日はプレーンなドーナツに各自で塗ってもらうスタイルを採用している。
ゆくゆくは、表面にチョコやピーナッツバター、ハチミツなんかをコーティングして提供するつもりだがな。
「どうだい、ナタリア?」
黙々とドーナツを咀嚼するナタリア。
エステラの問いに、すぐには答えず、視線を向けてしばし無言で見つめる。
そして、ゆっくりと飲み込み、口の中に残った後味を十分に堪能した後で、ようやく口を開く。
「ピーナッツバターこそが、ドーナツの本懐」
言ってることが丸っきり変わってんじゃねぇか!
まぁ、美味いってことだと解釈しておこう。
ドーナツ一つをあっという間に平らげ、指についた油分をぺろりと舐めとるナタリア。
……くっ、そんな仕草が妙に色っぽいとか…………ナタリアのくせにっ!
「ナタリア。指を舐めるのははしたないよ」
「そうですか? ……では、ヤシロ様。『あ~ん』」
「はしたなさがグレードアップしたよ!?」
エステラが自分のハンカチでナタリアの指を強引に拭く。
だから、主従が逆転してるって、お前ら。
「それで、その、貴族という方なのですが」
ドーナツを食べて満足したのか、ナタリアが改めてセロンへと向き直る。
律儀に待っててくれたセロンに感謝しろよ、お前ら。俺なら途中で帰ってるからな。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「はい」
一度、ウェンディと視線を交わし、そしてセロンはゆっくりとその名を口にする。
「その方のお名前は、マーゥル・エーリン様です」
マーゥル・エーリン?
…………はて、どこかで聞いたことがあるような、ないような……
いや、エステラたち以外に貴族の知り合いなんかいないはずだし…………気のせいか?
「エーリン様。で、間違いありませんね?」
「は、はい」
ナタリアの鋭い声に、セロンは一瞬言葉を詰まらせる。
「エーリン……って、もしかして」
俺の隣で、エステラが声を漏らす。
こいつも聞き覚えがあるのか、そのエーリンってのに。
「はい。おそらく間違いありません」
「それはまた……なんというか…………すごいね」
すごい?
そんな大物貴族なのだろうか。
……いや、どうもそういう意味ではなさそうだ。エステラのあの表情は……
「『BU』絡みの人間なのか?」
エステラの表情から察するに、『すごい』偶然だと、言いたいのだろう。
俺たちが、今会うべき人物。それがきっと、マーゥル・エーリンという貴族なのだ。
「そうだね。『BU』絡みというより、もっと直接的に関係のある人だよ」
「ゲラーシー・エーリン様のお姉様のお名前が、たしかマーゥル様であったと記憶しています」
「ほぅ……ゲラーシーの」
「そう記憶している、私も。間違いない思う」
エステラの言葉を補足するように発せられたナタリアの言葉。
それに反応を示したのはルシアとギルベルタだった。
分かってないのは俺だけだ。
といっても、大方の予想はつくけどな。こいつらの顔を見れば……だが、確証が欲しい。はっきりと言葉にしてもらおうじゃないか。
「ゲラーシーってのは、どこのどいつだ?」
おそらく、面識のある相手であろうそいつのことを、少しの悪意を込めて尋ねる。
そんな俺の考えを察したのか、エステラが軽く肩を揺すった。
「ふふ……お察しの通りの人物だよ。でも、そうだね。あえて言葉にするのも悪くないだろう」
などと、不必要に長ったらしい前置きをした後、エステラははっきりと言った。
「ゲラーシー・エーリンは、二十九区の領主の名だよ」
ホント。すごい偶然だ。
敵の大将の身内に会えるなんてな。
「それじゃ、折角セロンたちが作ってくれた機会だ。会いに行くか」
「そうだね。この機会を活用させてもらおう」
俺とエステラは揃って立ち上がる。
さて、出かける準備を始めるか。
「僕たちも、ご一緒させていただけますか?」
セロンとウェンディが神妙な面持ちで申し出る。
こいつらを連れて行った方が話はスムーズに進むかもしれない。
「大歓迎だぞ、ウェンたん!」
……セロンだけにしよっかなぁ…………
はしゃぐルシアを見て、一気に気分が重くなる。
と、そこへ。
「出かけられるのでしたら、これを持って行ってください」
ジネットが戻ってきて、小さな包みを渡してきた。
「馬車の中で召し上がってください。セロンさんとウェンディさんも」
それの袋にはドーナツが入っていた。俺たちは昼を食べちまったが、きっとセロンたちは駆けずり回っていて食っていないだろう。そんな気遣いからの手土産なのだろう。
ドーナツも、二人が食べる分とプラスアルファくらいの、適度な量だった。
「悪いな」
「とんでもないです」
にっこりと微笑むジネット。
そそっと身を寄せ、俺にだけ聞こえるような声で呟く。
「早く、帰ってきてくださいね」
そうして、体を離すと今度は全員に向かって朗らかな声で言った。
「みなさん、お気を付けて」
俺にだけ「早く帰れ」とか……なんだよそれ。ちょっとドキドキしちゃうだろうが。新婚のサラリーマンじゃあるまいし……ったく。
「行くのやめよっかなぁ」
「いや、行くよ!? ほら、早く!」
エステラに腕を引っ張られて外へと連行される。
ちらりとジネットを窺うと、俺たちのやりとりを見てくすくすと笑っていた。
そんな笑顔にホッとする。
こうして、思いがけず強力なコネを手にした俺たちは再び二十九区へと向かうことになった。
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