ジネットがいなくなった陽だまり亭は、また一段と静けさを増した。
……この状況だけで、すでにちょっと怖い。
まぁ、イメルダがいるから、多少はマシだけどな。
「もうすぐマグダが帰ってくる。ちゃんと事情を話さないと心配させちまうから、それまでは待っててくれよ」
「分かっていますわ」
そう言って、またチビリと紅茶を啜る。
「……さすがに、今回のことは…………ワタクシもわがままを言っていると自覚していますのよ…………その、……申し訳ないと」
「まぁ、そう思っててくれるなら十分だよ」
わがままに振り回されるのは御免だが、心底困り果てているなら頼られることを嫌がったりはしないさ。
「…………ぅう」
突然イメルダがもじもじし始める。
静かな食堂に衣擦れの音が響く。
「どうした?」
「その……紅茶を飲み過ぎて…………」
「トイレなら行ってこいよ。ここの方が怖くないだろ?」
「ですが…………あの狭い空間に一人きりになるのかと思うと…………」
「……まさか、トイレの中までついてこいとは言わないよな?」
「い、言うわけありませんわっ! そこまで分別のない人間ではありませんのよ!?」
そりゃよかった。
「そんなお願いをするくらいでしたら、この場で漏らしますわっ!」
「おい、分別弁えろ」
こいつは、なんかいろいろ間違っている。
まぁ、父親があの親バカだからな。親を選べないってのは、不幸なものだ。
「……うぅ…………」
もじもじが速くなっている。……限界が近いんじゃないか?
「いいから行ってこいって」
「ですが……」
「ドアのすぐ前にいてやるから」
「い、いやらしいですわっ!?」
「じゃあどうしろっつうんだよ!?」
「……マグダがついていく」
「「うわぁぁあああっ!?」」
突然、音もなく背後に現れたマグダに、俺とイメルダは揃って悲鳴を上げた。絶叫だ。
……イメルダ、漏らしたんじゃないか?
「……アイム、ホーム」
「お、おかえり、マグダ。……すげぇ怖かったぞ」
「……ただいまのタイミングを、ちょっと失した」
……ワザとだろう、絶対。
「………………ぁ、無理ですわ。先にごめんなさいしておきます」
「マグダ、大至急イメルダをトイレへ連行しろ!」
「……あいあいさー」
マグダの迅速な強制連行によって、陽だまり亭は一大事を乗り切った。事なきを得てホッと一安心だ。
「……一晩…………普通に寝て『はい終了』……ってわけには、行かないんだろうなぁ」
そんな、漠然としたイヤな予感が胸の奥に渦巻いていた。
戻ってきたマグダに事情を説明し俺は出かける準備をササッと済ませる。
もちろん、トイレも済ませておく。
ここのトイレ以外使いたくないのだ。
イメルダの屋敷は、水洗らしいけどな。慣れてるところがベストだからな。
「……ヤシロが心配」
見送りに出て来てくれたマグダが、そんなことを言う。
自分もついていければいいのにと、そう漏らしていた。
だが、ジネットのこともあるし、マグダには陽だまり亭を守っていてもらいたい。
「今日だけだ。心配するな」
「……今日だけ、イメルダのおっぱいがしぼめばいいのに……」
「なんの心配をしてるんだ、お前は?」
大丈夫、間違いは、絶っっっ対起こらないから。
俺にだって分別くらいあるし、イメルダにしたってそういうのに慣れているわけじゃない。
何も起こりはしないさ。
「……イメルダのことだから、自分が寝るまでヤシロを離さない」
「まぁ、そうだろうな」
「……その後、馴染みのない広い屋敷で、ヤシロはただ一人きり…………」
「……え?」
「…………怖くて眠れないかもしれない…………心配」
背中に嫌な汗が浮かんだ。
…………そうか。そういうことになるのか…………
「だ、だだだ、大丈夫だよ。お、俺、疲れてるし。うん。すぐに眠れると思うし」
「……ヤシロ………………がんば」
まったく励みにならない応援をもらった。
……今さら嘆いても状況は変わらない。
「それじゃ、行ってくる。店とジネットを頼むな」
「……任せて」
ここからイメルダの家までの道が明るいってことだけが救いだな。
そうでなければたどり着くことすら出来なかっただろう。
「じゃ、行くか」
「えぇ。まいりましょう」
肩に重いものを感じながら、俺は歩き出した。
このズーンと重いものは、一日の疲れから来るものなのか、精神的なストレスなのか…………ま、両方だな。
きっと今日はぐっすり眠れる。
そう自分に言い聞かせて、俺はイメルダの家を目指した。
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