「もう心配いらへんで」
陽だまり亭の二階。マグダの部屋から出てきたレジーナは額の汗を拭いながらそう言った。
「お腹に深い傷があったけど、止血剤と痛み止めを処方しといたさかい、じきに良ぅなるわ」
レジーナは薬学以外に、少しだけ医学にも携わっていたらしく、傷の手当てを買って出てくれたのだ。
その間、俺はずっと部屋の外へと追い出されていた。
「いくら気絶しているとはいえ、マグダの裸体を君に見せるわけにはいかないからね」
レジーナの手伝いで室内に入っていたエステラが、手を拭きながらそんなことを言う。
狭い廊下で三人向かい合って話すのは狭い。……そろそろ部屋に入りたいのだが?
「しかし、意外だったね」
エステラが、少し嬉しそうな、若干意地の悪い笑みを浮かべて俺の肩を叩く。
「マグダが怪我したと聞いて、君があんなに取り乱すだなんて」
ウッセからの一報を受け、俺は何も分からずに薬箱だけを持って走り出していた。
どこに向かえばいいのか分からなかったが、とりあえず街門に向かえばマグダに会える、そんな気がして走り出したのだ。
レジーナの薬があれば傷だって治る。そう思い込んでいた。
冷静に考えれば、大怪我をした相手に素人が薬箱を持って駆けつけたところで出来ることなどないのだが……その時の俺は、まさしく気が動転していたのだろう。
きっと、ウッセの顔が真っ青だったのがいけないのだ。
ウッセの絶望的な表情を見て、その焦りが伝線してしまったのだ。たぶん。
「君も、同居人を大切に思っているのだと分かって、ボクは非常に嬉しいよ」
ニヤニヤと俺を見つめる目が気に入らない。
そんな目で見るな。……とは、今は言いにくい。
結局、追いかけてきたエステラに取り押さえられ、冷静になるよう何度も何度も言い聞かされて、ようやく俺の頭は思考をし始めたのだ。……「もっと冷静になって適切な処置をするべきだろう」と。
その後駆けつけたレジーナが自分に任せろと申し出てくれて、ウッセを伴って街門まで向かった。
門の内側にある自警団の詰め所で、マグダは血まみれになって横たわっていた。
木箱に毛布を敷いた、簡易ベッドの上で。
「血を見た後の巨乳お姉ちゃんにも、結構手ぇ焼かされたけどなぁ」
血まみれのマグダを見たジネットは、半狂乱と言ってもいいほどに取り乱し、制止する自警団を押し退けるようにしてマグダへと駆け寄った。
服が汚れることも厭わずマグダにすがりつき、その名を何度も呼んだのだ。
「あれ、下手したらとどめになるさかい、今後十分注意したらなアカンで」
怪我人を激しく揺さぶるのは逆効果だ。
止血が完了するまで下手に動かさない方がいい。
多少強引に引き剥がし、俺の説得によりなんとかジネットは平静を取り戻した。
取り乱すジネットを見て、俺は逆に冷静になれた。落ち着いて話が出来たのはそのためだ。
「……ジネットちゃんのお祖父さん、大量の血を吐いて倒れていたらしいんだよ」
不意にエステラがそんな話を始めた。
「ジネットちゃんがおつかいに行っている間に血を吐いて、そのまま意識を失ったらしい。だから……大量の血を見て動転してしまったのかもしれないね」
だからか……と、俺は思った。
あの時ジネットは、「血を吐いたのではないんですか……よかった」と、呟いていたのだ。
何がよかったのか、その時は分からなかったが……大量の吐血は死に繋がると思っているのだろう。吐血でないなら、助かるかもしれない。その思いから出た言葉だったのだ。
「けど、しばらくは様子を見てあげなよ。今のジネットちゃん、ちょっと不安定だから」
エステラの視線がドアへと向けられる。
このドアの向こうに、傷付いたマグダと、それを見守るジネットがいるのだ。
それを言うために、こいつらは二人で出てきたのか。
「まぁ、せやな。大切な人を失った悲しみは、忘れたつもりでも……ふとよみがえってくるもんやさかいな」
やり切れない思いを滲ませて、レジーナが呟く。
……そうか。
俺もそうなんだ……
マグダが怪我をしたと聞いた時、俺の頭の中は真っ白になっていた。
すぐに駆けつけなければという思いでいっぱいだった。
一緒に暮らす仕事仲間……そんな風に思おうとしても、ひとつ屋根の下に暮らせば嫌でも情が移る。
俺は、『身内』を失うのが嫌だったんだ。
あの時みたいに、『間に合わなくなる』のが、嫌だったんだ……
「ほな、顔でも見たり。今は眠っとるさかい、静かにな」
ゆっくりとドアを開け、レジーナは俺に入室を促す。
ドアの向こうには、ベッドの横に座るジネットの姿があった。
眠るマグダの顔を覗き込み、両手を組んで必死に祈りを捧げている。
「俺に出来ることはなんだ? マグダが起きたら、何をしてやればいい?」
「出来ることはウチがみんなやっといたわ。あとは時間と共に体力が回復するのを待つしかあらへんわ」
「……そうか」
こういう時、何も出来ない自分が歯がゆくなる。
「そんな顔せんときぃ。怪我人の前で辛気臭い顔さらしとったら、治るもんも治らへんわ。自分はネコの娘のそばにおって、痛そうやったら慰めてやり、しんどそうやったら寝かしつけたったらええねん。看病する言うたかて、出来ることなんかそんなにあらへんわ。それで自分を責める必要なんかないんやで」
そう言って、俺の頭をポンと叩く。
「ホンマ、でっかいのに子供みたいやな、自分」
くしゃくしゃと俺の髪を撫でる手に、妙な安心感を覚えた。
「お前……いいヤツだな」
「にょにょっ!? そ、そ、それは、嫁に来てくれっちゅうことかいな!?」
「なんでそうなるんだい!?」
俺が突っ込む前に、エステラが声を上げていた。
つか、静かにしろよ、お前ら。
騒がしい二人を残し、俺はマグダの部屋へと入る。
ベッドのそばまで来ると、ジネットが顔を上げ、俺を見上げてきた。儚くて、今にも消えてしまいそうな表情だ。
「大丈夫だ。すぐによくなる」
「…………はい」
ジネットの頭でも撫でてやろうかと思ったのだが……今触れると、砂のように崩れてしまいそうで…………俺は視線をマグダへ向けた。
いかんな。
ジネットの元気を取り戻す方法も考えなくては……
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