「ごめんください。まだやっているかな?」
顔を覗かせたのは、真っ白な仮面を付けた男。
雰囲気や、見えている肌の感じから老人だと分かる。
「申し訳ありません。今日はお休みでして……」
「コーヒー一杯で構わないんだが」
「えっと……」
ちらりと、ジネットが俺を見る。
あぁ、はいはい。言わんでも分かってる。
こうして求められた時に、ジネットの中に『追い返す』なんて選択肢は存在しない。
「いいんじゃないのか、コーヒーくらい」
「はい。では、こちらへどうぞ」
「悪いね」
「いえ。ちょうどコーヒーを淹れようとしていたところですから」
仮面の爺さんをカウンターへ誘導するジネット。
「テーブルの片付けが済んでいませんので、こちらの席で構いませんか?」
「あぁ、構わんよ。むしろ、こういう席の方が落ち着くんだ」
カウンターに合わせた椅子は少しだけ脚が長い。
爺さんにはつらいかと思ったのだが、ひょいっと椅子に上った爺さんはなかなか様になっていた。
「…………ぇ」
ジネットが、爺さんを見つめて動きを止める。
「さぁ、早く。彼の体が冷えきってしまうよ」
「あ、……はい。ただいま」
爺さんに気を取られつつ、ジネットが足を動かし――見事に転んだ。
「うきゃぅ!?」
「あははっ! ……おっと、失礼。大丈夫かい?」
「は……はい。えへへ……」
覗き込む爺さんに、照れ笑いを浮かべるジネット。
二人の間には、なんだか一種独特な空気が流れていた。
それに、あの笑い声…………あぁ、そうか。そういうことか。
「では、コーヒー、淹れてきますね」
にっこり笑って厨房へ向かうジネット。
その背中に声をかける。
「「手を洗うのを忘れるなよ」」
「はぅっ、わ、分かってますもん」
偶然にも声が重なった。
俺と爺さんの両方を睨んで、ジネットが頬を膨らませる。
そして、くすっと笑って厨房へと入っていった。
そうかそうか。
あの時――陽だまり亭が笑ったように感じたあの時――微かに聞こえた笑い声はあんただったのか。
よく来たな。
実は、ほんのちょっとだけ、会いたかったぜ。
「隣、いいか?」
「あぁ、もちろん」
爺さんの横に並んで座る。
「食うか?」
「これは?」
「ハロウィンのお菓子だ。ムム婆さんが作った『おかき』っていう、餅米を潰した物を乾燥させた後で焼いたお菓子だ」
「ほぅ……米を。なるほど、興味深い。いただこう」
醤油味のおかきを摘まみ、爺さんが一粒口へと運ぶ。
「歯、折るなよ。爺さん」
「あっはっはっ! そこまで老いちゃいないさ」
ばりぼりと、小気味よい音を響かせて爺さんがおかきをかじる。
「ほほぅ。こりゃ美味い」
「ムム婆さん、最近料理のレパートリー増やしてんだぜ」
「ほう。どうしてまた?」
「さぁ? どこぞの偏屈ジジイが甘えてくるから仕方なしに、じゃねぇの?」
「ほっほっほっほっ! そうかそうか。いや、なに。人間いくつになっても恋を忘れちゃいかんよな。ふふふ……」
愉快そうに体を曲げる爺さん。
ほうれい線をくっきり浮かび上がらせて笑う。
「爺さんは恋してんのか?」
「ん? いやぁ……」
照れではなく、穏やかな声で否定する爺さん。
「ワシにはもう、大切な家族がおるからなぁ」
「家族がいても、恋くらい出来んだろうが」
「いやいや。ワシはそこまで器用な男じゃないんだよ」
「まったく。この街のジジイどもは煮え切らない連中ばっかりだな」
そんなことを言いながら、恋を拗らせたジジイを何人見てきたことか……
「オルキオって爺さんがいてな。もともと貴族のぼんぼんで嫁がいたんだが、ワケあって離ればなれになっちまってたんだ」
「それは、切ない話だね」
「そいつがさ、『離れていても、私たちは幸せだ』とかなんとか言ってたんだよ」
「そうなのかい」
「ところが、いざ会わせてみたら、まぁ~もういちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃ、そばにイチゴを置いておいたら勝手にジャムになるくらい甘ったるい空間作り出しやがって。今は一緒に住んで『一時も離れたくない!』とか言ってんだぜ?」
「ふははははっ! 実に愉快。幸せそうでなによりだ」
大口を開けて、ヒザを叩いて笑う。
豪快な声が響く。
きっと、厨房にも届いているはずだ。
「あと、ゼルマルっていう早く死ねばいいのに一向に死にそうな気配を見せない頑固ジジイがいるんだけどな」
「ふふふ。そういう男が、得てして一番しぶといものさ」
「店に来ては悪態ばっかり吐くどーしょーもないジジイなんだよ、こいつがさ」
「なるほど。よほど君のことが気に入っていると見えるな。君なんだろう? ゼルマルに悪態を吐かれているのは」
「あぁ。弱い者いじめが好きなんだろうな。俺ばっかり標的にしやがって」
「ふふふっ、君が弱い者にはまったく見えないのだけれどね」
「バッカ、俺ほど繊細な人間はそういないんだぞ? この前、ウクリネス製じゃないパンツを穿いたら、衣擦れでお尻が真っ赤になったんだからよ」
「なるほど。そりゃ繊細だ。まるで桃のようなお尻だね」
ふほほ、と、肩を揺らして笑う。
見ているこっちが楽しい気分になってくる笑い方だ。
「あぁ、それで、ゼルマルのジジイがな、最近色気づきやがってさ」
「そのくせ、決定的な一言は伝えられずにいる――だろ?」
「そうなんだよ、あのヘタレ!」
「ふふ、それは、君が言えることなのかな?」
「言えるさ。俺はいつも正直者だからな」
おっぱいが大好きです!
ほらな?
「随分と楽しそうですね」
少し急ぎ足で、ジネットがコーヒーを持って戻ってくる。
俺と爺さんは思わずジネットの足下へ視線を向けた。
「転びませんもん!」
頬を膨らませて、お盆をカウンターへ置くジネット。
お盆の上からコーヒーを三つ、それぞれの前へと置いていく。
「君も座るかい?」
「いえ。わたしはこのお店の店長ですから。店長の特等席にいます」
「……そうかい。それは、羨ましいね」
「えへへ」
カウンターの中で、一人立つジネット。
きっと、そこが『祖父さん』の特等席だったんだろうな。
「これ、よかったら食べてください。今、陽だまり亭で作っているお菓子なんですよ」
「ほう。魚の形だね」
「たい焼きです。今川焼きとよく似ていますが……」
そこまで言って、こそっと顔を近付けて小声で囁く。
気持ち早口で。
「ウチの方が美味しいです」
「ふふ。そうか。それは楽しみだ」
冷えたたい焼きだが、それでも美味く食えるように工夫はされている。
冷えたくらいでは、四十区の今川焼きごときには負けないだろう。
「うん。美味いな」
「でしょ? うふふ。自信作なんです」
お盆を抱えて、ジネットが嬉しそうに言う。
「大変よろしい。よく出来ました」
「…………ぁ」
突如、ジネットの瞳が潤み始める。
一瞬で目尻の際まで涙が浮かび、決壊ギリギリでなんとか踏みとどまる。
そうか。
そうやって、いつも褒めてもらってたんだな。
「……えと。な、なんのお話をされていたんですか? 随分と楽しそうでしたけれど」
「あぁ。ちょっとした世間話さ。なぁ?」
「おう。主にゼルマルの悪口だな」
「えっ!?」
「あはは。バラしてしまったね」
「もう……ヤシロさん。ダメですよ」
「んじゃあ、ボッバとフロフトの悪口にするか」
「そうじゃなくて……!」
「この前、フロフトの皿に卵の殻を載せて出してやったんだよ。『ゴミ入れるな!』って言わせようと思って」
「あっ……」
その出来事を知っているジネットは、注意するのも忘れて口をぽかんと開いた。
「そしたらさ、フロフトのヤツ、バリバリ食いやがんの、卵の殻」
「……くす」
ジネットが、その時のことを思い出して笑いを必死に堪える。
「『なんで食ってんだよ!?』って聞いたら、『デザートじゃあ思ぅてのぉ』って」
「くすくす……っ!」
「『でも存外、美味いもんじゃけぇ』って。ついには『おかわり!』だってよ」
「あーははは! フロフトは昔からなんでも食べたからなぁ」
「でさ、ボッバが『そんなに美味いんかい? んなら一口寄越せ~やぁ!』って横取りして卵の殻に齧りついたんだけど、『まっず!? 卵の殻じゃねぇかや!』って、取っ組み合いのケンカになってな」
「ふはははは! 目に浮かぶようだよ、その光景が」
ばしばしとヒザを叩いて大笑いする爺さん。
そんな爺さんの前で、「笑っちゃまずい」と必死で堪えるジネット。目尻から大粒の涙がこぼれ落ちている。
「思いっきり笑った方が楽になるぞ、ジネット~」
「で、でも……ふふ…………ふふふ」
「『じゃから、卵の殻じゃあ言ぅとろう!?』『卵の殻じゃ~言われても、卵の殻だ~なんて思わんでねぇ~のよぉ!』」
「ぷくすっ! ……も、もう、やめてください、ヤシロさん……っ!」
「で、そこでゼルマルがさ、『卵の殻でケンカなんかするんじゃない! 卵は中身が一番美味いんだからな。なぁ、ムム?』『私は、親鳥のお肉が一番好きだわ』」
「むきゅ……っ! ……くすくすくすくす! も、もうダメです! あの時のゼルマルさんの驚いたお顔が……可笑しくて…………くすくすくす!」
あの日は一日、ジネットがず~っと笑っていた。
背後から近付いて『親鳥』って言うだけで思い出し笑いをするほどだった。
仲のよい、家族のような存在の笑顔。
それが、ジネットにとってどれほどかけがえのないものか。
あの日の楽しそうなジネットの顔を見て、いやというほどよく分かった。
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