ヤシロが、変だ。
「お嬢様。こちらに承認の印を」
「…………」
「お嬢様?」
「え? あ、ごめん。承認印だね」
差し出された書類を受け取って、領主の印を捺す。
狩猟ギルドのギルド長、メドラ・ロッセルから提示された条件はかなりこちら側が優遇されたもので、物凄く噛み砕いて言えば、「お宅の支部を使わせてもらう代わりにあとはこっちでやっておくから心配するな」という内容だと言える。
責任も費用も向こう持ち。得をするのはこちら。
それを、「あんたの区の近くで暴れる許可をよろしくね」と、そんな気軽さでこちらを立ててくれている。
これは、今度会ったら正式に感謝を述べておかないとね。
「これも、ヤシロのおかげかな」
メドラギルド長の初恋。
噂を耳にする度にその真剣度と凄まじさが増していく。噂話に尾ヒレが付き過ぎて、そろそろ二足歩行を始めるくらいに進化しそうだ。
まったく。
どこに行っても、誰に会っても、常識外れな結果を残すんだね、君は。
「ヤシロを模した人形を作れば魔除けに出来そうじゃないかい?」
「呪いの魔除け人形ですか?」
人形が呪われてるなら魔除けにはならないじゃないか……
「……変わりましたね、彼は」
「うん、……変わったね」
オオバヤシロは変わった。
デミリーオジ様に会いに行って、メドラ・ロッセルと遭遇し、自分の至らなさをまざまざと突きつけられたあの日。
ヤシロはへこむボクを心配して会いに来てくれた。
そして、「俺を頼れ」と言ってくれた。
嬉しかった反面、あれは素直じゃないお人好しなヤシロ流の慰めなのだと思っていた。
そこまで期待はしない。してはいけない。
ヤシロに負担をかけ過ぎることになるから。
けれど、ヤシロは本当に四十二区のために――ボクのために動いてくれた。くれている。
今までは、悪態を吐いて、やる気もなさそうに、嫌々な感じを体全体で表して、そんな目に見えるマイナス要素の裏でこっそり一人でトラブルに立ち向かってさっさと解決しちゃってさ。
最後にしれっと「ついでだ」なんて言って……
いつも君は一人で悩み、一人で決断して、一人で行動していた。
少なくとも、ボクの目にはそう映っていた。
「カレーという新しい料理が出来たのだとか?」
「うん、そうだよ。今日も食べる予定なんだ。ナタリアも来るかい?」
「そうですね。あの彼が始めたことなのでしたら、いずれ四十二区に定着するのでしょう。早めに情報を仕入れておくといたしましょう」
「素直に『食べてみたい』って言えないのかい?」
「ご馳走になります」
「……そこは素直なんだね」
そう。
カレーにしてもそうだった。
今にして思えば、あれはヤシロらしくないやり方だった。
みんなで集まって、意見を出し合って、何度も失敗を重ねて、あーでもないこーでもないって、正解の見えないものを、雲を掴むような不確かさで追い求めて……
そりゃ、ヤシロがなんでもかんでも知っているとは思っていないけれど、それでも、ヤシロなら――もっと事前に準備をして、用意万端な状態でスタートをしそうなものだけれど……
もしかしてヤシロは……
ボクたちに助けを求めたのかな?
分からないから、知恵を貸してほしいと……いや、まさかね。ヤシロがそんなに易々と自分の弱みを人に見せるとは思えない。
きっと、あの試行錯誤にも何か意味があったんだよ。
そうした方が、ボクたちのカレーに対する愛着が湧くから、とか。
実際、完成したカレーを食べた時の感動は凄まじいものだった。
「あぁ、やっと出会えたんだね」って感動すら覚えたほどだ。
……でも、それはヤシロが突然ボクたちの目の前に「これがカレーだ」と持ち込んでも同じだったかもしれない。
「お嬢様。お顔が険しいですよ」
「え……あぁ、うん。そうだね。気を付けるよ」
ダメだダメだ。
折角ヤシロがいい方向に変わってきたっていうのに、こんな顔をしていちゃダメだ。
そうだよ。
これはいい変化だよ。
これまで、何をするにも一人だったヤシロがボクたちを、仲間を頼るようになったんだ。
いろんな人と出会って、彼ら、彼女らとの絆を強くしていって、今では対等に意見を言い合えるまでにその関係を築き上げた。
ボクが望んでいた通りの変化を、ヤシロは見せてくれている。
なのに、なぜだろう。
こんなにも胸がざわつくのは。
不安が、払拭しきれないのは。
「以前にも、何度か彼から要請を受けたことはありましたが……」
感情と同時に視線が沈む中、ナタリアが淡々とした声で語り出す。
「かつてはその目的を秘匿し、こちらへのメリットを分かりやすくチラつかせることで引き入れ、結果彼自身が望む結果を得られるようにコントロールされていた。そのような印象だったのですが……」
確かにそうかもしれないね。
大事なことは何一つ教えないで、過程を覆い隠して結果だけを見せつける。
自分がそれに荷担していたってことに気付くのは、物事が終わった後。
だから、好ましい結果に終わっても、どこか臍をかむような釈然としない感情が残って、憎らしいと思ったほどだ。
けれど、今回ヤシロは明確に意図を説明している。
大人数を、それこそ街全体を巻き込んでの一大プロジェクトだから万全を喫していると言えばそれまでなのだが……果たして、ヤシロはそんなタマだろうか?
「以前は『まんまと乗せられた』という印象だったのですが、最近は『任されている』と思えるようになりました」
「君がヤシロの信用を勝ち得たという証拠だね。誇らしいだろ?」
「そう、ですね……ですが同時に…………薄ら寒いです」
その表現は、なんだかボクの胸にすっと落ちてきた。
うん。まさにそうだ。
最近のヤシロは、見ていて不安になる。
「とても厳しかった母が息を引き取る前日、私を抱きしめてくれたんです。『お前はよく出来た娘だ。私の誇りだ。生まれてきてくれてありがとう。愛している』と。……何もかもを肯定されたのは、それが最初で最後でした」
ナタリアの母親は前メイド長だった女性で、ナタリア以上に厳しく、一分の隙もないほどに完璧で、幼かったボクはあの人が本当に自分と同じ人間なのかと疑うくらいだった。
ボクに対しても、心からの笑みを見せてくれたことはなかったかもしれない。
他人にとても厳しく、それ以上に、その何十倍も自分に厳しい人だった。
その人が、最後の最後に母親としての顔をナタリアに見せた。
メイド長ではなく、100%混じり気なしの母親の顔を。
「今の彼は、あの時の母と少し似ているような気がして……落ち着きません」
「奇遇だね。ボクもだよ」
今のヤシロは明らかに変だ。
「またね」という言葉を避けるようになった。
自身が口にすることはもちろん、相手にも言わせまいとしているように思える。
そして、ジネットちゃんを気にし過ぎている。
ヤシロはジネットちゃんが変だと言うが……
もしヤシロがそう感じているのであれば、それはきっと、ジネットちゃんがヤシロの異変に気付いているからに他ならない。
ヤシロは自身の変化に気付いているのかどうか……少なくとも、他人に悟られているとは思っていないようだけれど……ジネットちゃんは、君が思っているほど鈍くはないよ。むしろ、人一倍他人の感情に敏感な女の子なんだ。
ねぇヤシロ。気付いているのかい?
君がジネットちゃんを見て覚えているその不安はね、そっくりそのまま、ジネットちゃんが君を見て抱いている不安と同じ大きさなんだと思うよ。
ヤシロはきっと、この街を去ろうとしているのだろう。
現れた時と同様に、ある日突然。忽然と。
ボクはそれを止めるつもりはない。
止める権利も、ないしね。
でも……
でもね、ヤシロ――
まだ、行かないで。
ボクを一人にしないでおくれよ。
大食い大会が終わるまでとか、街門が完成するまでとか、そういうことじゃないんだ。
ボクが君を必要としているから……
ボクには君が必要だから……
ボクが自信を持って一人で立てるようになれるまで、お願いだよ、ヤシロ――
どうか、ボクのそばにいておくれ。
甘えさせて、くれるんだろう?
頼ってもいいんだろう?
「俺を頼れ」って、言ってくれたじゃないか。
ヤシロ。
ボクにはまだ、君が必要なんだよ。
「カレー」
はっとして、顔を上げる。
ナタリアが静かな瞳でこちらを見て、静かに言う。
「楽しみです」
微かに、笑みを浮かべる。
……ナタリアは、そういう顔をしていると本当にキレイだ。母親によく似ているよ。
いや、ナタリアの方が美人かな? ……身内贔屓になるけれども。
「そうだね。ボクもお腹がぺこぺこだ」
「本当だ、真っ平らですね」
「今君が見ているのは胸!」
まったく……
ウチの有能メイドをこんなんにした責任はきっちりと取ってもらわないとね。
ちょっとやそっとの損害じゃないよ、これは。
「ヤシロにクレームを入れに行こう。ナタリア、準備して」
「かしこまりました」
執務室を出て、衣装部屋へと向かう。
夕日が差し込んでくる廊下でボクは願った。
いつの日か、君が自分の意志でこの街を出るというなら、ボクはそれを止めない。
けれどね、ヤシロ。
それは、今じゃないよね?
信じるよ。
信じさせてよ……ねぇ、ヤシロ。
どうか、君と君の大切な人が穏やかな気持ちで眠れる日が来ますように。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!