それから十一分後――
「あはぁ! 素敵っ! 素敵過ぎます! 最高です! あぁ、あなたっ!」
レーラがボーモの肖像画に縋りついていた。
面識があるなら、ベッコは寸分違わぬ本物そっくりな肖像画が描ける。
等身大ボーモのバストアップを絵にしてもらったのだ。所要時間わずか十分。あとの一分は、俺がちょっと手を加えた。
「レーラ。そんな汚れた体でボーモの肖像画にくっついていいのか?」
「はっ!? そ、そうですね……でも、手を洗うのは……」
「そんな汚れた姿をボーモに見られてもいいのか?」
「はぅ……っ! あ、あなた……見ないでください……!」
隠すんじゃなくて、見られてもいいように洗えっつってんのに……しょうがない。
「レーラ、これを見ろ」
俺は、ベッコが描いた肖像画にあとから付け足した『ある物』を指差して言う。
「ボーモが言ってるだろ、『手を洗って、清潔にするんだぞ』って」
「あぁっ!? 本当だわ! あの人がそう言っているのなら、私、今すぐ清潔にしてきます!」
猛ダッシュで二階へと駆け上がっていくレーラ。
お湯を沸かす時間さえ惜しんで、水で全身をくまなく洗い清めてくることだろう。
俺が付け加えた『ある物』とは、マンガに親しんだ者にはお馴染みの『吹き出し』だ。
ボーモの口元からぽわんと伸びる吹き出しの中に、『手を洗って、清潔にするんだぞ』という文字を書き込んでおいた。……こっちの人間にも通用するんだな、吹き出し。しゃべってるように見えたらしい。
「しかし、お見事でござるな、ヤシロ氏。遠目で見れば吹き出しがまるで目立たないでござる」
「背景にうまく溶け込ませたからな」
背景の一部に見えるような色合いと形状で書かれた吹き出し。
知らない者はきっと見落とすだろう。
折角の肖像画に吹き出しが付いていたら、間抜けだもんな。
「しかし、レーラさんを動かしただけでなく、店の雰囲気までグッと引き締まって見えるよね、この肖像画」
「はい。まるでボーモさんがカウンターに立っているようです」
さすがと言うべきか、ベッコの描いた肖像画はまるで生きているようなリアルさだ。
初代店主の肖像画が見守る店内。
それだけで、店が息を吹き返したように活き活きとして見える。
「見ててね、お父さん! 私、頑張るから!」
「僕も頑張るから、また会いに来てね、お父さん!」
ガゼル姉弟にもいい影響が出ているようだ。
飲食店に腕のいい料理人の写真が飾ってある店は、日本でもいくつも存在した。
その人物の顔を見るだけで、「なんかこの店美味そう」と思ってしまうのが人間だ。
ボーモの肖像画は、食いに来る客にもいい影響を及ぼすだろう。
しかし、颯爽と『ひらひらしたもの』が現れて……俺のこめかみに鈍痛が……
「身を清めてきました、あなたっ!」
「レーラさん!? どうしたのさ、その格好!?」
「主人と結婚する時に贈ってもらったドレスです! 主人に見られているなら、オシャレしないと……てれてれ」
「あの、レーラさん……素敵なドレスなんですけれど……それで調理を? 煙の匂いが付いちゃいますよ?」
「じゃあ、すぐに新しいドレスを新調しなきゃ!」
「いやドレスじゃなくってさ……」
「汚れてもいいドレスを!」
「えっと……どうしましょうか、エステラさん?」
「どうしよう、かなぁ……?」
影響が出過ぎなヤツもいた。
……もういっそのこと、『ドレスの料理人』とかいうイロモノ路線で攻めるしかないんじゃね? 暴走したレーラを止めるのは不可能だって、今日一日で嫌というほど分かったしよ。
「エステラ、ウクリネスに言って、邪魔にならないドレスでもデザインさせてやれよ」
「えぇ~……でもまぁ、それが一番平和かもね………………お金はボク持ちじゃないよね?」
せこいな、領主様は。
そんなに払いたくないなら、レーラの『おめかし資金』から調達しとけよ。
どうせ、旦那のための自分磨きには糸目を付けないタイプだぜ、そいつ。
「袖口と足回りをどうにかすれば、フリルエプロンのように機能的で可愛らしい物になるかもしれませんね」
「ジネットちゃん、一緒に行って意見聞かせてもらっていい?」
「はい、喜んで」
ジネットに縋りつくエステラ。
ウクリネスもエステラも、厨房に立つことはなさそうだしな。プロの目から見た意見を聞くといろいろ発見もあるだろう。
「かうしゃー、おっきゅすきゅん!」
ボーモの肖像画を見つめているガゼル姉弟に、テレサが声をかける。
瞳に、強い意志を滾らせて。
「おとーしゃ、みてぅ、から。けいさん、がんばろーね!」
「「…………う、うん……」」
目、逸らしたー!
って、おいこら。お前らのために会計を簡単にしてやったんだろうが。この表くらいはさっさと使いこなせるようになれ。
「じゅーるーべーのおさらが、はちまい、だったら?」
「「はちじゅうるーべん!」」
「にじゅーるーべーのおさらが、ろくまい、だったら?」
「「ろくにじゅうるーべん!」」
「よし、ちょっとこっちに集まれガキども。……駆け足!」
ガゼル姉弟は掛け算の意味をはき違えている。
というか、理解しようという気概が見えない!
お前ら、そのまま自分本位に生きていると…………母親みたいになるぞ!
いいのか!?
あんな人間になっても!
嫌だろ!?
俺は嫌だ! あんなのが増えるのは!
「というわけで、今日は開店までの時間…………みっちり勉強を教えてやるから、そこに座れ。…………返事は?」
「「は…………はぁい……」」
「ぁい! あーしも、おべんきょー、すゅ!」
ただ一人元気のいいテレサ。うんうん。テレサはいい娘だなぁ。あとでお菓子でもあげようかなぁ。いいこいいこしてやろうかなぁ。
教師が依怙贔屓したくなる気持ち、よく分かるなぁ。
「ヤシロ。教え子に手を出さないようにね」
「出すか、こんな未発達どもに」
「あの……発育のいい娘にも……ダメ、ですよ?」
教え子にはぁはぁしちゃう教師の気持ちは分からんな。
ガキよりも、狙うはPTA!
子持ちのママさん! なんかいい響き!
…………あ、こいつらの母親ってレーラとウエラーか……ないわー。
「じゃー、べんきょーするかー」
「あぁっ、なぜか急激にヤシロさんのやる気が!?」
「アホなことやってないで、ボクたちがウクリネスのところに行っている間、きちんと教えてあげるんだよ。いいね」
「へいへーい」
「『へい』は一回!」
「エステラさん……『はい』でなくていいんですか?」
エステラがジネットを引き連れて店を出ていき、ベッコは「では、四十二区で食品サンプルを欲している人物を探してくるでござる!」と元気に帰っていった。
というわけで、肖像画の前でクルクル踊るレーラと、テーブルの前でうな垂れるガゼル姉弟と、いいこのテレサが残った。
「んじゃ、勉強を始めるか」
「「はぁい」」
「ぁい!」
とはいえ、基礎を教える必要はない。
会計に必要な部分だけをピンポイントで覚えればいいのだ。
「きちんと覚えられたヤツには、キャラメルポップコーンと綿菓子をご馳走してやろう」
「がんばります!」
「ます!」
「ましゅ!」
ガキはこうやって釣るに限る。
……テレサは、頑張らなくてももう出来てるけどな。
「ケーキも付けば、もっと頑張れます!」
「ます!」
「ましゅ!」
「……てめぇら……はぁ、分かった。食わせてやるから、死ぬ気で頑張れ」
「「はいっ!」」
「ぁい!」
こうして、開店までのわずかな時間、ヤシロお兄さんによる算数教室が開催されたのだった。
……その間、レーラはずっと踊ってた。…………気が散るっつの。
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