二十九区領主の館を出ると、マーゥルはほっと息を漏らした。
「あぁ~。久しぶりだったわ、こんなに緊張したのは」
晴れやかながら、どこか恨みがましそうな顔でマーゥルが言う。
そもそもは、お前が望んだことだろうが。
館の庭をだらだらと歩きながら、マーゥルと二人で会話をする。
ジネットたちの片付けが終わるまでの時間潰しだ。
「欲しい物を手に入れるには、相応の代償が必要ということだな」
「相応かしら。なんだか、払い過ぎた気分よ」
「よく言うぜ。俺らはお前の何倍走り回ったと思ってるんだよ?」
「でも、見返りも大きかったでしょう?」
現在、あの会議室の中では今後のあれやこれやを領主たちが話し合っている。最終的な決定はもう少し後になりそうだが、エステラは好条件を引っ張り出してきてくれることだろう。
「ふざけたことをしたら、また遊びに来るから」と伝えたところ、連中、揃いも揃って嫌そうな顔してやがったからな。
ジネットたちの後片付けが終わり次第、俺たちは先に四十二区へ帰るつもりだ。
なぁに、新しい通路を通ればすぐそこだ。置いて帰っても泣きゃしないだろう、エステラも。
先に帰って、エステラが持ってくるであろう旨みのある儲け話を期待して待っているとしよう。
大小様々な儲け話が転がり込んでくるだろうからな。
なかでも、明確にメリットとなるのが豆だ。
外周区での豆の栽培は確実に行われるようになるだろう。
それに関する罰則的な課税は行われない。なにせ、今後は豆不足が予想されるからな。それに、余りそうなら別の豆を作ればいい。
豆と言ってもコーヒー豆やカカオは、大豆やエンドウとは根本的に異なる植物だ。
連作障害の心配もない……って、この街に関して言えば、年中無休で畑を酷使しても植物は立派に育ってくれるんだけどな。無敵かよ、この世界の土。
「それでも、お前の方がメリットはデカかっただろう?」
マーゥルがずっと欲していた物。そいつが完成したんだ。
欲しい物は手に入れ、手に入らない物もなんとか手中に収めようとあの手この手で画策し続けていたマーゥル。
持て余していた大量の豆の消費先を手に入れ、ずっと欲していた変わった新人給仕を手に入れ、そして、本来なら二度と手に入ることのなかった領主の権限の一部を手に入れた。
もっとも、マーゥルが望めば権限のすべてをゲラーシーからぶんどることは可能だった。それをしなかったのは、マーゥル自身の考えからだ。
こいつはもう、領主へのこだわりを持っていない。
いらないと思っているのだろう。
いや、それ以上に欲しい物があり、それは領主になるとますます手にしにくくなる。
だから、足枷になるような権限は受け取りを拒否して、領主の美味しいところだけをいただいたというわけだ。
スイカの一番美味いところだけを一囓りしたような感じだな。贅沢者め。
「でも、本当に素敵な物が出来たわね。アレがあるだけで、頑張ってよかったと思えるわ」
そんなマーゥルが、最も欲しかった物。
それが――
「これで、いつだって四十二区へ遊びに行けるわね」
――四十二区への直通の通路だ。
結局、こいつはこれを作らせたかったのだ。
もしかしたら、ハムっ子洞窟の存在も知っていたのかもしれない。
「どこまで知ってたんだ?」
「あら、なんのことかしら?」
すっとぼけるマーゥル。
今さら知らんぷりする必要もないだろう。怒りゃしねぇし、ただの興味本位だ。
「あの洞窟の存在や、アレを作ったのがハムっ子どもだってこと、そして、そいつらと領主を同時に納得させて動かせる可能性があるとすれば――それはたぶん俺だろうってこと……そこら辺の事情だよ」
マーゥルは、通路を作らせるために四十二区に協力を申し出た。
セロンから聞かされていた『英雄様』の話に期待を寄せて。
「セロンを使って俺に接触を試みたあんたは、まんまと自分の望むルートに俺たちを乗せたんだ」
タイミングよく新人給仕のオーディションを開催して、それを俺たちに見せたり、ゲラーシーと自分の関係を教え『自分は動けない』という点を強調し、俺たちだけで行動させたり……その辺がもう仕込みだったのだ。
「トレーシーとドニスにだけ会わせたのも、今となっては納得できるんだ」
俺たちが日和見の二十六区領主や、目先の利益を欲する二十八区領主に会っていれば、おそらく各個撃破して味方に引き込むことは出来ていただろう。
それも、ドニスを味方にするよりももっと簡単に。
だが、それをさせなかった。
二十三区領主と会談前に会っていれば、本格的に流通の話で折り合いをつける算段をしていただろう。
それこそ、湿地帯を外して三十区へのルートを模索したかもしれない。
だが、それをさせなかった。
「トレーシーとドニスは、純粋にこちらの味方になってくれる人材だった。利益の共有という打算的な利害関係ではなく、金の向こうにある信頼関係を構築出来る、パートナーに打ってつけの……甘ちゃんどもだった」
「うふふ。DDが聞いたら腰を抜かすかもしれないわね。『甘ちゃん』だなんて」
「いや、お前に『DD』なんて呼ばれる方が腰を抜かすだろう、あいつは」
「じゃあ、『ドニぴっぴ』にしようかしら?」
「やめろ……サブイボが出る」
全身鳥肌だ。
ドニぴっぴは金輪際封印してくれ。
「あの二人でなけりゃ、多数決を操って制裁を撤回させるだけで終わっていたかもしれない……まぁ、可能性の話だから、なんとでも言えちまうんだが……おかげですげぇ面倒くさい目に遭わされたってことは確かだな」
まさか、豆板醤を以前から知っていたってことはないだろうから、麹工場を理由にドニスを俺たちに紹介したのは偶然なのだろう。
麹工場がなくとも、『BU』最大の豆の利益を上げる重鎮となれば、紹介する理由はいくらでもある。
「豆の生産量と、偏った流通路による通行税の大小……うまいこと『BU』の欠点を俺らに知らせて目を背けられなくしたってわけだ」
「うふふ。買い被り過ぎじゃないかしら。そこまで上手に人心を操れるかしら、私に」
「操る必要はねぇさ。ダメならダメで、また次の機会に――それで十分なんだからな、お前は」
何がなんでも勝たなければいけなかった四十二区とは、絶対的に立場が違った。
お前はただ、いつか来るチャンスを虎視眈々と狙っていればいいだけだ。
それが今回、思いの外うまくいったというだけのことだ。
二十五~二十八区辺りを各個撃破しておけば、多数決はこっちの勝ちだった。
だがそれでは、マーゥルが望むような改革は出来ない。
結束を壊され、形骸化させられ、『BU』は一層弱く、貧しくなるだけだった。
「だから、情に訴えかけようとした。『微笑みの領主』なんて呼ばれている、新参の甘ちゃん領主に」
「それは違うわ」
エステラを利用したのではないと、明確な否定を寄越すマーゥル。
その目は真剣だった。
「期待したのよ。望みをかけたの。……これまでには存在しなかった、新しいタイプの領主様に」
エステラほど甘い領主は存在しない。
あんなに甘ちゃんじゃ、領民に食いものにされ、統率を失うのが常だ。
きっと、四十二区の連中が軒並みアホでお人好しだから成り立っている関係なんだろうな。
「あなたがいたから、彼女は優しいままでいられるのね。今回のことで、それがよく分かったわ」
穏やかながら、確信を持った声で、マーゥルが言う。
「あれは、お前のせいだ」と。……濡れ衣だ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!