「では、ギルベルタ。私たちは帰るぞ」
「……え」
ルシアの言葉に、ギルベルタが目を丸くする。
その驚きが周りにまで感染して、空気が固まる。
「何を驚いているのだ。私はそなたを迎えに来たのだぞ。さぁ、馬車を待たせてある。支度をしなさい」
「いえ……ですが、今日はお泊まりを……私は」
「ダメだ」
取り付く島もないような断言。
これは説得してどうこうなる雰囲気ではない。
そもそも、無断で職務を放棄してここに来ているのだ。領主自ら迎えに来たこの状況で、さらにわがままを通すことは不可能だろう。
「…………」
それが分かっているのだろう。ギルベルタは俯いて唇を結んだ。
反論は、出来ない。
「ギルベルタにはしてもらわなければならない仕事が残っている。今日中にな。それはそなたの責任でもある」
「…………はい」
重い、とても重い声だ。
絶望感すら滲ませている。
ギルベルタの隣で、ジネットが泣きそうな顔をしている。
マグダやロレッタも、何も言えずただ心配するような表情を浮かべるに留めている。
「…………はい」
もう一度、掠れるような声でギルベルタが返事する。
二度目の返事は、自分の心に整理をつけた合図なのかもしれない。
つまり、ギルベルタは諦めたのだ。
やるせない空気が広がっていく。
「…………ご迷惑をおかけしました、私は。まいりましょう、馬車へ」
……ったく。
どうして俺の周りにはこう手のかかるヤツばっかりが…………
「ギルベルタ」
俯いたまま歩き出したギルベルタを呼び止める。
立ち止まるも、こちらへは振り返らない。振り返ると、未練が残るとでも思っているのだろうか。
構わずに、ギルベルタの背中に話しかける。
「今度はちゃんと招待してやるよ」
首が微かに跳ね、曲がっていた背筋がゆっくりと伸びる。
「そ、そうです! きちんとご招待しますので、その際はお仕事を終え、後顧の憂いなく、是非遊びにいらしてください」
「……ご招待…………してくれるのか、友達のヤシロと、友達のジネットが」
微かに首をこちらに向けるギルベルタ。
表情はまだ見えないが、声は、幾分明るくなっている。
「俺とジネット、及び、陽だまり亭従業員全員からのご招待だ。拒否するような無礼は許さん」
「……友達のヤシロ」
ようやく、ギルベルタがこちらへ顔を向ける。
瞳は不安に揺れていたが……口元は嬉しそうに緩んでいた。
「主人の説得に手こずるようなら俺に言え。力を貸してやる」
「わ、わたしもっ! ……微力ながら、お手伝いします、ね?」
「……マグダも一肌、ロレッタに至っては全部脱ぐ」
「なんであたし全裸なんです!? 一人でバカみたいじゃないですか!?」
陽だまり亭従業員が並んで、お客様のお見送りをする。
そして、陽だまり亭を代表してジネットが一同の気持ちを代弁する。
「またのお越しを、心よりお待ちしております」
ぱぁっと、ギルベルタの表情に笑みが広がり、思わずといった感じでルシアへ視線を向ける。
ギルベルタが浮かべた満面の笑みを真正面から見て、ルシアはスッと顔を背けた。
そんなルシアの行動にギルベルタが不安そうな表情を見せるが……大丈夫だ。それは同意だと受け取って問題ない。
お前があまりに嬉しそうに笑うもんだから、反論する言葉が見つからなかったんだよ。だから、視線を逃がしたのさ。
きちんと仕事を片付けさえすれば、きっと許可が下りるだろう。
「ギルベルタ」
言葉を発さない三十五区の領主に代わり、四十二区の領主がギルベルタに言葉をかける。
「領主と給仕は信頼関係で結ばれているものだよ。ね、ナタリア」
「そうですね。もし、主に何か頼みたいことがあるのでしたら、職務を全うすることで誠意を見せるのが最良なのではないかと思います」
「誠意……職務を全う…………確かに、言う通りと思う、私は」
「それに、ルシアさんの器の大きさは、君が一番よく知っているだろう?」
エステラの一言が効いたのか、ルシアは小さく「……ふん」と鼻を鳴らした。
それは、もう肯定したようなもんだろ。
「ルシア様……?」
「先のことなど分からぬ。……が。私は、そなたを信用している。誰よりもな」
「はいっ! 同じ気持ちです、私もっ!」
あちらもあちらで、他人には量り得ない信頼関係で強く結ばれているのだろう。
滅多にこんな会話はしないのだろうが、改めて言葉にしたことで何かが変わったように思う。特にギルベルタの中では。
瞳に自信が表れている。
他人からの指示を忠実にこなすことに長けた給仕長が、今度は自分の意志で、自分のために行動を起こそうとしている。
そして、そんな成長を――主は嬉しく思っている。そう感じた。
「必ず招待に応える、私は。きちんと許可を得て、改めてやって来る、この場所に!」
「はい。お待ちしていますね」
「うむ! 待っていてほしい思う、私は」
キラキラと輝く瞳がこちらを向く。
本当に嬉しそうな顔をする。
「その時は、一緒に寝てくれるか、友達のヤシロは?」
「それを実行すると、俺、各方面から殺意を向けられるからさ……冗談でもそういう発言やめてくれるかな?」
ルシアはもちろん、その他、各方面から手厳しいお叱りを受けること必至だ。
今、この瞬間、ものすげぇ視線刺さってるからな。
「普通に遊びに来い。仕事を片付けてな」
「分かった! 頑張る、私は!」
両手で拳を握り大きく頷く。
そして、見違えるほど軽やかな足取りでルシアを先導するように歩き出す。
歩き出す直前ルシアが俺へと視線を向けてきた。
ほんの少しだけ恨めし気なニュアンスのこもった視線ではあったが……あの目は、「ギルベルタに粗相を働くとどうなるか……分かっているな?」って目だ。つまり、「ギルベルタをよろしく」ってことだろう。
なんだかんだといって、結構甘い領主なんだな。
「では明日、待っておるぞ」
最後にそう言い残して、ルシアは帰っていった。
「んじゃ、俺はちょっとウェンディのところへ行ってくるな」
「はい。暗くなってきましたので、気を付けてくださいね」
「ボクが付いてるから大丈夫だよ」
「……ヤシロ。エステラに気を付けて」
「どういう意味かな……マグダ?」
「お、襲うです……?」
「するわけないだろう!?」
エステラがマグダ、ロレッタと遊んでいる間に、ネフェリーとミリィに声をかけておく。
「相手出来なくて悪いな。まぁ、ゆっくりしていってくれ」
「うん。気を付けてね、ヤシロ」
「ぁ……いってらっしゃい」
ネフェリーとミリィは俺に向かって手を振ってくれる。
「じゃあ、ディナータイムは任せたぞ」
「はい。任されました」
「……マグダがいるから大丈夫」
「あたしも頑張るです!」
三人とも、もうすっかりプロの顔だ。
ジネットはともかく、他二人も頼もしくなったものだ。出掛ける際の心配が少なくていい。
そんな面々に見送られて、俺は陽だまり亭を出発する。
賑やかな連中の視線を背中に感じながら暗くなった空の下を歩く。
途中でナタリアと別れ、セロンのレンガ工房を目指す。
大通りから細い路地に入ったところで、エステラがこちらを見ずに呟いた。
「どうなるんだろうね」
「明日のことか? それとも、これからの四十二区か?」
「どっちも……かな」
どっちもか。
なら、そんなもん……
「なるようにしかならないだろう」
「……うん。だね」
不安はある。
だが、恐れてはいない。
前に向かって進んでりゃ、いつかはどっかにたどり着く。
人生なんてそんなもんだ。
もともと、予想なんか出来るもんじゃないからな。
暗い道を歩いていても、近くに誰かがいてくれるだけで随分と心強いものだ。
人生ってのも、きっとそんなもんなんだろうななんて、そんなことを考えてしまった。
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