静かな屋敷の中で、聞こえるのはワタクシとヤシロさんの声だけ。
そういえば、以前もそんなことがありましたわね。
「明るければ、二人きりでも怖くありませんわね」
「え? ……あぁ、深夜の無人屋敷な。新築であれだけ怖いって、相当レアケースだぞ」
「新居だから怖かったのですわ。人が住めば、屋敷の隅々に思い出が生まれ、刻み込まれていきますわ」
そう言って、ワタクシは厨房の床を指さして、そこに出来ている傷の誕生秘話を話して差し上げましたわ。
「この傷は、こっそりつまみ食いをしようとして大鍋をひっくり返した際に出来たものですの」
「お前、何やってんだよ?」
「……めちゃくちゃ怒られましたわ…………」
「そりゃそうだ」
「『なぜあと十分が待てないのか』と……」
「反論の余地もねぇな」
いい思い出もろくでもない思い出も、みんな含めて……
「この屋敷には、もうすでにたくさんの思い出が刻み込まれていますの。今なら、深夜でも怖くはありませんわ」
暗い廊下を歩いても、昼間にそこであった出来事を思い起こせば怖さなど吹き飛びますわ。
ここは自分の居場所なのだと思えれば、何も怖くない…………
「ですから、ヤシロさん」
どうか……
「思い出を、なくさないでくださいまし」
ワタクシと共に過ごした日々を。心に刻み込んだ時間を。
「まっさらになったあなたを見たら、怖くて泣いてしまうかもしれませんもの」
ワタクシが泣くと、あなたは困るのでしょう?
なにせ、ワタクシの涙を止められるのは、お母様以外では、ヤシロさん――あなたしかいないのですから。
「まったく……」
嘆息して、ヤシロさんはオーブンの蓋を開けました。そして、ミトンを使ってアップルパイを取り出しました。
こんがりと焼き目のついたアップルパイは目にも楽しく、美味しそうで……
「どこまでも自分本位でわがままだな、イメルダは」
……一瞬、その言葉を聞き逃しそうになりましたわ。
「…………え?」
「さぁ、切り分けて食おうぜ」
「今っ! …………名前を……?」
「ん? あぁ…………よくよく考えたらおかしな話だよな」
もぞもぞと、服の中に手を入れて胸元をまさぐるヤシロさん。
そうして、引き出された手には、小さな種が…………
「イメルダみたいな強烈なキャラ、忘れるわけないのにな」
――っ!
「え……えぇ……、そうですわよ! ほんの一時と言えど、ワタクシの麗しい名前を忘れるなんて、重大な罪ですわ」
嬉しい……
名前を呼ばれるのが、こんなに嬉しいだなんて……
「それじゃあ、罪科に処されるとするか。ほれ、罪滅ぼし」
悪びれることなく言って、出来たてのアップルパイを一切れ差し出すヤシロさん。
また、そんな屈託のない笑みを浮かべて…………あなたくらいですわよ、ワタクシに無礼を働いてこの程度で済まされる人は。
「いただきますわ」
焼きたてのアップルパイはとても熱く、サクッと小気味よい噛み心地で、程よく甘く、程よい酸味がイヤミなく……とても美味しいものでしたわ。
それはもう、素直に称賛することを躊躇わないほどに。
「……美味しい、ですわ」
「ん~! けど、もっと美味いんだよな、女将さんのは!」
「想像できませんわね、これ以上に美味しいアップルパイなんて」
焼きたてだからでしょうか、陽だまり亭のアップルパイよりも美味しく感じますわ。
ワタクシが今まで食べてきたアップルパイの中では間違いなくナンバーワン。それ以上があるなんて、ワタクシにはとても……
「第三位ってことにしとくか」
「……三?」
「二番が女将さんのアップルパイ」
「一番はなんですの?」
何気なく問うた質問。
どうせまた何かの言葉遊びでもするのだろうと油断をしていたワタクシに、ヤシロさんは黙って人差し指を向けました。
意味が分からず首を傾げると、その唇からこんな言葉が発せられて――
「それよりもたぶん、お前の母親が作ってくれた料理の方が美味い。お前にとってはな」
――胸が、苦しくなりましたわ。
泣いたりは、しませんけれど…………それでも……
「俺の知る限り、最高の腕前を誇る二大料理人を超えるなんて……お前の母親は、相当大切に思ってたんだな、イメルダのことを」
そんなことを、さも当然のことのように……
「お前のことを思って、心を込めて作らなきゃ、そんな料理出来るはずないからな」
ワタクシが、誰かに言ってほしかった言葉を……こんなにも簡単に……
「イメルダ。お前、愛されてたんだな」
…………あなたという人は、どこまで……っ!
「ヤシロさん。二つお願いがありますわ」
胸がつかえる。けれど、アップルパイをなんとか飲み込んで、早口で捲し立てる。
顔を見ることは出来ませんけれど……声だけは、震えないように……
「『母親が我が子のために心を込めて作った料理に勝てるもんなどあるわけない』……そう、おっしゃいましたわよね」
「あぁ」
「なら、これからももっと美味しいものをたくさん作って食べさせてくださいまし。その度にワタクシは、お母様の想いに触れられる気がしますの」
「……しょうがねぇなぁ。適度にだったらな」
「それ、から…………」
声が……震える…………
ダメ、ですわ。もう少し、もう少しだけ我慢なさいまし、ワタクシ。
「口の中が熱いですわ。火傷の可能性も否定できませんので、至急、給仕を呼んできてくださいまし」
「え、おい。大丈夫か?」
「給仕を! ……至急…………ですわ」
「あ……。ん。分かった。じゃあちょっと呼んでくるわ」
察しのいい方ですわね、本当に。……助かりますわ。
「ヤシロさん」
「ん?」
遠ざかる足音に、一言だけ。
「ありがとう……ございますわ」
「……ん。お互い様だ」
遠ざかっていく足音は軽やかで……少し寂しくも、なぜかほっとして…………
「ぅう…………っ、うぅっぅうっ!」
我慢できずに、涙が零れ落ちていきますわ。
ヤシロさん……あなたはもしかしたら、ワタクシがお母様を思って泣いていると、お思いかもしれませんわね。
半分はそれで正解ですわ。
ですがヤシロさん。もう半分は……
「やはり……ワタクシは………………あなたのことが……っ」
そばにいるだけで安心できる。
つらい苦しみをなくしてくれる。
いつだって、新しい世界を見せてくれる。
こんなにも依存している自分を自覚し、それではいけないと独り立ちしようと頑張ってみても…………やっぱり、あなたといると満たされてしまう。
ヤシロさん。
ワタクシの涙の半分は……あなたが優しいから、ですのよ。
責任を取ってくださいましね。
責任を取って……いつまでも、ワタクシのことを、忘れないでいてくださいましね。
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