個室。
それは、俺だけが存在するプライベートスペース。
何人たりとも、この聖域を侵すことは許されな……
「お兄~ちゃ~ん! いつまでこもってるです~!?」
騒音が俺の聖域に割り込んでくる……
だが、そんなことで心を乱されることなどない。俺はこの聖域にいる限り無敵……
「も~ぅ、いい加減にしないとドア壊しちゃうですよ~……あ、開いてるです?」
聖域のドアが開けられた。
「人がトイレに入ってる時にドアを開けるんじゃねぇよ」
「うおぅっ!? まぶしっ!? 眩しいです、お兄ちゃん!?」
俺が小一時間トイレに立てこもり、懸命に便器を磨き上げていたところへ、ロレッタが乱入してきた。
「お腹でも壊してこもっているのかと思いきや……お掃除してたですか?」
「おう! トイレを綺麗にするとな、美人になるんだぜ!」
「…………さっぱり意味が分からないですが?」
まぁ、そりゃそうか。
「いくらお店が暇だからって、一時間もトイレを占領されると困るです」
「なんだ、トイレか? していいぞ。俺は邪魔にならないように便器を磨いているから」
「邪魔ですよ!? 物凄く邪魔ですからね、それ!?」
「お前っ、トイレを独り占めする気か!?」
「トイレは普通そういうもんですよっ!? で、今まで占領してたのはお兄ちゃんですよ!?」
まったく、何も分かっていないヤツだ。
飲食店において、水周りの清潔さがいかに大切か……そこが綺麗なだけで、どれだけ客に与える印象が変わると思ってるんだ……
「俺はな。入った瞬間に眼球が潰れるくらいに便器を輝かせたいんだ!」
「やめてです! 全力でやめてほしいです!」
水周りの重要さを理解しないロレッタに強制的に連れ出されてしまった。
おのれ、俺の使命を……俺の夢を……っ!
「あ、ヤシロさん。お掃除終わりましたか? ご苦労様です」
「やぁ、なに! 大したことじゃない! あ、そうだ! 今度は庭の草むしりをしてこよう! うん、そうしよう! じゃあな!」
ロレッタの腕を振り解き、俺は大急ぎで庭へと飛び出す。
「…………はぁ。ダメだ……」
今朝のことがあって、ジネットの顔がまともに見られない……
祖父さんの話を聞いて……ジネットの過去の話を聞いて……俺は思わずジネットを抱きしめてしまったのだ。
「あぁ…………なんてことをしちまったんだ……」
くそ、せめて「おっぱいぽぃ~んで腕が回らなかったぜぇ!」とか、ウィットに富んだジョークでもかましておけば、まだ普通に接することが出来ただろうものを……
「はぁぁあ…………草、むしろう……」
考えても仕方ない。
こういうのは時間が解決してくれる。
つか、ジネットがすげぇ普通なんだよな…………なんとも思ってないのか?
ちょっと前は、俺がどこかに行こうとするだけで寂しそうな顔をしていたってのに、最近は一人ぼっちになることへの不安を見せないようになっている。
大会の後からだ。
…………まさか、大会で恋の芽が………………?
「うん、ないな」
ないない。あり得ない。あるわけがない。
そう思える理由?
んなもん、『俺が認めないから』だよ!
「あら、ヤシロちゃん。珍しいわねぇ。お仕事してるの?」
聞き覚えのある声がして、顔を上げる。
と、ムム婆さんが梅干しみたいなシワシワの顔をして立っていた。
「婆さんを見ると、炊きたての白飯が食いたくなるな」
「あらあら、そうなのぉ? うふふ」
この婆さんには、どんなイヤミも皮肉も通用しない。ある意味、最強のポジティブ人間なのだ。ポジティブというか、どんな悪意をも吸収昇華してしまう善意の塊のような婆さんなのだ。
…………即身仏?
「拝んでいいか?」
「あらあら。お迎えには、まだちょっと早いみたいだけどねぇ」
……この婆さん、どんな悪口も世間話に変えちまいそうだな。
「ジネットなら中にいるぞ」
「あら、そう。あ、そうだ。ねぇ、ヤシロちゃん」
食堂に入ろうとした婆さんが、手を叩き、くるりとこちらを振り返る。
「コーヒーゼリー、『てーかーとー』出来ないかしら?」
「……『テイクアウト』か?」
「そうそう、それそれ。ダメかしらねぇ?」
テイクアウトとなると、弁当箱に詰め込むことになるが……
「今んとこは出来ないな」
今後考えるにしても、今は無理だ。そういうサービスをやっていない。
例外を認めるといろいろ厄介なこともあるしな。
品質が落ちるとか、最悪、食中毒とか……
「あら……そう……。まぁ、しょうがないわよね。ごめんなさいねぇ、変なこと聞いて」
一瞬だけ落ち込んだ婆さんは、息を吸うように機嫌を直し、ルンルン気分で食堂へと入っていった。
……なんか、気になるな。
俺は立ち上がり、たまたまいいタイミングで「あ、ヤシロさん。ご飯食べに来たッスー!」と現れたウーマロの服で手についた土を拭き、食堂へと入った。
「ちょっと!? いきなり何するんッスかぁー!?」
「あれ、ウーマロ。いたのか?」
「無意識っ!? 無意識でこの仕打ちッスか!?」
なんか喚いているが、まぁ気にする必要もないだろう。
だってウーマロだし。
「ジネットちゃん。こんにちは」
「あ、ムムお婆さん! こんにちは!」
相変わらず、ジネットは婆さんを見ると嬉しそうな顔をするな。
やっぱご利益でもあるのかな?
「いつものお茶でいいですか?」
「あ、今日はね、違うのよぉ」
「違う?」
「実はねぇ、お薬をもらいに来たの」
「ム、ムムお婆さんっ、どこか具合が悪いんですか!?」
顔色を変え、ジネットが婆さんに駆け寄る。
肩に手を添え、まじまじと顔を覗き込む。
「あらあら。違うのよぉ。私じゃないの」
「あ……違うんですか……よかった」
ホッと息を漏らし、でもすぐさま不安げな表情で婆さんに尋ねる。
「どなたか、具合の良くない方がいらっしゃるんですか?」
「えぇ。ジネットちゃん、ゼルマルって、覚えてる? ほら、あの厳つい顔の」
ゼルマル。聞いたことがない名前だ。
「はい。覚えています。お祖父さんとよく……あの、ケンカを」
「そうそう。陽だまりの祖父さんといつも口喧嘩してた、あのゼルマルよ」
祖父さんの知り合いらしい。
ってことは、そのゼルマルもジジイなんだろうな。
「アレがねぇ……ちょっと熱を出しちゃってねぇ……全然下がらないのよ」
「そんな……っ!?」
ジネットの顔が真っ青になる。
まぁ、婆さんや祖父さんの知り合いなら、ジネットにとっても大切なジジイなんだろう。心配もするだろうな。……つうか、ジジイババアが一気に増えてどのジジイか分かんなくなってきたな……
「そんな……歩けないほどお悪いんでしょうか……?」
「うぅん。そんなことないのよ。今朝もね、わたしんところまで来て『おかゆ作れ』とか『看病しに来い』とか、わざわざ言いに来たんだから。大通りの向こうに住んでるのに、わざわざよ。ふふふ……全然元気なのよ」
じゃあ野放しにしといても大丈夫だろう。
つか、そのジジイ、この婆さんに惚れてるのか? …………見たくないなぁ、よぼよぼラブストーリー。
「それでね、『だったら、ジネットちゃんのところに薬があるから、もらってきなさい』って言ったんだけど……アレ、偏屈でしょう? 陽だまりの祖父さんが亡くなってから、な~んでか意固地になっちゃって、ここには来たくないって……」
「……そう、ですか…………」
「あら……あらあら、あの……ごめんなさいね。わたしったら……あら……」
『ここには来たくない』
そんな言葉が、ジネットに刺さったのだろう。
祖父さんの古い知り合いに拒絶されるのはつらいようだ。
まぁ、俺が来てから一度も見たことがないからな。ずっと避けられてたんだろうな。
「でも、あまり酷くないようで安心しました。お薬、渡してあげてください。それから………………」
何かを言いかけ、やめる。そして、再び口を開いて出てきた言葉は……
「『お大事に』と、伝えてください」
……おそらく、最初に言おうとした言葉とは違うものだったのだろう。
これは推測でしかないが、最初にジネットが言おうとした言葉はこうだ。
『また、陽だまり亭に来てください』
そう、伝えたかったに違いない。
ジネット検定準一級同等の資格を持つ俺にかかれば、顔を見ただけでそれくらいのことは読み取れるのだ。
ったく。しょうがねぇな。
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