華やかな大通りを抜けてさらに奥。潮の香りが徐々に和らぎ、代わりに花の甘い香りが漂う区域に足を踏み入れる。
三十五区の街は、街門から離れるにつれ少しずつ静かで落ち着きを増していく。まぁ、『寂れていく』と言い換えることも可能だが。
それでも、そこはさすが三十五区。
人通りが減って街並みが寂れても、四十二区より小奇麗に見える。
こんなに差があるんだなぁ……四十二区もまだまだこれからだな。うん。
「この先に大きな花園がありまして、そこにはアゲハチョウ人族をはじめ、さまざまな虫人族が暮らしているんです」
先を行くウェンディが、旅行代理店の店員のように説明をしてくれる。
心なしか、表情が晴れやかに見える。やはり、なんだかんだで故郷の空気は落ち着くものなのだろう。
「この花園に咲く花はとても甘い蜜を蓄えていまして、ここでその蜜を飲むのが若い虫人族たちのステイタスなんです」
原宿でクレープ、みたいなもんか。
ウェンディが指さす先は小高い丘になっていて、その花園とやらはまだ見えてこない。
しかし、花の放ついい香りがもうすでに辺りを埋め尽くしている。少し酔いそうなほど、濃い香りだ。
「いい香りですねぇ」
「女子としては、心躍らずにはいられないよね」
ジネットとエステラが楽しそうに会話している。
女子的には、こういう香りは有りなのだろう。俺はちょっときつ過ぎると思うが……まぁ、アロマとか、好きな人は好きだもんな。オシャレ女子にとっては、コレくらいでちょうどいいのかもしれない。
「…………クッサ。鼻曲がってまうわ」
「うん。お前はそうだろうな、レジーナ」
誰憚ることなく、潔いまでに堂々と鼻を摘まむレジーナ。
お前はこっち側の人間だろうと思ってたよ。
「ウェンディさんは、花園で蜜を飲んだりされていたんですか?」
花の香りと、ほっこりするような暖かな陽気に、ジネットが笑みを漏らす。
少し汗ばむような気温にストールを外したウェンディは、そんなジネットの問いに小さく首を振った。
「いいえ。私は、もっと幼い時にここを離れましたので。それに……」
そして、隣にいるセロンへと視線を向ける。
「ここの蜜は、『カップルで』飲むのが流行りなんです」
「よし、レジーナ。『火の粉』の使い道が決まった」
「気持ちは分かるけど、自制してや。花園大火災なんか起こしたら、火の粉の輸入が禁止されてまうわ」
ちっ……ダメか。
「それじゃあ、ウェンディさん。今回、初めて飲めるかもしれませんね」
「へ……」
手を合わせ、祝福するような声音で言うジネット。お節介な感じはせず、純粋にその事実を喜んでいるように見える。
ウェンディも、そんな言葉に相好を崩し、セロンを見つめて「……はい」と呟いた。
視線がぶつかったセロンとウェンディは、共に恥ずかしそうに俯いて頬を桃色に染めていた。
「よし、レジーナ。『火の粉』の使い道が決まった」
「おかしいなぁ。この二人を祝福するためにここまで来たって、さっき聞いたような気がするんやけどなぁ。気のせいやったんやろか?」
くっそ……このイチャラブカップル……の、男の方も燃やしちゃダメなのか。
嘆かわしい! あぁ嘆かわしーなー!
「あ、見えてきたよ。花園だ!」
何気に、ジネット以上に花園を期待しているのであろうエステラ。散歩が好き過ぎる飼い犬のように前のめりで前進していく。もしリードで繋がれていたら、首が絞まることも厭わず「ピーン!」としていることだろう。
「嬉ションすんなよ」
「すっ、するわけないだろう!? バカなのかい!? バカなんだね!?」
なんかもう、エステラが犬にしか見えなくなってきた。
なんか芸でも教えてやろうかな。
「エステラ」
「なんだい?」
「お手」
「ぅっぇえええええっ!?」
スッと手を差し出すと、エステラが素っ頓狂な絶叫を上げて、ズザザザーっと遠ざかっていった。
無い胸を押さえて顔を真っ赤に染める。
「そ、そそ、それ、それって……は、花園に、て、て、手を繋いで入りたいって……そ、そういうこと、かな?」
いや、犬に芸を教えようかと…………って、ん? 花園に手を?
この花園は、カップルで蜜を飲むのが流行っている、いわばリア充のメッカで、そこを前に手を差し出すってことは………………「恋人のように手を繋いで、一緒に花の蜜を飲もうぜ……二人っきりでな☆」というメッセージに…………
「んなっ!? 違っ!? いや、違うぞ、エステラ! そういう意味じゃない!」
「そ、そういう意味って、な、な、な、なにさ!? ど、どういう意味さ!?」
「だ、だから、こ、恋び……とにかくっ! お前は犬だ!」
「誰が犬なのさっ!?」
えぇい、うるさい!
真っ赤な顔をしてこっちを見るな!
怒ったように眉毛を吊り上げながらも、ちょっとだけ不安げな色を瞳に滲ませるな! なんか、期待しているように見えるんだよ、その顔! いやいや、気のせいだって分かってるけどな! つか、気のせいでないと、なんつうか、ほら、……い、いろいろ困んだよ!
「とにかく! 手のひらを上に向けて『お手』って言われたら、ここに手を載せて『わん!』って言うのがルールなんだよ! そういう芸なの!」
「だから、なんでボクが犬扱いされてんのさ」
「お前が嬉ションするからだろうが!」
「してないわっ!」
しそうな勢いってのは、それはつまり、もはやしたも同然なんだよ!
汲み取れよ、そこんとこ!
「まぁ、赤髪はんは、犬っころみたいに従順やさかいな。可愛がりたぁなる気持ちも分からんではないわなぁ」
「だ、誰が従順なのさ!? ボクほど天邪鬼な人はいないと自負しているよ!」
「いや、それは自慢してえぇことちゃうやろ……」
キャンキャンと吠えるエステラは、まさに子犬のようだった。
「他にはどんな芸があるんやろうなぁ?」
レジーナが俺に視線を向ける。
……う~っわ、イヤなニヤケ顔。「手ぇ繋ぎたいんやなくて、芸やっちゅうんやったら、他にどんなんがあんのんか、言うてみ? え、言うてみたらえぇやん?」とでも言いたそうな顔だ。
あぁ、いいだろう。言ってやろうじゃねぇか。
「『お座り』とか『伏せ』とか」
「赤髪はんには、ちょっと難しいんとちゃうか?」
「出来るわ! ……いや、しないけどね!」
あと、何があったっけな……?
「あとは、……『ちんちん』」
「……載せるんか?」
「載せるか!」
お手の派生じゃねぇから!
手出して載せられたら、その犬ぶっ飛ばすから!
「あぁ、もう! 俺が悪ふざけしたのが悪かったよ! だからもうさっさと行こうぜ!」
こんなところで桃色タイフーン吹かしてる場合じゃねぇんだよ。
時間がないんだ、時間が!
ナタリアも待たせてるし!
そうだ! 俺たちは急いでいるんだ!
……だから、ごめん。もう勘弁してくれ。
「ヤシロさん」
ささくれだった俺の心を癒すように、太陽のような笑みを浮かべてジネットが俺の前にぴょこりんと跳ねるように進み出てくる。
あぁ……暗雲に覆われた俺の心が照らされていくようだ。
ジネットは嬉しそうな顔で、スッと俺に手を差し出してくる。
そして――
「お手」
――とても、とても嬉しそうにそう言った。
…………えっと。
「それは、『手を繋ぎたいなぁ』ってラブラブアピールなのか、『お前はわたしの犬なのよ』という飼い主アピールなのか、どっちだ?」
どっちにせよ、反応に困るんですが?
「あ、あのっ、いえ! 特に、そういう深い意味はないんですが……その…………ちょっとやってみたくなりまして……すみません、出来心です」
差し出した手を慌てて引っ込めて、胸の前でギュッと握りしめる。
さも、「この右手が粗相をしてすみません」とでも言うように。
……うん。恐ろしい場所だな、花園。
いつものノリが大惨事を引き起こす。大火傷どころの騒ぎじゃないもんな。
……これだからリア充のたまり場は…………爆ぜろ! そうだ、全部リア充どもが悪い!
「花園にいるカップル、みんな破局しろー!」
「なんてこと言うんですか!? じょ、冗談でーす! 今のはなしですよー!」
別に、誰が聞いているわけでもないのに、ジネットが慌てて訂正する。
そんな、口にした言葉がすべて実現する世界でもないだろうに。
「ねぇ、セロン」
「なんだい、ウェンディ?」
「うふふ……『お手』」
「え~……もう、しょうがないなぁ。はい、お手」
「うふふ」
「あはは」
「爆ぜればいいのに」
「自分。どす黒い感情隠そうともせぇへんその姿勢は、ある意味男らしいとは思うけど、自重しぃや?」
俺は、別にリア充どものイチャラブシチュを提唱するつもりもなければ、「こんなお戯れどうでしょう」と紹介するつもりもないんだよ! 真似すんな! ……つか、俺はそういうことやりたいんじゃねぇわ!
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