それは、ボクが四十二区の領主になって初めての……いや、ボクが生まれてから初めて起こった騒動だった。
それは静かに、でも確実にこの街に忍び寄り、そして少しずつ脅威の種をまき散らしていたのだ。
そう、まるで身体をむしばむ毒素のように。
むしばまれた者に自覚はなく、気が付いた時には取り返しのつかないことになっている。そんな、甘い猛毒のように。
それが始まったのがいつなのか、ボクには分からない。
けれど、その騒動に気が付いたのは、紛れもなくあの瞬間だった。
あの日。
らしくない人物が、らしくない深刻な顔でボクに会いに来た、あの日――
「エステラ様。ご面会のお客様です」
「面会?」
変に神妙な表情を見せるナタリアに違和感を覚えつつも、ボクは窓の外へと視線を向ける。
日はとうに落ち、空は真っ暗。
書斎で書類とにらめっこするのもそろそろ切り上げようかと思っていた頃合いで、つまりそれは、面会に訪れるにはあまりに非常識な時間帯だということだ。
「領主になったとはいえ、ボクはレディだよ? こんな非常識な時間に面会に来るような人とは会えないよ」
「それはそうなのですが……」
ナタリアが言いよどむ。
こんな時間に、こちらの迷惑も顧みずに押しかけてくるのはヤシロくらいで、もし面会人がヤシロであれば、ナタリアはボクの許可も得ず勝手に招き入れてしまう。……その点に関しては、いつかじっくりと話し合う必要があるかもしれないけれど。
しかし、今回はボクに伺いを立てに来た。
それは、本当に珍しいことなのだが、ナタリアが判断に迷っているということだ。
「正直に申しますと、私も戸惑っているのです。普段でしたら、ウィットに富んでほのかにエロスの薫る小粋なジョークで弄った後に追い返すところなのですが……」
「……要するに、そーゆーカテゴリーの人間なんだね」
「ですが……」
言いよどむナタリアは、なんとも複雑な表情をしていた。
職務を全うするべき給仕長としての立場と、気心の置けない友人――その友人は高確率でボクの友人でもあるわけだけれども――の、望みを聞いてやりたいという思い。そんな二つの感情の狭間で揺れ動いているような、そんな表情だ。
「いいよ。通して」
ナタリアが迷うということは、規律を乱してでも話を聞いてやりたいような相手なのだろうし、そんな人物なら、ボクだって力になりたいと思うことだろう。
「申し訳ありませんでした。エステラ様に判断を委ねるような真似を」
「いいよ。ボクは領主だからね。決断はボクの領分さ」
「……お強く、なられましたね」
誰かさんのおかげでね――とは、口に出さずに、軽い笑みを返しておく。
ナタリアは静かに頭を下げて書斎を出ていく。
さ~て、一体誰がやって来るのかなぁ……と、何人かの顔を頭の中に浮かべていたのだけれど、実際に現れたのは予想外の人物だった。
「夜分遅くに、ごめんなさいです」
「……ロレッタ?」
そして、予想外の訪問者は、予想外なほど神妙な面持ちで、この上もなく予想外なことを言ってきた。
「実は、あたし…………四十二区を離れようかと、考えているです」
「えっ!?」
そう言ったロレッタの顔は、決して冗談を言っているような表情ではなく……けれど、決してそうしたいと望んでいるわけではなく、それすらも考慮しなければいけないような深刻な悩みを抱えているのだとよく分かるような表情で――
「悩みがあるなら、ボクより前に相談する相手がいるだろう?」
ボクは、この妙な胸騒ぎから逃れるように軽い口調でアドバイスをした。
「君の職場にいるじゃないか、この街一番のお人好しがさ」
「いえ……あの…………」
それで万事うまくいくと思っていた。
ロレッタがどんな悩みを抱えていようと、きっと彼なら――ヤシロならうまくやってくれると。
けれど。
「お兄ちゃんには、内緒にしておいてほしいんです」
「…………え?」
それが、一番予想外の言葉だった。
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